◆語尾上げしゃべりに、違和感あるじゃないですか
【Upspeak, Uptalk】
続き。
昨日のブログで7月30日(水)に「WOWOWぷらすと」(ニコ生でインターネット生放送)に出演するという告知をしたが、その中で、『オルタ・カルチャー』という書籍について触れた。それつながりで、今日はこんなお話を。
~~~
ブーム。
1990年代にはいってから、いわゆる「語尾上げしゃべり」というのが流行した。これと、語尾に「~じゃないですか」とつけるしゃべり方が出始めた。僕はどちらの言い方も初めて聞いたときにぞっとして、それ以来ずっと大嫌いで、自分が人前でしゃべるときには絶対に使うまいと思った。(僕は、これらの言葉に「ぞっとする」という感性を大事にしたいと思っている) それから20年くらい経った今、「語尾上げ」はまあ、ほとんどなくなったが、「じゃないですか」は、けっこう定着してしまった感はある。「語尾上げ」は今聞いてもぞっとするが、「じゃないですか」は聞く側として慣らされてしまったのか、「語尾上げ」ほどぞっとしなくなっているのが困る。(笑) 人間は慣れの動物だ。「~~じゃないですか」と言われると「~~じゃありません!(キッパリ)」と言いたくなるのだ。w
さて、そんなことはしばし忘れていたが、愛読している岩佐徹氏のブログ『岩佐徹のOFF-MIKE』(2014年7月10日付け)で、テレビでまだ語尾上げしゃべりをしている人がいる、と書かれていてびっくりし、またこの現象に思いを巡らせることになった。
岩佐氏のコラム(2014年7月10日付け)
http://toruiwa.exblog.jp/20893041
僕は自分がなぜこの二つが嫌いなのか、一時期けっこう考えた。何か同じようなにおいを感じたから病根は一緒なのではないかとおぼろげに考えた。
そうした感覚は持っていたが、はっきりわかってはいなかった1996年、ひょんなことからアメリカの本『オルタ・カルチャー(原題: alt.culture)』(スティーヴン・デイリー、ナサニエル・ワイス編著、吉岡正晴・日本語版監修)の翻訳・編集作業を手伝うことになり、その解答のひとつに巡り合った。
これは実におもしろい本で、若者の「カウンター・カルチャー」を「オルタナティヴ・カルチャー」(=傍流カルチャー、メインストリーム・保守本流に対抗するカルチャー、かつていわれたサブ・カルチャーと同意味)という言葉でくくり、それらの現象、言葉をABC順に並べ、約900項目を辞書のように編纂したものだった。項目の中には、オルタナティヴな活動をする個人の名前やメイカーなどの固有名詞、現象の説明、インターネット関連の新しい言葉などなどが出てくる。ひとことでわかりやすく言えば「サブカル・辞典」のようなものだ。
それがこの本だ。現在も中古で安く手に入る。そうしたオルタ・カルチャー(サブ・カルチャー)に興味のある方は安いので手に入れられるといいと思う。1996年の作品なので、取り上げられる事象はそこまでなので、かなり古い部分はあるが、半分以上は今でも使え、参考になったり、資料になったりする。
~~~
シンクロニシティー(同時性)。
そして、この本の中に、なんとアメリカでも語尾上げしゃべりが流行っているということで、それが一項目として載っていたのだ。
ここでは、Upspeak アップスピーク、もしくは、Uptalk アップトーク、と呼ばれ、その項目で、こんな説明がなされていた。
「オルタ・カルチャー」から引用↓
U5(Uの項目5番目の意味)
アップスピークUpspeak
別名「アップトーク」。語尾を上げて話す話し方。語尾のイントネイションを高くし、あたかも疑問形にしたような話し方? ロス・アンジェルスの「ヴァレー・スピーク(ヴァレー言葉=ロスのヴァレー地区に住む人たちの独特のしゃべり方)」は、それをかなり誇張しているが、おそらく、それが発生地と思われる。しかし、アップスピークは、80年代中頃に広まった十代の若者の習慣として出現している。近年その特有の「イントネイションの調子、抑揚」は、ひとつの言語体系に変化するおそれがある。質問するような語調は、優柔不断か服従、無関心を言外に意味できるが、1992年のテキサス女子学生クラブの言語研究では、アップスピークがもっとも一般的にグループのリーダーたちに使われたことがわかり、自信のなさそうな響きが注意を引いたり、聞き手を巻き込んだり、意見の一致をしいることの方法だと指摘する?
