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● アンリ・ベロロ82歳で死去~リッチー・ファミリー、ヴィレッジ・ピープルの生みの親

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● アンリ・ベロロ82歳で死去~リッチー・ファミリー、ヴィレッジ・ピープルの生みの親

 

【Henri Belolo Dies At 82】

 

訃報。

 

フランス・パリ在住の音楽プロデューサー、アンリ・ベロロ(Henri Belolo=英語読みはヘンリ・ベロロ)が2019年8月5日までに死去した。82歳。8月3日死去説もある。1970年代に、音楽プロデューサー、ジャック・モラリ(モロッコ生まれ、パリ在住)と手を組んでフィラデルフィアで録音したディスコ曲リッチー・ファミリーの「ブラジル」の大ヒットをきっかけに、ヴィレッジ・ピープルなどを送り出し、ヴィレッジ・ピープルは「サンフランシスコ」、「YMCA」、「イン・ザ・ネイヴィー」など世界的ディスコ・ヒットを多数放った。

 

アンリ・ベロロ=パリスマッチのサイトから

 

Henri Belolo, célèbre producteur des Village People, est décédé
Paris Match | Publié le 05/08/2019 à 19h28

bit.ly/2GQxY6l

 

評伝。

 

アンリ・ベロロは1936年(昭和11年)11月27日モロッコのカサブランカ生まれ。父は船乗りで母はモデル。港湾で父が仕事をしていると、そこには世界(特にアメリカから)さまざまな物資が届き、アメリカの文化に触れるようになった。また、1943年に戦争がはじまると米軍が駐留するようになり、その米軍放送(アメリカの軍・放送、アームド・フォーシーズ・レイディオ、日本ではFEN)から流れてくるアメリカの音楽、たとえば、グレン・ミラーなどの当時の流行り物や、ビッグバンドやブルーズなどのアメリカの音楽に接するようになる。

 

モロッコには黒人、モスリムなどの人たちが多くいて、さまざまなリズムの音楽があふれていた。特にガーナから来たグナワという人たちのものはヘヴィーなパーカッションを多用していたという。

 

 ■バークレイとの出会い。

 

22歳でカサブランカで大学を出ると、パリに行き将来を考えた。そこで夜な夜なジャズクラブに通い、音楽関係で何かしようと思うようになった。当時(1958年~1959年頃)は、ジャズがちょっとしたブームになっていた。パリで、エディー・バークレイという「バークレイ・レコード」を経営している人物に出会い、彼のつてで仕事をするようになる。

 

バークレイとベロロの出会いは衝撃的だ。ベロロがパリのカフェでジュークボックスに入っている音楽をかけていたときのことだ。ルイ・アームストロングや、ディジー・ガレスピーなどを次々かけていると、一人の男が「君のセンスはいいな」と近寄ってきた。「どこから来たんだ?」「カサブランカだよ」「これからどうするんだ?」「さあ、わからない、国に帰るかな」「じゃあ、私のレコード会社を(君の国でやって)手伝ってくれないか」となり、手伝うことになったという。

 

ベロロは23歳頃モロッコに戻り、バークレイ・レコードのモロッコ支店的な仕事をするようになる。当初はレコードをパリから輸入して、地元のレコード店に卸すのだが、同時にそれらをたくさん売るために、ラジオ局やクラブに出向きプロモーション活動を行った。そして、クラブに出入りするうちに、自分自身もDJをやりだすようになる。1959年頃のことだった。

 

ベロロはこのころ、ドラム、パーカッションなどを買い、見様見真似で叩くようになる。ただし本人は楽譜などは読めないという。

 

モロッコ、特にカサブランカのクラブは、駐留米軍の兵士たちが出入りしていたため、かなりおしゃれで進んでいた。

 

 ■クラブDJも

 

DJをやり始めた頃はターンテーブルは一台、もちろんミキサーはなかった。そこで、ベロロはクラブ・オウナーにターンテーブルをもう一台欲しいといい、ミキサーになるものを電気に強い人物に作ってもらった。1961年から62年頃のことだそうだ。

 

