■ 吉岡正晴の音楽遍歴 (パート2)~ラジオ『パイレーツ・ロック』に出演して
【Radio Program “Pirates Rock”】
遍歴。
大阪のFM局FMココロで放送されているユニークな洋楽番組『パイレーツ・ロック』(毎週日曜日夜8時~10時、FMココロCOCOLO)に誘われて話してきた自分の音楽遍歴。そのパート2。
番組は2時間で、30分ずつざっくり4パートに分かれている。番組的には後半1時間のパート3と4のところ。
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パート3;仕事としてかかわった音楽のエピソード1
1973年4月大学入学。
渋谷のヤマハで輸入盤のシングルを買い始めたのですが、とにかく高い。国内盤390円とか450円のころ、1枚900円くらい。アルバムは国内盤が2000円程度のところ輸入盤アルバムで2700円くらいしていました。特にソウルのレコードはシングルなどがなかなか日本でリリースされない、されても3ヵ月後、半年後などと遅いので、どうしてもいち早く輸入盤が欲しくなりました。1973年5月、キャッシュボックス誌の一行広告で見た「We export records from one copy」というニューヨークのレコード屋に問合せをして、レコードを直接ニューヨークから買いだすようになり、一挙にレコード・コレクションが増えるようになりました。
ヤマハで輸入盤シングル900円くらいしていたのが、自分で直接取り寄せると300-400円で入手できていたので、次々欲しいシングルをいち早く輸入して楽しんでいましたが、すぐに小遣いが尽き、同じものを3枚取り寄せ2枚を売り、自分の分はタダにする、ということを考え始めました。それで当時はやり始めたディスコや輸入盤を扱うレコード店に直接売りに行くようになり、これがどんどん大きくなっていきました。
M13 Leaving Me Independents (1973/5)
(インディペンデンツは初めて買ったソウルのアルバム)
M14 Doing It To Death JB’s (1973/7)
M15 TSOP Three Degrees/MFSB (1974/4)
M16 Rock Your Baby George McCrae (1974/7)
パート4; 仕事としてかかわった音楽のエピソード 2
1973年頃からディスコに出入りするようになり、その周辺関係者、レコード会社の人などと多く知り合うようになり、また、高校時代からレコードコンサートなどに行っていて知己を得ていた桜井ユタカさんのファンジン「ソウル・オン」の配本などを手伝うようになり、原稿を書いてみないかと誘われ、書き出すようになります。
そして1975年7月、当時のワーナーパイオニアの折田さんから初めてのライナーノーツの依頼を受けます。それがメジャー・ハリスの『マイ・ウェイ』でした。ちなみに2枚目は当時ビクターの横田さんから頼まれたフランスのファンク・ジャズ・グループ、アイスでした。ここの収録曲はのちにジェイZがサンプリングします。このアイスのプロデューサー、ピエール・ジョベールとはその後、ファクス、Eメールなどのやりとりをするようになります。1976年以降になると各社から頼まれライナーや雑誌記事を書くようになりました。アドリブにも創刊2号目(1974年=当時は季刊)から廃刊(2010年5月・月刊)まで執筆しました。
1973年頃からよく遊びに行っていた六本木のディスコ『エンバシー』で当時のマスター、勝本さんに誘われDJを始めるようになります。ここでジェームス・ブラウンなどの音楽との接し方に衝撃を受けます。ラジオやレコードを家で聴くのとは違い、同じ曲がかかっても、そこに来る黒人たちが熱狂的に踊っているのを見て、大きなカルチャー・ショックを受けます。このとき、「聴くだけの音楽」と別の「踊るための音楽」「踊らせることができる音楽」という存在を無意識のうちに持ちました。同じジェームス・ブラウンの曲をラジオや家のステレオで聴くのと、エンバシーで聴くのではまったく違う体験でした。
さらに、ディスコ向けの多くの輸入盤を扱うことで、日本と契約のない輸入盤をいち早く知ることになり、レコード会社の人がそれに興味を持ち、情報交換をするようになります。僕が輸入した曲の日本での発売権をレコード会社が取り、多くの作品が日本でヒットしました。「ソウル・ドラキュラ」や「カフェ」などはその中でも僕が紹介して大ヒットした曲です。
ライナーノーツを書いたり、輸入盤の販売もしつつ、六本木エンバシー、赤坂マンハッタンなどで週末にフリーランスDJとしてディスコDJを担当。しかし、1981年3月にタワーレコード渋谷店が開店すると輸入盤の値段が大幅に下落し、輸入業を徐々に縮小。1983年以降は、もっぱら執筆活動とラジオなどの選曲、DJなどになりました。ディスコ向けの情報誌「エクスプロージョン」や「ギャングスター」の編集・発行、またタワーレコードの現在の「バウンス」になる前の「ウェストコースト・ミュージック・シーン」などの編集・原稿執筆にも携わりました。
M17 Kung Fu Fighting Carl Douglas (1974/10)
M18 That’s The Way I Like It KC & The Sunshine Band (1975/11)
ディスコ、ダンス・ミュージック関連では多くのことをしました。オリコンでディスコのコラムを書き始めたり、その中で今では当たり前となっている「BPM」という言葉を日本に初めて紹介したり、海外からマルチのマスターを取り寄せ、日本で初めてディスコ・ミックスもしました。
M19 Soul Dracula Hot Blood (1976/5)
M20 Café D D Sound (1976/10)
1980年代に入ると情報収集するためにビルボード、キャッシュボックスなどのアメリカの音楽業界誌だけでなく、英米の雑誌を片っ端から取り寄せるようになります。ピーク時には週刊・月刊で50近くは取っていたような記憶があります。
1983年7月末~8月上旬にニューヨークとロスの旅行でいろいろな取材インタヴューをして、以来多くのミュージシャンや音楽関係者と知り合うようになり、これは自分の音楽評論家人生(というのがあるのであれば)において、大きな転機となりました。そのとき会ったカシーフは今でも交流のあるプロデューサーです。カシーフからハッシュ・プロダクションの人たちを紹介され、その伝でジョン・ホワイトヘッドらと知り合い、ジョンから「ソウル・サーチン」という言葉を教わり、それが十数年の月日を経て一冊の著作になりました。またそのとき1983年8月ジャクソン家を訪れ、マイケル・ジャクソンと話をしたことも大変大きかったです。
M21 Ain’t No Stoppin Us Now MacFadden & Whitehead (1979)
まだまだ話したりないのですが、この辺で。
(この関連項目続く。まったく予期せぬ驚きの展開が…)
ENT>RADIO>Pirates Rock
ESSAY>My Musical History
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■ マクファーデン&ホワイトヘッド ジョンから教わった「ソウル・サーチン」
国内盤が高くなっているので、輸入盤。
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