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Channel: 吉岡正晴のソウル・サーチン
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●ダブル・エクスポージャー、その光と影

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●ダブル・エクスポージャー、その光と影

 

【Light And Shadow Of Double Exposure】

 

二重露光。

 

リード・ヴォーカル、ジミー・ウィリアムスの逝去に関連して、ダブル・エクスポージャーについて、もう少し。

 

サルソウル・レコードから発売されたダブル・エクスポージャーの「テン・パーセント」が大ヒットしたのは1976年夏のこと。ちょうど40年前のことだ。最初、12インチ・シングルが出て、しばらくしてアルバムがリリースされた。日本では当時フォノグラム・レコードがサルソウル・レコードの販売権を獲得し、このアルバムを1976年11月にリリースした。そのライナーノーツを9月に書いた。

 

そのライナーノーツでは、サルソウル・レコードが日本初登場ということ、サルソウル・レコードの簡単な紹介、デビュー作であるためダブル・エクスポージャーの簡単なバイオグラフィー、そして、「テン・パーセント」が初めて全米で一般発売された12インチとなったこと、当時はまだなじみがなかった12インチ・シングルについての解説を書いた。

 

その12インチは日本盤も出た。それは、日本で初めての12インチ・シングルのリリースとなり、ジャンボ・シングルといって、45回転900円の定価がついた。

 

12インチ・シングルはレコードの溝が広くとれるために、音のダイナミック・レンジが大きく、いい音で再生できるという触れ込みだった。実際、特に低音の響きは7インチ・シングルと比べて圧巻だった。

 

12インチ(30センチ)・シングルは、LPの大きさと同じで1曲か2曲しか入っていないもの。1974年くらいから、アメリカのディスコに積極的にプロモーションするレコード会社がこの音のいい12インチをディスコDJに非売品として配りだした。

 

長いヴァージョンが収録できることもあり、一般発売されている7インチ(17センチ)シングル(いわゆるドーナツ盤)とは違うテイクが収録され、それらがディスコでかかると、一般のお客がその12インチに興味を持ちだすようになった。元々はDJ用の非売品だったが、これにプレミアの値段が付いて流通するようになった。当時アルバムは5~6ドル前後だったが、非売品の12インチにそれこそ3ドルから5ドル、もっと高い10ドル以上の値段がつくこともあった。

 

そうした12インチへの渇望が1975年暮れころから大きくなり、その様子を見ていたサルソウル・レコードがその12インチを一般発売することになった。その記念すべき一般発売された12インチ・シングルの3枚のうちの1枚が、彼らダブル・エクスポージャーの「テン・パーセント」だった。

 

これは、当時のニューヨークのディスコを中心に瞬く間に大ヒット。最終的には12インチ・シングルが50万枚も売れるセールスを記録するにいたった。これを機に、各社は12インチ・シングルを次々とリリースするようになった。当時アメリカでの12インチの定価(のようなもの)は2ドル98セント、アルバムは5ドル98セントから6ドル98セントで、1ドル300円換算だとだいたい900円で、事実フォノグラムからは900円で売り出された。このとき、サルソウル・オーケストラとモーメント・オブ・トゥルースの計3タイトルが同時にリリースされた。

 

日本にもやっと12インチが登場したということで、初の一般発売された12インチというのは、とても感慨深いものがあった。

 

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不変。

 

それから27年後。2003年1月に、僕はダブル・エクスポージャーのベスト・アルバムのライナーノーツを書いた。1976年時点よりはるかに多くの資料が揃い、なかなか詳細なライナーになった。(下記にそのリンクを紹介してあります)

 

それからも13年経っているが、今回の訃報に接していろいろ再度調べてみると、さらにおもしろいことがわかった。

 

それは彼らが1962年頃の結成から40年以上もメンバーの変更なしにグループとして続いている、ということだ。しかも、彼ら4人はグループの一員である以前に幼馴染の仲のいい友人同士であるということ。だからこそ、グループ活動のあるなしの時期もあったが、40年以上メンバーを入れ替えることなく、続いてきたわけだ。

 

グループ名は、彼らがユナイテッド・イメージと名乗ってライヴをしているときに、その頃バンドメンバーに白人が混ざっていて、それで遠目に見ると白黒混合で二重露光しているように見えたから、それをそのまま新しいグループ名にしたという。

 

また、彼らはサルソウルに3枚のアルバムを残したが、サルソウルに対しては、自分たちのディスコっぽい曲しか宣伝してくれなかった、という不満もあったようだ。彼らはストリートでドゥワップを歌い始め、ソウルのヴォーカル・グループになり、しかし、ディスコでヒットを出したために、ディスコ・グループとしてくくられることになってしまった。

 

2枚目『フォープレイ』(1978年)のアルバムでは、1作目で大ヒットした「テン・パーセント」「マイ・ラヴ・イズ・フリー」などを書いたアラン・フェルダー(故人)が参加していないが、これは、プロデューサーのノーマン・ハリス(故人)と喧嘩をして、ハリスがフェルダーをプロジェクトから外したからだという。フェルダー作品は大ヒット要因であっただけに、それが外されてしまって、売れているもののチームは変えるな、という鉄則からすると、ある種のマジックが消えた可能性は大きい。

 

3作目の『ロッカー・ルーム』は1979年にリリースされるが、これはヴィレッジ・ピープルが流行っていて、それを真似た。また翌年の1980年がオリンピックがあるために、「スポーツ」をテーマにしたアルバムを作ろうということから、こういうジャケットになったという。

 

またサウンド的には一足先にヒットを出していたインスタント・ファンク路線のちょっとファンク系になっていた。

 

「double exposure, locker room」の画像検索結果

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リード・シンガーのジミーは、死の床で「俺の代わりを見つけて、グループをずっと続けてくれ」とメンバーに言ったという。

 

歴史に「もし」はないのだが、彼らのスロー・バラードが1曲でも大ヒットしていれば、彼らは単なるディスコ・グループという枠組みから、正統派の「ソウル・ヴォーカル・グループ」という立ち位置を獲得することができたかもしれない。

 

そういう意味で、残念だったが、40年以上同一メンバーでがんばってきた彼らに、お疲れさまと言いたい。きっとこういう様々な悩みは、多かれ少なかれ、どんなグループにもあるのだろう、と感じた。まさに、グループ、ダブル・エクスポージャー(二重露光)の光と影を垣間見る思いだ。

 

OBITUARY>Williams, Jimmy Lee, (September 17, 1946 [Circa] – October 31, 2016, 70 year old)

 

https://goo.gl/ox4g6b

 

 

マイ・ラヴ・イズ・フリー~ザ・ベスト・オブ・ダブルエクスポージャー

 

 

 

 

 


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