モロッコで5年ほどバークレイのビジネスをして、いよいよパリに出たいと1964年頃、本格的にパリに進出。パリに来てまもなく、彼はポリドール・レコードで仕事を得て、ここでさまざまな音楽業界の仕組みなどを学ぶことになった。ポリドールということで、同社所属のビージーズやジェームス・ブラウンの拡売に関与。ブラウンが来仏時、パリのオリンピアでのライヴ録音にかかわった。(1971年)

 

しばらくポリドールで仕事をした後、独立。自身のインディ・レーベル、スコーピオ・ミュージックを設立。当初は、アメリカのダンス・レコードのライセンスなどをして、フランスに紹介していた。カール・ダグラスの「カン・フー・ファイティング」(1973年)やジョージ・マクレイの「ロック・ユア・ベイビー」(1974年)などをフランスでリリース、ヒットさせていた。

 

 ■ジャック・モラリとの出会い

 

1973年、アメリカにキャント・ストップ・ザ・ミュージック・プロダクションを設立。そのころ、新進気鋭のソングライター、ジャック・モラリはポリドールでA&Rマンとしての仕事をしていた。そこでモラリは音楽出版社を持っていたベロロの元に何かいい曲はないかなどと顔を出すようになり、仲良くなっていく。

 

そして、1970年代中頃、モラリはスコーピオ・ミュージックに自分が作ったデモ・テープを持っていき、意見、アドヴァイスを求め、できれば出版契約をしてくれないかと頼み込んだ。

 

モラリはこのころ、パリの人気クラブ、クレイジー・ホースで仕事をしていて、その仕事ぶりやデモ・テープを聴いて気に入ったベロロは彼と意気投合、ベロロ自身曲を書いていたこともあり、モラリと一緒に曲を書くようになった。

 

スコーピオ・ミュージックはすでにアメリカのアーティストと契約し、彼らをフランスのレコード会社に紹介していた。フィリー・サウンドを最初にフランスに紹介したのが、このスコーピオ・ミュージックだという。そのつてで1973年には、ベロロはフィラデルフィアの名門スタジオ、シグマ・サウンド・スタジオに行き、同スタジオのオウナー、ジョー・タルシアやスタッフらと知己を得、親しくなっていた。

 

 ■リッチー・ファミリー誕生

 

そして、1975年、ディスコが世界的なブームとなり、モラリがスタンダード曲「ブラジル」のディスコ・ヴァージョンを作りたいと言ったとき、ベロロはシグマ・スタジオでのレコーディングの段取りを整え、モラリをフィラデルフィアに派遣した。このとき、シグマでコーラスを録音した3人の女性シンガーと契約。そしてこの「ブラジル」のアレンジをしたのが、リチャード(愛称リッチー)・ロームだったので、グループ名を「リッチー・ファミリー」としたわけだ。

 

1974年頃、ディスコ黎明期には、オリジナル曲が少なかったため、古いスタンダードをディスコ・サウンド化することがちょっとしたブームになっていた。特に、フィラデルフィア・サウンドの核となるスタジオ・ミュージシャンの集合体であるMFSBは、「フレディーズ・デッド」(カーティス・メイフィールドのヒット)などのソウル・ヒットのほかに、「ポインシアーナ」など古いスタンダードを新たなアレンジで録音。一方、また、バリー・ホワイトも大規模なオーケストラを従え、インストゥルメンタル曲(「愛のテーマ」など)を録音しており、オーケストラでディスコ・サウンドを作るという流れができ始めていた。この流れはのちにジョン・デイヴィス・オーケストラ、サルソウル・オーケストラなどにつながっていく。

 

「ブラジル」というスタンダード曲は1943年にザビア・クガート楽団のものが2位まで行った大ヒット。これを見事なフィリー・ディスコにし、20世紀レコードからシングル盤を1975年6月に発売。瞬く間にディスコで大ヒット。ディスコ・チャートで1位を7週間連続で記録、さらにポップ・チャートでも11位を記録。アルバムもベストセラーとなった。まさに彼らのアメリカでヒットを出すという「アメリカン・ドリーム」は実現したのだ。

 

 ■グリーンウィッチ・ヴィレッジのキャラクターたち

 

これを機に、ベロロらは、パリとニューヨークをひんぱんに行き来するようになる。一時期は超音速旅客機として当時一世を風靡していたコンコルドに乗って、毎週末にニューヨークのディスコに来ていたそうだ。

