Quantcast
Channel: 吉岡正晴のソウル・サーチン
Viewing all articles
Browse latest Browse all 5376

★●ナタリーとアリーサの「インセパラブル(切り離せない)」なストーリー (パート1)

$
0
0

★●ナタリーとアリーサの「インセパラブル(切り離せない)」なストーリー (パート1)

【Aretha Sings Tribute For Natalie On Next Day Of Her Passing (Part 1)】

トリビュート。

2015年12月31日、ナタリー・コールが長い闘病生活の末、65歳で亡くなった。翌1月1日、コネチカット州で行われたコンサートでアリーサ・フランクリンはその死に触れ、ナタリーへ追悼の意を込めて、ナタリーの代表曲のひとつ「インセパラブル」を自身ピアノを弾きながら歌った。


(その動画)
Queen of Soul Aretha Franklin Remembers the late Natalie Cole
https://www.youtube.com/watch?v=5wWqHl309rM



「Inseparable
That's how we'll always be
Inseparable
Just you and me
It's so wonderful
To know you'll always be around me
(インセパラブル~引き裂けないもの、切り離せないもの。私たちは、ずっとこれからも離れられないもの。インセパラブル~あなたと私、あなたがずっと私のそばにいてくれるってどれほど素晴らしいことでしょう)」 

ナタリーの死を知らない観客もいる中で、しっとりと情感を込められたアリーサの声と歌唱がその会場を感動に包み込んだ。

この曲をめぐるナタリーとアリーサの切っても切り離せないお話(インセパラブルなストーリー)をしよう。

~~~

絶対女王。

1968年2月29日、ロスアンジェルスのセンチュリー・プラザ・ホテルなど(当時は複数の会場で発表式があった)で1967年度分(第10回)のグラミー賞が発表された。

この年、グラミー賞に新設された部門があった。そのひとつが「ベスト・リズム&ブルーズ・ソロ・ヴォーカル・パフォーマンス・フィメール(ベストR&B、女性シンガー部門)」だ。その前年(1966年度、第9回)まではR&B部門は「ベストR&Bレコーディングス」「ベストR&Bソロ、男性あるいは女性」「ベストR&Bグループ、ヴォーカルあるいはインストゥルメンタル」の3部門だけだった。それが1967年度分から男性シンガーと女性シンガーがそれぞれ別の部門になったのだ。

この時の女性部門の候補がアリーサ・フランクリンの「リスペクト」、エタ・ジェームスの「テル・ママ」、グラディス・ナイト(&ザ・ピップス)の「アイ・ハード・イット・スルー・ザ・グレイプヴァイン(悲しい噂)」、ニーナ・シモーンの「ユール・ゴー・トゥ・ヘル」、カーラ・トーマスの「ザ・クイーン・アローン」の5作品/アーティストだった。

そしてこの中から見事にグラミーを獲得したのが、アリーサ・フランクリン(1942年3月25日生まれ)だ。受賞日時点でアリーサは25歳、他の候補はエタ30歳、グラディス23歳、ニーナ35歳、カーラ25歳だった。格から言えばニーナ・シモーンが取っても不思議はなかったが、「リスペクト」のあまりの大ヒットぶりが彼女に初のグラミーをもたらした。

アリーサのこの受賞は誰もが納得したが、ただこれがその後続く絶対的な「アリーサ王朝」の始まりだったことを予測する者はいなかった。

驚くことなかれ、アリーサはこの1967年度分から1974年度分まで8年連続でこのグラミー賞「ベストR&B女性」部門を獲得、これは彼女の「指定席」となり、彼女はR&B界の「絶対クイーン」となっていく。この浮き沈みの激しい音楽業界で、しかも業界最大のお祭りグラミー賞で同一部門8年連続獲得という記録は史上、他に例はない。それほどの大記録になった。

この8年間、少し先輩のエタ・ジェームス(1938年生まれ)は1968年、1973年、1974年と同部門にアリーサとともにノミネートされるが、ことごとくアリーサに苦杯を舐めさせられる。他にもニーナ・シモーン(1933年生まれ)、ルース・ブラウン(1928年生まれ)、ティナ・ターナー(1939年生まれ)といった先輩アーティストたちも挑戦するがいずれも若きアリーサの鉄壁に阻まれてきた。

~~~

1974年。

アリーサは、以後も大ヒットを次々と放ち、音楽業界でも誰もが認める女性シンガーのトップとなった。そして、ソングライターやプロデューサー、アレンジャーなら誰もが彼女のために曲を書きたい、自分が書いた曲をアリーサに歌ってほしい、アレンジに参加したい、あわよくばプロデュースしたいと思うようになっていた。

