●カシーフとの思い出(パート8)~感謝
【Memories About Kashif : Gratitude to Kashif】
(1983年に出会ったカシーフ。ニューヨークで会っていた彼が来日。そのとき東京を案内した。その後、1990年代彼はハワイに居を移し、ロスに移住した。彼は最近、ドキュメンタリーを作っていた)
アンサング。
カシーフの『アンサング』(テレビドキュメンタリー番組)を見たが、その中で、彼は1997年にロスのクレンショー地区で車に乗っていたら、何の理由もなく警官に停められ「黒人でいい車に乗っている」というだけで、手錠をかけられ、拘束され、けがをさせられたことがあったという。裁判でその不当性を訴え、結局2000年3月に36万ドルで和解したという話が出ていた。殺されなくてよかったとも言っていたが、カシーフは正義のために戦ったということも言える。まさに「ブラック・ライヴズ・マター」を地で行く経験をしているわけだ。
カシーフは1980年代にも南アフリカの人種隔離政策に反対して、時の同国大統領ボタのことをテーマにした「ボタ・ボタ」という曲を出している。メッセージ色がある曲も出しているのだ。
カシーフは『アンサング』の中で、「音楽は自分にとってのサルヴェーション(救済、あがない)だった。それは多くの人にとっても同じだが、自分にとってはまさにサルヴェ―ションだった」と言っていた。孤児として生まれ、家庭の味を知らずに育った彼が、いつでも誰かを回りに置いておきたい、仲間と一緒にいたいと思ったのと同じくらい、音楽が彼の人生になり、音楽が彼の人生を救ったのだと思う。
カシーフ。1980年代にいわゆる「ブラック・コンテンポラリー」で一世を風靡したアーティスト、プロデューサーは、1990年代になってその経験を教えることによって若い世代に音楽業界のこと、音楽、まさに「ミュージック」と「ミュージック・ビジネス」を伝える存在となった。
カシーフ大学、そして、「ヒストリー・オブ・R&B」のドキュメンタリーを誰かが引き継いで完成させてもらいたいと切に願う。
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30年ぶり。
しばらく前、6月の初旬にカール・スターケンにインタヴューした。そのブログ記事は一部書き上げていたが、まとめて発表する前に、カシーフが逝去した。カールもカシーフとの思い出話、さらにジェリー・グリフィスの話をしてくれた。まとめていずれご紹介しよう。
カシーフ死去のニュースを聞いて、ジェリー・グリフィスの連絡先を探し、電話で話した。最初、誰かわからないようだったが、説明すると、思いだしてくれた。
「カシーフの死去を知って、あなたのことを思いだしたんですよ。ケヴィンから番号もらってかけました」
「それは、やさしい言葉をありがとう。僕はもう音楽業界は、ほぼ引退していてね。ときどき、音楽関係の連中にアドヴァイスをしているくらいだよ。70を超えてるからね」と話した。彼と話したのは、おそらく30年ぶり以上だ。
カール・スターケンによれば、ジェリー・グリフィスはアリスタのクライヴ・デイヴィスと折り合いが悪くなり、結局、EMIマンハッタンに移籍する。カールの言葉では、クライヴがジェリーの手柄をみんな取り上げてしまったことが大きな要因らしい。その後プライヴェートで家族に不幸があり、今は音楽業界にいないようだ、と言っていた。
僕は、1984年7月のカシーフ邸(元ジャッキー・ロビンソン邸)で、ジェリーと「君はこっちのソファか、じゃあ僕はこっちのソファで寝る」とソファを分けたことが昨日のように思いだされる。彼はそんなことは覚えていないだろうが、なぜか僕はそんなことを思いだしていた。
そして、僕は1983年7月21日に行われたカシーフのインタヴュー・テープ(カセット)を聞き返した。約40分のもの。カタコトの英語で必死に質問している僕がいた。よくこんなとろい質問に丁寧に答えてくれるなあ、と感じた。その中で、彼が日本、東洋に興味を持っていて、サンフランシスコのジャパン・タウンに行ったときに、琴のカセットなどを買って聞いている、と言っていた。そして日本人のシンプリシティーが好きだと言っている。
テープの中で「君は(ニューヨークに)いつまでいるんだ? じゃあ、僕のトライベッカの家においでよ」と言っていたので、どうやらこの日のインタヴュー自体はアリスタかハッシュのオフィースで行われたようだ。僕はこれがトライベッカだったと思っていたが、勘違いだったようだ。電話もひっきりなしに鳴り、いろんなミュージシャンが出入りしている音が入っていた。
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感謝。
音楽ジャーナリスト、DJとしての僕の活動を振り返るとき、この1983年夏というのは大変なターニング・ポイントになった。7月にはニューヨークでカシーフと出会い、ハッシュ・プロダクションの面々とつながることになる。ニューヨークのあとロスに行き、そこでマイケル・ジャクソン邸への取材が実現する。もちろん、これは邸宅に行った時でさえ、それがマイケル邸とは知らなかった。しかし、これはご存じの通り大ターニング・ポイントになる。
カシーフからは、ホイットニーだけでなく、フレディー・ジャクソン、メルバ・ムーア、ナジー、メリサ・モーガン、ララなどを紹介され、そしてなにより、僕は「ハッシュ・サウンド」を日本に紹介することができた。すべてカシーフのおかげだ。
そしてなんといってもハッシュのケヴィンと出会ったことで、僕はマクファーデン&ホワイトヘッドのジョン・ホワイトヘッドの話を聴くことができた。それが、『ソウル・サーチン』という書籍にまで発展した。そして、その「ソウル・サーチン」という言葉は、「ソウル・サーチャー」という言葉につながり、いまでは、「ソウル・サーチン」「ソウル・サーチャー」は僕の代名詞にまでなった。
現場に出向くことで、次々と新たな展開が起こる。一人の人が次の人を紹介してくれ、その人がまた次の人を紹介してくれる。One Thing Leads To Another (ひとつが次につながる)が、まさに現実に起こった。それは行ってみなければわからなかったことだ。そして、もちろん、行く前にはその先に何が起こるかなど誰にもわからない。
特に最初にカシーフに出会ったことは僕にとって本当に大きかった。彼と出会ったことでいろんな人と知り合えておもしろい話が聞けた。そのときに、これからはどんどん行こうと思った。だがもちろん、10人会って、全員と意気投合するわけではない。これほどまでに仲良くなれるのは10人に1人もいないだろう。まったくいい関係を築けないこともある。だが、それもそれだ。決して、雑誌や新聞、テレビ、いまだったらインターネットからは知ることができない情報を、実際に人に会って手に入れる。「ファースト・ハンド・インフォーメーション」(一次情報)を手に入れる。そのことの面白さ、醍醐味を感じさせてくれたのもカシーフだ。
正式なインタヴューでもなく、ただの立ち話から意気投合することもある。そこからの世界は本当に未知の道だ。
僕の今日の音楽ジャーナリストとしてのすべての原点、礎を作ってくれたカシーフに、心の底から感謝の気持ちを捧げたい。
(この項、ひとまず終わり)
OBITUARY>Kashif (December 26, 1956 (1957) – September 25, 2016, 59(58) year old)