 

そんなモラリとベロロがある日ニューヨーク・マンハッタンのグリーニッジ・ヴィレッジを歩いていると、インディアンの恰好をした人物を見かけた。そこで彼の後をつけていくと、彼はバーでバーテンダーとして働いてた。しかも彼は店で流れているディスコ・ミュージックにあわせて激しく踊っており、そこでは他にカウボーイ・ハットを被ったカウボーイの恰好をした人物も踊っていた。

 

そして、この瞬間、彼らは強いキャラクターを持った、モラリとベロロの考える「アメリカを体現したヴィジョンを持つグループ」を作るというアイデアが思い浮かぶ。

 

彼らが集めようとした強烈なキャラクターとは、インディアン(ネイティヴ・アメリカン)の格好をした者、カウボーイ、兵隊(セイラーマン)、警官、皮ジャンを来たバイカー、道路工事人などだった。

 

このようなキャラクターを想定しつつ、彼らはファースト・アルバムとなる作品を作る。そうしたヴィレッジに集まっている連中はゲイが多かったので、元々はゲイの人たちに受けるような曲を作ろうと考えた。

 

レコーディングは、基本的にはリッチー・ファミリーのときと同様にスタジオ・ミュージシャンを使い、リード・ヴォーカルだけ、しっかり歌えるシンガーをオーディションで探した。それがソウル・シンガー、ヴィクター・ウィリスで実にソウルフルな歌声を聞かせるシンガーだ。歌詞はシンプルに、サビのメロディーは覚えやすく、サウンドはしっかりとバスドラムがボンボンと四つ打ちを奏で、シンプルなディスコでしあげた。

 

アルバムの曲は、ゲイ・カルチャーと関連性のある曲ばかりで作られA面は2曲がノンストップでつなげられた。それが「サンフランシスコ」(ゲイが多く住む街、ゲイがもっとも住みたがる街)、「イン・ハリウッド」。そして、やはりゲイの多い「ファイアー・アイランド」、そして彼らのテーマ曲その名も「(グリーンウィッチ)ヴィレッジ・ピープル」だ。

 

ベロロたちはこのアルバムをドナ・サマーをリリースしていたカサブランカ・レコードからリリースしてもらいたいと考え、カサブランカの社長、ニール・ボガートに電話をし、売り込みに行く。そしてその売り込みは成功し、5枚のアルバム契約を交わす。

 

 ■世界的爆発的大ヒット。

 

デビュー・アルバムは、1977年7月アメリカのカサブランカ・レコードからリリースされるや、またたくまにニューヨークのディスコだけでなく、全米のディスコで大ヒット。ディスコ・チャートではアルバム・オールカットで1位に。さらに、その波はラジオにも飛び火し、アルバムはポップ・チャートで54位、ソウル・チャートで36位を記録する。

 

この大ヒットによって、ライヴ・ツアーの要望が高まったので、モラリとベロロは、正式にオーディションをして、ライヴ用のメンバーを集め、リアルなヴィレッジ・ピープルを結成した。

 

1977年暮れに全米公開されたディスコ映画『サタデイ・ナイト・フィーバー』は未曽有の大ヒットを記録。ディスコの映画を作る機運も高まり、彼らもその流れに乗った。

 

1980年彼らのプロダクションの名前を冠した映画『キャント・ストップ・ザ・ミュージック』が公開。期待されたほどのヒットにはならなかったが、存在感は示した。

 

ヴィレッジ・ピープルは1980年5月に初来日公演を実施、東京・大坂・広島・福岡・名古屋で公演。関東地区では武道館で5月20日から22日までの3回行われた。その後、彼らはメンバーは変わったが、2011年8月サマーソニックで来日している。

 

1980年代中期までグループは活動を続けていたが、プロデューサーのジャック・モラリが当時ゲイ・コミュニティーで流行し始めていたエイズのため、1991年11月15日フランス・ルーアンで44歳で死去し、ヒットが出なくなった彼らは自然解散状態になった。

 

なお、アンリ・ベロロはジャック・モラリなどとはちがいゲイではない。

 


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OBITUARY>Belolo, Henri (November 27, 1936 – August 3 (?), 2019, 82 year old)

 

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