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Channel: 吉岡正晴のソウル・サーチン
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●カシーフとの思い出(パート5)~20歳の新人

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●カシーフとの思い出(パート5)~20歳の新人

 

【Memories About Kashif : 20 Year Old New & Promising Singer】

 

(1983年7月、トライベッカのロフトでカシーフにインタヴューした翌年、彼と再会する。彼はマンハッタンから45分ほどのコネチカット州スタンフォードに豪邸を買っていた。そこでカシーフがちょうどてがけている新人の新曲を聴かせてくれた。そしてその新人はバーベキュー・パーティーにやってきていた。計らずもカシーフ邸のソファに一泊することになり、その翌朝…。)

 

~~~

 

朝。

 

庭には太陽の日が差し込み、湿度は高くなくまるで別荘で迎えたような朝だった。耳を澄ませると鳥の鳴き声なども小さく聴こえていた。

 

キッチンに行くと、すでに何人かがコーヒーかなにかを飲みながら談笑していた。するとそこにうら若き女性がいたのだ。彼女を見て、僕はすぐに誰かわかった。それがホイットニー・ヒューストンだったのだ。

 

1984年7月だから、ホイットニーはまだ20歳だ。8月の誕生日で21歳になるところ。

 

前日のバーベキューのときには、ひょっとしたらいたのかもしれないが、しゃべる機会がなかった。

 

「ホイットニーさん、あなたの曲を昨日、カシーフから聞かせてもらいました。いい曲ですね」 「サンキュー!」

 

「日本から来ました。マサハルです」

 

「わお、日本から? 私日本に行ったことあるのよ」

 

「ええっ? いつ、なんで?」と僕が驚いた。

 

「母について、数年前だった、何かの音楽フェスティヴァルだったと思う」

 

「あ、ヤマハかな、シシー・ヒューストン、確かに来ました。そのとき?」

 

「そう、そのときよ、私は15くらいだったと思う」

 

実に感じのいい応対だった。その日カメラは持って行ったとは思うが、そのときの写真が見当たらない。あるいは、カメラがなかったのかもしれない。今だったら、まちがいなく携帯でセルフィーだっただろう。(笑) 

 

シシー・ヒューストンが来日したのは、1979年11月のこと。シシーはこのとき、「ユーアー・ザ・ファイアー」という曲を歌い、「最優秀歌唱賞」を獲得している。たぶん、この模様はテレビ中継(録画か生放送かは記憶にないが)され、見たような記憶がある。そのシシーのバックコーラスに16歳のホイットニーがいたわけだ。

 

~~~

 

休み。

 

この日が何曜だったのか覚えてないのだが、ひょっとして日曜だったかもしれない。調べてみると、「ヴィクトリー・ツアー」初日は1984年7月6日の金曜だった。初日を見て、土曜日(7日)にニューヨークに移動したとすると、その土曜か日曜にカシーフ宅に行ったわけだ。

 

午後になって、みんながプールに入るという。僕は水着を持っていなかったので、プールにははいれなかったが、なんと、カシーフや仲間たち、そして、ホイットニーまで水着持参でプールに入っていくではないか!

 

ホイットニーのデビュー作の日本盤のジャケットは、レコード会社(当時は日本のフォノグラム)が雑誌社(マリー・クレール誌)から借りた写真で水着のホイットニーがメイン・ヴィジュアルになっている。元々ホイットニー自身がモデルをしていただけあって、スタイル抜群だ。そして、実際のホイットニーの水着姿はとてもまぶしかった。「デビュー前のホイットニーの水着姿を間近で見た」というのは、しばらく僕のネタではあった。

 

そういう意味で、ルックスもよく、歌唱力も、教会をルーツに持つ抜群のうまさで、スターになるべくしてなっていくアーティストだった。

 

だが、前述した通り、この時点ではホイットニーがそこまでの世界的スーパースターになるということは誰にも想像できなかった。いわゆる、R&Bフィールド、ソウル・ミュージックの世界である程度のヒットにはなってスターにはなるだろうと思っていたが、ソウルの世界だけでなく、ポップの世界で、そして日本でもこれほどのスターになるとは、思いもよらなかった。

 

おそらくそれは、彼女をアリスタに招いたジェリー・グリフィスも、クライヴ・デイヴィスも同じような考えだったろう。

 

~~~

 

ブラック・ベース。

 

その理由は、彼らは当初ホイットニーをまずは、R&Bベース、ブラック・ラジオ界でファン・ベースを作り、その後、クロスオーヴァーを狙ってポップ・マーケットに進もうという考えだったからだ。それゆえ、最初のプロデューサーは、ブラックで支持基盤のあるカシーフだった。

 

「ユー・ギヴ・グッド・ラヴ」は典型的なソウル・バラードで、「シンキング・アバウト・ユー」も、R&Bマーケットを狙ったそれ風の曲だった。実は、アリスタは「シンキング…」もシングル・カットし、小ヒットした。だが、R&B向きの曲ではなく、ポップ・マーケット向けの「セイヴィング・オール・マイ・ラヴ・フォー・ユー(すべてをあなたに)」のほうがアルバム・カットとしても受けがよかったので、すぐに方針を変えるのだ。

 

1985年2月にデビューし、「ユー・ギヴ・グッド・ラヴ」がソウル・チャート、ポップ・チャートでヒットし、続いて「セイヴィング・オール・マイ・ラヴ・フォー・ユー」がさらにポップで大ヒットするに至り、ホイットニーは瞬く間に世界的スーパースターになっていく。翌1986年になると、「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」がものの見事な大ヒットになる。

 

たった1年でゼロからスターの座にかけあがっていくその速さを間近にリアル・タイムで見て、スター誕生というのはこういうものなのだな、すごいなあ、とつくづく感じたものだ。

 

そして、僕は1985年6月、ホイットニーの初の全米ツアーを見に行く。ホイットニーは、ジェフリー・オズボーンやルーサー・ヴァンドロスの前座(オープニング・アクト)として、ツアーを始めたのだ。僕が観たそれは、その初日、ピッツバーグで行われたジェフリー・オズボーンの前座でのショーだった。

 

前年の夏カシーフ宅で会ったホイットニーが、瞬く間にスターになり、大きな会場でライヴをやる。

 

もちろん、僕はジェフリーも大好きだったので、ホイットニーとジェフリーが同じコンサートで見られるとなって大いに喜んだものだった。

 

(続く)

 

 

OBITUARY>Kashif (December 26, 1956 (1957) – September 25, 2016, 59(58) year old)

 


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