引用ここまで↑
出典元:『オルタ・カルチャー』(日本語版、リブロポート)(スティーヴン・デイリー、ナサニエル・ワイス編著、吉岡正晴・日本語版監修)494ページ
原稿の「?」のところは、もちろん、語尾を上げて読む。(笑) 「~指摘する?↗」
この語尾上げしゃべりが日本だけでなく、一足先にアメリカでも流行りだしていたというのに心底びっくりしたが、どこでも同じ現象が起こるんだなあ、と妙なシンクロニシティー(同時性)に感心した。
~~~
理由。
このときにもいくつかリサーチをして得た分析を簡単にまとめると次のようなものだ。きっと、その頃、ブログかなにかをやっていたら、書いていたと思う。
語尾上げしゃべりをする根底には、自分で「私はこのことをこう思います」という断定を避け、「私はこう思うけど、あなたはどう思う?」という自分の主張への同意、あるいは、断定しないことによって、仮に考え方があなたと違っても、私も完全にはこう思っていない、というあいまいさがある。物事を何事も決めつけず、あいまいにしておこう、対立軸を作らないでおこうという時代の空気感がとてもよく出たしゃべり方だ、というのが分析だ。
「~~じゃないですか」も基本は同じで、こちらはもう少し話者が強気なのだが、自分の考えに同意を求めるが、一応相手にも相手が考えるスペースを残している。
つまり、どちらのしゃべり方も、相手との関係性をあいまいにして、はっきりした対立を防いでおこうというメンタリティーが出ている言葉使いなのだ。
たぶん僕はそのあたりにある種の「気持ち悪さ」を直感的に感じたのだと思う。
そして、ほぼ同時期に、日本語では「~~みたいな」という言葉が若者を中心に大ブームになった。これなどは、とんねるずあたりがテレビで広めたような気がしているが、瞬く間に広まった。これも、なんとアメリカでも「~~like」(みたいな)という使い方で、まったく同じように若者の間で流行り、「オルタ・カルチャー」で一項目として取り上げられていた。
これも、断定を避け、現象をオブラートに包み、そのことをはっきりさせずに、相手との対立を避ける様子がうかがえる。つまりいずれの言い方も、断定を避けること、相手との決定的な対立を避け、すべてをあいまいにしておこうとすること、が大前提になっている。
この「~~みたいな」は最近あまり聞かなくなったような気がするが、どれも僕があまりテレビをみなくなったせいかそういう言葉に触れる機会が減っただけのことかもしれない。いずれによせ、若者言葉というのはアメリカも日本も同じように流行るのだということがとてもおもしろい。そして、流行り廃りがあることも興味深い。
これらの言い方について、上記の「オルタ・カルチャー」の項目で指摘された「優柔不断か服従、無関心を言外に意味する」「自信のなさの表れ」というのもひじょうに納得ができる。そして、これらはその前の時代から言われてきた「モラトリアム世代(猶予世代)」の流れを汲む。その流れはおそらく大なり小なりアメリカでも日本でも同じなので、その空気感から生まれる新しい若者のメンタリティーや言葉は似たり寄ったりになってくるのだろう。
特にテレビなどで意見をしゃべる人は、こうした話し方は、上記の理由であまりよろしくないわけだ。おもしろいのは、文字では比較的こうしたメンタリティーは如実に表れない。
僕個人は、たぶん、そうした白黒はっきりさせないしゃべり方、相手に決断をゆだねるようなしゃべり方が性に会わないのだと思う。「語尾上げしゃべり」って違和感あるじゃないですか…。w
~~~
日本版。
このアメリカ版「オルタ・カルチャー」を見て、日本版「オルタ・カルチャー」も出ることになった。
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もうひとつ最近、僕が耳障りにおもっているいい回しに、「~~ですし~~」で次々と文章を続けていくものがある。そこで、一度、文章切ればいいじゃないですか?(笑)
あれはなんで流行ってるのだろうか、そして、なぜ僕には違和感があるのだろうか。いずれその理由をつきとめてみたい。もし何か、なぜならこうだ、という見解がある方は教えてほしい。
ESSAY>Upspeak, Uptalk
【Upspeak, Uptalk】
続き。
