●カシーフとの思い出(パート3)~ジャッキー・ロビンソン邸
【Memories About Kashif : Jackie Robinson’s House】
(1983年7月、トライベッカのロフトでカシーフにインタヴューした翌年、彼と再会する。彼はマンハッタンから45分ほどのコネチカット州スタンフォードに豪邸を買っていた)
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1年後。
1983年7月の出会いからちょうど1年。1984年7月、僕はカンサス・シティーでジャクソンズの『ヴィクトリー・ツアー』を観戦し、その帰り道にニューヨークに2-3日寄ることにした。
カシーフに連絡を取ると、前年にいたトライベッカのロフトは引き払い、ニューヨークの隣コネチカット州スタンフォードという街に大きな家を買ったという。まだ引っ越したばかりだが、遊びに来い、という。そこでグランド・セントラルから電車に乗って、スタンフォードまで出向いた。
電車は45分くらいだった。東京で言えば、藤沢とか鎌倉あたりの距離だろう。夏の暑い日だった。駅に着いたら電話をくれ、というので電話をすると、数分でジープのような車をカシーフが運転してやってきた。
「ヘイ、マサハル! よく来たな」と言った感じでジープに乗ると、ジープの床には飲み干したドリンクの残骸、ペットボトルか、缶が散らかっていたが、大きな車だったので乗り心地はよかった。あれはBMWのジープだったのか、それとも、前の年にマンハッタンで乗ったのが普通のBMWだったのか、忘れた。
「この車、クールだろ。新車みたいに綺麗だろう?」と言ったので、ずっこけた。散らかった車内を見て、「アメリカ人は、車、汚すなあ」と思っていたからだ。「そうか、これでも、綺麗なんだ」と、綺麗さの温度差を痛切に感じたものだった。まあ、扉が大きく凹んでいたり、バックミラーがもげたりはしていなかったので、確かに新車だったのだろう。
5分もしないうちに、車は家に着いた。大きな、まさに邸宅だった。多分高低差のある土地に立っているためか、緩やかな段差が綺麗なカーヴを描いた芝生が一面に広がる大きな庭、小さな池、その横にプール。絵に描いたような豪邸だった。彼は部屋の中を案内してくれた。
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ロビンソン邸。
大きなリヴィング・ルームにはテレビ、オーディオ装置、そして中央にマントルがあって、その上にミニチュアの野球バット、ボール、写真盾、そして、壁のあちこちに野球選手の写真などが飾られていた。
なんで、こんな野球の物が置いてあるのかなあ、と思うと、カシーフは「ここは、以前、ジャッキー・ロビンソンの家だったんだ。未亡人から買ったんだ」と説明してくれた。ところが恥ずかしいことに30数年前(1984年)、僕はまだジャッキー・ロビンソンを知らなかったのだ。
「ジャッキー・ロビンソンって、誰?」 すると、カシーフは驚いたように、「君は、ジャッキー・ロビンソンを知らないのか??? 黒人で初めてメジャー・リーガーになった男だよ。みんなのヒーローだ。引っ越してきたばかりなので、それで彼の遺品がまだあちこちに残っているんだ」
帰国後、ロビンソンのことを調べ、大変な人物の家を買ったことを知り、さらに驚愕したのだが、そのときは「野球選手なのか」と思ったくらいだった。もちろん、3年ほど前(2013年)にジャッキー・ロビンソンの自伝映画『42~世界を変えた男』が公開されときには、すぐに見に行った。映画のストーリーに感動したのはもちろんのこと、その自宅に行ったことに改めて感動したものだ。
しかし、そのとき不思議に思ったのは、ジャッキー・ロビンソン未亡人は、こうしたグッズや遺品もそのままにして家ごと売ってしまったのだろうか、ということだった。あるいは、あとからまとめて返すのか。そのときは聞いたかもしれないが、どういう答えが返ってきたのか記憶にない。大きな荷物は未亡人が持ちだし、細かいものは、次のオウナーにあげるわ、ということだったのかもしれない。それで小さなバットや写真などはそのままカシーフのものになっていたのかもしれない。
そういえば、3年ほど前にジャッキー・ロビンソンの映画が公開され、とある大リーグ通の方とメールのやりとりをしたときに、「僕、ジャッキー・ロビンソンの家に行ったことあります」と伝えると、「ロビンソンが住んだ家を買った友人をお持ちとは・・・。」といった返事をいただいた。
これは、後から聞くのだが、ジャッキー・ロビンソン未亡人は、この邸宅をできればアフリカン・アメリカン(黒人)で成功している人物に売りたかったという。このエリアはいわゆる白人が多く住む高級住宅街だった。ロビンソンは初めてアフリカン・アメリカンでこの地域の住人になった。ある程度の反発などもあったのだろう。ナット・キング・コールがロスの高級住宅街に自宅を購入したときも、周囲から大きな反発があったというから、1950年代、60年代だったら、この白人が多い地域だったら、同じようなことが起こったに違いない。だから、アフリカン・アメリカンが買ったこの家をアフリカン・アメリカンの、できれば若くて成功している人物に売り、ここにアフリカン・アメリカンが住み続けてもらいたいと思うのも自然なことだ。
■ジャッキー・ロビンソンについて
映画『42~世界を変えた男』~ブラック初メジャー・リーガー、ジャッキー・ロビンソン物語を見たか
2013年11月22日(金)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11708491258.html
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スタジオ。
そして、カシーフはリヴィングの下、半地下のような場所に案内してくれた。そこはスタジオになる予定の場所で、まだ作っている最中だった。大工仕事が続いていて、むき出しの木の壁が姿を見せていた。
「スタジオを完成させて、自分のアルバムやプロデュース作品をここで録音するんだ」とカシーフは目を輝かせながら話した。
彼はこのとき、すでに「ニュー・ミュージック・グループ」という自分のプロダクションを設立し、自身の原盤制作、新人アーティストのプロデュースなども始めるようになっていた。
彼は1983年5月にはジョージ・ベンソンの「インサイド・ラヴ」をプロデュースし、ヒットさせていたので、まさに飛ぶ鳥をも落とす勢いのプロデューサーになっていた。
カシーフが言った。「ちょうど今、プロデュースしている若い女性シンガーの音を聴くか?」というので、「もちろん」と言って聞かせてもらうことになった。
半地下の工事中のスタジオから、上のリヴィングに戻り、カシーフはどこからか、ベータのビデオテープを持ってきた。
少し説明をしておくと、1984年頃、音楽関係者の間では、ベータのビデオテープを音楽のマスターテープ代わりにするのがちょっとした流行りになっていた。それまではマスターテープといえば38回転(秒速)で録音されたオープンリールの細いテープ(幅1センチ程度のテープで、直径7インチや10インチのリールにまかれたもの)が主流だったが、ベータのビデオテープはそれよりもはるかにテープの面積と録音スピードが速いために、音が良いとされていたのだ。その後、DATがでて、ベータをマスターに使うのはいつのまにか消滅したのだが。
いずれにせよ、そのベータのマスターテープを再生機にいれてスイッチをオンにした。すると、大音量でその曲が再生された。一曲はバラードで一曲はミディアム調のまさにカシーフ・サウンドのものだった。
(続く)
OBITUARY>Kashif (December 26, 1956 (1957) – September 25, 2016, 59(58) year old)