●カシーフとの思い出(パート6)~
【Memories About Kashif : The Hot Producer Wants To Buy Restaurant】
(1983年7月、トライベッカのロフトでカシーフにインタヴューした翌年、彼と再会する。彼はマンハッタンから45分ほどのコネチカット州スタンフォードに豪邸を買っていた。そこでカシーフがちょうどてがけている新人の新曲を聴かせてくれた。そしてその新人は瞬く間にスーパースターになっていった)
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来日。
カシーフは、その後1985年か86年にビーコン・シアターでライヴをやっていて、それを見た。おそらく、オードリー・ウィーラーやシンディー・マイゼルがバックをつとめていたと思う。
この頃、僕は毎年ニューヨークで夏に行われていた「ニュー・ミュージック・セミナー」という音楽業界人向けのセミナーに通うようになっていた。3-4年行った記憶があるが、これも実におもしろかった。そして、夏にそのためにニューヨークに行くたびにカシーフやハッシュ・プロダクションのケヴィン・ヘアウッド、あるいはジェリー・グリフィスらに連絡をいれ、時間があえば会って情報交換をしていた。
そして、その頃、カシーフがプライヴェートで日本に来ることになった。
彼が来日したのが、86年以前の手帳が見当たらないため、1985年か86年かちょっとはっきりしない。ただ87年以降の物はあり、そこには記載がないので、たぶん、85年か86年だろう。秋だったと思う。
カシーフがソニーの何かのセミナーかなんかで自費で遊びに来るという。楽器だったか、エレクトリックな機器だったか覚えてない。ソニーは楽器をだしていないから、たぶん違う。楽器だったら普通に納得するが、「へえ、そんなので来るんだ」と思ったから、ちょっと違うかもしれない。滞在ホテルは、高輪プリンス。うちから近くて都合がいい。たぶん、3-4日はいたからほぼ毎日つきあった。
当時僕はおんぼろのマーク2に乗っていたが、それで迎えに行き、あちこちに案内した。たぶん、昼間はそのセミナーだか、クリニックがあり、夕方から夜早めに迎えに行ってから、どこかに行ったような気がする。アメリカ人なので、必ず右側の席に乗ろうとする。左ハンドルの車の場合、右側が助手席だからだ。僕の車は国産車なので右ハンドル、お客さんは左側に乗るのだが。何度も同じように、彼は右座席の方に行き、「あ、そうか」といって左に行くということが起こり、お互い笑っていたものだ。
浅草、皇居なども行った。定番・秋葉原はひょっとしたら2回ほど行ったかも。流石に秋葉原は大好きで、何にでも興味を持ち、実際カシーフはけっこういろいろ買っていた。ポータブルのDATレコーダーを買っていたかもしれないが、さすがに記憶があいまいだ。ただそのうちの一日は夜雨が降っていて、ウインドウがよく曇っていたことを覚えてる。
カシーフはトライベッカのロフトを日本風にしていたこともあり、日本に興味を持ち、日本滞在をとても楽しんでいるようだった。
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オールドニュー。
カシーフの滞在時でひとつ強烈に覚えているのがこんなエピソードだ。これは昼間だったが(たぶんオフの日だったのかもしれない)カシーフを環八(環状8号線)沿い田園調布近くに新しくできていたおしゃれなカフェ・レストランと言うか、カフェバーみたいなところに連れて行ったときのことだ。
ここは西武関連がやっていた「オールドニュー(OLD/NEW)」という店で、まさに田中康夫の文章にでてきそうなおしゃれなレストラン。車も止められ、軽く食事もお茶もでき、鉄筋コンクリート打ちっぱなしの建物が当時としてはひじょうに斬新で一部で大いに話題になっていた店だったので、カシーフを連れて行った。
2階建てか3階建てだったか、かなり大きな広い店で、そういえば、友人がこの店で結婚式のパーティーを行ったほどだ。
何か食事をしながら世間話をしていると、カシーフはこの店のことがことのほか気に入ったようだった。「こんな店は、ニューヨークにない」「食事も、雰囲気もいい」
そして、彼が言った次の言葉に度肝を抜かれた。「この店は、いくら出せば、買えるんだ?」
「えええっ、買いたいの? いくらだろう…」
メニューの値段ではない。この建物と言うか、店自体を買いたいというのだ。それがちょっとしたジョークではなく、本気なのだ。さすがに、メニューの値段の説明はできても、この店がいくらかは見当もつかなかった。
カシーフは、ホイットニーのデビュー前に、すでにジャッキー・ロビンソンの豪邸を購入していた。(仮にローンだったとしても) そして、この1985年か86年はすでにホイットニーのデビュー作はとてつもない大ヒットになっており、カシーフの元にもそれまで以上に多くのキャッシュフローがあったのだろう。といったことは、今だから言えるのだが。(笑)
そのとき僕が思ったのは、「へえ、プロデューサーってそんなに儲かるんだあ」ということだった。
さすがに、店の人に「この店はいくらですか? いくらで買えますか?」とは聞けなかった。ちなみに、この「オールドニュー」は、何年か後に閉店した。
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桁外れの成功。
ちなみに、アメリカで大成功し、多くのキャッシュフローを手にすると、たいがい会計士あたりが、投資物件を探して、お金を動かそうとする。銀行に預金していても増えないから、ある程度の利率が出るものにどんどん投資するわけだ。もちろん、失敗すれば原資も失うが、どんどんお金が入ってくる人たちはどんどん使うこと、あるいは投資することを考える。
カシーフなども当時はどんどん入ってきて、税金に取られるくらいなら投資しておいたほうがいいということで、ふだんから「買いたいもの」をイメージしているのだろう。だから、ちょっと気に入ったレストランがあれば、「買いたい」と考えたわけだ。
だが、そんなことも、今だからこそ言えること。そのときには、本当に驚いたものだ。
ちなみに、ホイットニーのデビュー作がどれほどすごいものだったか、何度か書いたりしゃべったりしこともあるがこんな話がある。
ホイットニーが前座を務めたジェフリー・オズボーンにインタヴューしたときの話だ。
ジェフリーはホイットニーのデビュー作『ホイットニー・ヒューストン』で1曲「オール・アット・ワンス」を作曲家マイケル・マッサーと共作している。マッサーが曲でオズボーンが詞だ。アルバムは10曲入り。オズボーンの著作権の取り分(シェア)は、アルバム著作権全部の20分の1(5%)だ。
一方、ジェフリーは自身初のソロ・アルバム『ジェフリー・オズボーン』を1982年に出した。ここで彼は10曲中8曲まで曲作りで参加、しかも、歌唱印税、アーティスト印税なども入ってくる。これはR&Bチャートではちょっとしたヒットになり、アルバムもゴールド・ディスク(50万枚)こそ行かなかったが、おそらく30万枚程度は売れていたとみられる。
ところが、ジェフリーが言うには、自分自身のフル・アルバムから入ってくる印税合計よりもはるかに多くの印税がホイットニーのあの1曲だけから入ってきた、と言うのだ。それを聞いたときには本当に驚いた。
確かにホイットニーのアルバムは最終的には1000万枚以上売れた。ジェフリーのシェアが5%でも、自分のアルバムが50万枚以上売れたものと同等のものが入ってくるわけだから、桁外れの収入になったのだ。
だから、カシーフがホイットニーのデビュー作で2曲をプロデュースもし、曲も書いていれば、とてつもない金額が入ってきたことは容易に想像ができる。
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(続く)
OBITUARY>Kashif (December 26, 1956 (1957) – September 25, 2016, 59(58) year old)