昨日のブログで7月30日(水)に「WOWOWぷらすと」(ニコ生でインターネット生放送)に出演するという告知をしたが、その中で、『オルタ・カルチャー』という書籍について触れた。それつながりで、今日はこんなお話を。
~~~
ブーム。
1990年代にはいってから、いわゆる「語尾上げしゃべり」というのが流行した。これと、語尾に「~じゃないですか」とつけるしゃべり方が出始めた。僕はどちらの言い方も初めて聞いたときにぞっとして、それ以来ずっと大嫌いで、自分が人前でしゃべるときには絶対に使うまいと思った。(僕は、これらの言葉に「ぞっとする」という感性を大事にしたいと思っている) それから20年くらい経った今、「語尾上げ」はまあ、ほとんどなくなったが、「じゃないですか」は、けっこう定着してしまった感はある。「語尾上げ」は今聞いてもぞっとするが、「じゃないですか」は聞く側として慣らされてしまったのか、「語尾上げ」ほどぞっとしなくなっているのが困る。(笑) 人間は慣れの動物だ。「~~じゃないですか」と言われると「~~じゃありません!(キッパリ)」と言いたくなるのだ。w
さて、そんなことはしばし忘れていたが、愛読している岩佐徹氏のブログ『岩佐徹のOFF-MIKE』(2014年7月10日付け)で、テレビでまだ語尾上げしゃべりをしている人がいる、と書かれていてびっくりし、またこの現象に思いを巡らせることになった。
岩佐氏のコラム(2014年7月10日付け)
http://toruiwa.exblog.jp/20893041
僕は自分がなぜこの二つが嫌いなのか、一時期けっこう考えた。何か同じようなにおいを感じたから病根は一緒なのではないかとおぼろげに考えた。
そうした感覚は持っていたが、はっきりわかってはいなかった1996年、ひょんなことからアメリカの本『オルタ・カルチャー(原題: alt.culture)』(スティーヴン・デイリー、ナサニエル・ワイス編著、吉岡正晴・日本語版監修)の翻訳・編集作業を手伝うことになり、その解答のひとつに巡り合った。
これは実におもしろい本で、若者の「カウンター・カルチャー」を「オルタナティヴ・カルチャー」(=傍流カルチャー、メインストリーム・保守本流に対抗するカルチャー、かつていわれたサブ・カルチャーと同意味)という言葉でくくり、それらの現象、言葉をABC順に並べ、約900項目を辞書のように編纂したものだった。項目の中には、オルタナティヴな活動をする個人の名前やメイカーなどの固有名詞、現象の説明、インターネット関連の新しい言葉などなどが出てくる。ひとことでわかりやすく言えば「サブカル・辞典」のようなものだ。
それがこの本だ。現在も中古で安く手に入る。そうしたオルタ・カルチャー(サブ・カルチャー)に興味のある方は安いので手に入れられるといいと思う。1996年の作品なので、取り上げられる事象はそこまでなので、かなり古い部分はあるが、半分以上は今でも使え、参考になったり、資料になったりする。
~~~
シンクロニシティー(同時性)。
そして、この本の中に、なんとアメリカでも語尾上げしゃべりが流行っているということで、それが一項目として載っていたのだ。
ここでは、Upspeak アップスピーク、もしくは、Uptalk アップトーク、と呼ばれ、その項目で、こんな説明がなされていた。
「オルタ・カルチャー」から引用↓
U5(Uの項目5番目の意味)
アップスピークUpspeak
別名「アップトーク」。語尾を上げて話す話し方。語尾のイントネイションを高くし、あたかも疑問形にしたような話し方? ロス・アンジェルスの「ヴァレー・スピーク(ヴァレー言葉=ロスのヴァレー地区に住む人たちの独特のしゃべり方)」は、それをかなり誇張しているが、おそらく、それが発生地と思われる。しかし、アップスピークは、80年代中頃に広まった十代の若者の習慣として出現している。近年その特有の「イントネイションの調子、抑揚」は、ひとつの言語体系に変化するおそれがある。質問するような語調は、優柔不断か服従、無関心を言外に意味できるが、1992年のテキサス女子学生クラブの言語研究では、アップスピークがもっとも一般的にグループのリーダーたちに使われたことがわかり、自信のなさそうな響きが注意を引いたり、聞き手を巻き込んだり、意見の一致をしいることの方法だと指摘する?