シカゴのまだ無名だった若く野心あふれるソングライター、プロデューサー・チーム、マーヴィン・ヤンシー(1950年5月31日生まれ~1985年3月22日死去)とチャック・ジャクソン(1945年3月22日生まれ~)もそんな2人だった。

彼らは仲間とR&Bヴォーカル・グループ、インディペンデンツを結成し、1972年に「ジャスト・アズ・ロング・アズ・ユー・ニード・ミー」でデビュー。1973年に「リーヴィング・ミー」というソウル・バラードがソウル・チャートで1位、ポップ・チャートでも21位、ゴールド・ディスクを記録するヒットを送り出していた。

しかし、彼ら2人は表立ってステージに上がるより、曲を書いたり、レコードをプロデュースすることをもっとやりたいと考えていた。その頃の彼らの夢はアリーサ・フランクリンに自分たちの曲を歌ってもらうということだった。そこで彼らは自作曲をアリーサ・フランクリンのもとに送り、売り込んだ。

ゴールド・ディスクのヒットも放ったという若干の実績を背景に自作曲を売り込んだ彼らだったが、ヤンシー&ジャクソンが書いた作品は1曲を除いてことごとくアリーサから却下された。ヤンシーによれば、「それらの楽曲は、アリーサのスタンダード(平均点)にまったく届かないもの」と判断されたようだ、という。

しかし、アリーサは彼らが書いた「ユー」という曲を気に入り、録音する。

https://www.youtube.com/watch?v=ZkrE_S36-B0



ちょっとシカゴ・ソウル調のなかなか聴かせるバラードで、アリーサはこの曲をなんと次のアルバムのタイトル曲に抜擢する。ヤンシー&ジャクソンにとっては一つの大きな夢がかなった形となった。

『ユー』のアルバムはジェリー・ウェクスラーとアリーサが共同プロデュースしているもので、1974年の『レット・ミー・イン・ユア・ライフ』、『ウィズ・エヴリシング・アイ・フィール・イン・ミー』のアルバムに続く作品として1975年10月にリリースされる。

新人。

しかし、ヤンシー&ジャクソンの曲は大半が使われず、失意の頃、彼らはシカゴで友人の紹介でまったく無名の新人シンガーと出会った。それがナタリー・コールだった。

当時のあらゆる女性シンガーのアイドルはアリーサだったが、ナタリーにとってもそれは同じで、アリーサはあこがれの存在、そして、尊敬する存在だった。だからナタリーは自らのステージでもアリーサの曲などを歌っており、アリーサ並に歌もうまかったので、ヤンシー&ジャクソンは「ネクスト・アリーサ」「ヤング・アリーサ」という逸材を発見したと喜び勇んだ。彼らはナタリーをプロデュースして売り込むことを考え、デモ・テープ作りに入る。そのとき、彼らがナタリーに提供した作品群が、なんとアリーサがボツにしてきたものだった。

しかし、このデモ・テープはあちこちのメジャー・レーベルからことごとく拒絶され、最終的にキャピトル・レコードが注目し、契約。ナタリー・コールは、1975年5月「ディス・ウィル・ビー」や「インセパラブル」を含むデビュー・アルバム『インセパラブル』でデビュー。すぐにヒットとなり、ナタリーは一挙に若き新たなスターになっていく。

ヤンシー&ジャクソンがアリーサに聴かせたデモ・テープの中に、「インセパラブル」があったかはわからない。ただ、そのうちの何曲かはナタリーによってヒットしたことは間違いないようだ。もし自分がボツにした曲を自分より若いシンガーが歌い大ヒットさせたことを見たら、クイーンの心中や穏やかでなかったことは想像に難くない。

アリーサが、ナタリーのヒットを見てヤンシー&ジャクソン作品の楽曲「ユー」をアルバム・タイトルにしたのかどうかはわからないが、ナタリーをスターにした新進気鋭のプロデューサー、ヤンシー&ジャクソンに一目置いたことは間違いない。

(この項続く)

Inseperable / Unpredictiable
Inseperable / Unpredictiable
posted with amazlet at 16.01.08
Natalie Cole
Raven [Australia] (2007-10-09)
売り上げランキング: 135,758


ENT>ARTIST>Franklin, Aretha & Cole, Natalie

Viewing all articles
Browse latest Browse all 5376

Trending Articles