引用ここまで↑
出典元:『オルタ・カルチャー』(日本語版、リブロポート)(スティーヴン・デイリー、ナサニエル・ワイス編著、吉岡正晴・日本語版監修)494ページ
原稿の「?」のところは、もちろん、語尾を上げて読む。(笑) 「~指摘する?↗」
この語尾上げしゃべりが日本だけでなく、一足先にアメリカでも流行りだしていたというのに心底びっくりしたが、どこでも同じ現象が起こるんだなあ、と妙なシンクロニシティー(同時性)に感心した。
~~~
理由。
このときにもいくつかリサーチをして得た分析を簡単にまとめると次のようなものだ。きっと、その頃、ブログかなにかをやっていたら、書いていたと思う。
語尾上げしゃべりをする根底には、自分で「私はこのことをこう思います」という断定を避け、「私はこう思うけど、あなたはどう思う?」という自分の主張への同意、あるいは、断定しないことによって、仮に考え方があなたと違っても、私も完全にはこう思っていない、というあいまいさがある。物事を何事も決めつけず、あいまいにしておこう、対立軸を作らないでおこうという時代の空気感がとてもよく出たしゃべり方だ、というのが分析だ。
「~~じゃないですか」も基本は同じで、こちらはもう少し話者が強気なのだが、自分の考えに同意を求めるが、一応相手にも相手が考えるスペースを残している。
つまり、どちらのしゃべり方も、相手との関係性をあいまいにして、はっきりした対立を防いでおこうというメンタリティーが出ている言葉使いなのだ。
たぶん僕はそのあたりにある種の「気持ち悪さ」を直感的に感じたのだと思う。
そして、ほぼ同時期に、日本語では「~~みたいな」という言葉が若者を中心に大ブームになった。これなどは、とんねるずあたりがテレビで広めたような気がしているが、瞬く間に広まった。これも、なんとアメリカでも「~~like」(みたいな)という使い方で、まったく同じように若者の間で流行り、「オルタ・カルチャー」で一項目として取り上げられていた。
これも、断定を避け、現象をオブラートに包み、そのことをはっきりさせずに、相手との対立を避ける様子がうかがえる。つまりいずれの言い方も、断定を避けること、相手との決定的な対立を避け、すべてをあいまいにしておこうとすること、が大前提になっている。
この「~~みたいな」は最近あまり聞かなくなったような気がするが、どれも僕があまりテレビをみなくなったせいかそういう言葉に触れる機会が減っただけのことかもしれない。いずれによせ、若者言葉というのはアメリカも日本も同じように流行るのだということがとてもおもしろい。そして、流行り廃りがあることも興味深い。
これらの言い方について、上記の「オルタ・カルチャー」の項目で指摘された「優柔不断か服従、無関心を言外に意味する」「自信のなさの表れ」というのもひじょうに納得ができる。そして、これらはその前の時代から言われてきた「モラトリアム世代(猶予世代)」の流れを汲む。その流れはおそらく大なり小なりアメリカでも日本でも同じなので、その空気感から生まれる新しい若者のメンタリティーや言葉は似たり寄ったりになってくるのだろう。
特にテレビなどで意見をしゃべる人は、こうした話し方は、上記の理由であまりよろしくないわけだ。おもしろいのは、文字では比較的こうしたメンタリティーは如実に表れない。
僕個人は、たぶん、そうした白黒はっきりさせないしゃべり方、相手に決断をゆだねるようなしゃべり方が性に会わないのだと思う。「語尾上げしゃべり」って違和感あるじゃないですか…。w
~~~
日本版。
このアメリカ版「オルタ・カルチャー」を見て、日本版「オルタ・カルチャー」も出ることになった。
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もうひとつ最近、僕が耳障りにおもっているいい回しに、「~~ですし~~」で次々と文章を続けていくものがある。そこで、一度、文章切ればいいじゃないですか?(笑)
あれはなんで流行ってるのだろうか、そして、なぜ僕には違和感があるのだろうか。いずれその理由をつきとめてみたい。もし何か、なぜならこうだ、という見解がある方は教えてほしい。
ESSAY>Upspeak, Uptalk