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Channel: 吉岡正晴のソウル・サーチン
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●ビル・ウィザース81歳で死去~朴訥とした3分の吟遊詩人~(パート2)

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●ビル・ウィザース81歳で死去~朴訥とした3分の吟遊詩人~(パート2)

 

【Bill Withers Dies At 81】

 

2分。

 

ビル・ウィザースの最初のシングル「消えゆく太陽(エイント・ノー・サンシャイン)」の17センチ・シングル盤を当時、ラジオで聴いて、日本盤を買った。裏面は「ハーレム」。家に帰ってターンテーブル(当時はステレオと言ったかな)に載せてかけると「エイント・ノー・サンシャイン」はあっという間に終わる。なんと2分しかない曲なのだ。レコードをひっくり返してB面を聴く。「ハーレム」。これは3分くらいだった。またA面を聴く。すぐ終わる。またB面を聴く。そのうちA面ばかりを繰り返し聴くようになる。1971年の暮れか、72年の初めだろうか。日本盤は当時A&Mをリリースしていたキング・レコードからでた。その後、アルバム『ジャス・アズ・アイ・アム』が出る。アルバムは高かったので、当時は買えなかった。

 

 

もっともこれは、最初はアメリカでは「ハーレム」がA面だった。ところがどこかのDJがB面の「エイント・ノー・サンシャイン」をかけ始めたところ、こっちに火が付いた。アメリカでの最初はB面だったが、そっちがヒットしたという話はよくある。

 

今は長い曲が当たり前だが、ビル・ウィザースの曲は、特に初期の曲はみな短い。ファースト・アルバムでは12曲のうち、7曲が3分以内だ。曲作りも、ギター弾きとしても「自分は素人」と考えている彼は、なによりシンプルな作品、メロディーを作る。一つのテーマを見つけ、そのことを歌うとき、それほど長さは必要はない。いわば、ビルは3分の吟遊詩人だ。そして、ビルのシンプリシティーは、50年後の現在でも普遍的に魅力的だ。

 

「エイント・ノー・サンシャイン」はギターを中心にした曲で、当時の他のソウル・ミュージックとはまったく違っていた。異色というか、違ったのだ。そこで、日本では従来のソウル・ファンからはあまり歓迎されていなかった。一方、ロック・ファン、フォーク・ファンからも黒人のシンガー・ソングライターということであまり注目もされなかった。たぶん、今の音楽ファンにはとうてい理解できないような空気感だった。ただしアメリカではトップ40とソウル・チャート(ソウル・ラジオ)ではしっかり支持された。このあたりが日本とアメリカのソウル・ミュージックの受け入れられ方の違いだった。

 

その後「リーン・オン・ミー」「ユーズ・ミー」「ラヴリー・デイ」などがヒット。最初のレコード会社、サセックスが倒産したことから1975年、コロンビアに移籍。よりメジャーなところに移籍し、将来はバラ色になるかと思われた。だが、そこのA&Rミッキー・アイクナーと大喧嘩をして1985年の『ウォッチング・ユー・ウォッチング・ミー』を発表後、実質的に引退、隠居生活にはいってしまう。

 

コロンビア後期作品は、90年代以降音楽的に日本でいう「AOR」的な受け方も若干あった。同じ作品でも、時代によって、その作品の受け入れられ方は変わる。そうしたことが、ここ30年くらいよく起こると思う。

 

1971年から1985年まで約14年、この間のアルバムは8枚(サセックス3枚、コロンビア5枚、ベストなどを除く)プラス、1973年の『ライヴ・アット・カーネギー・ホール』の計9枚だ。今からするとかなり少ない。

 

その後、ビルの名前は一部でしか話題にならなかったが、1990年代に入って、サンプリングという手法が広がり始めると、ビルの作品をヒップホップ・アーティストがサンプリングしたり、また、若手アーティストがさかんにカヴァーされるようになって、徐々に伝説化していく。

 

なによりビル・ウィザースの最大の魅力はその歌詞と抒情的なメロディーと独特な声にある。

 

ビルは、自身の経験や、実際に見たこと、感じたことしか書けない。行ったことがない場所はえがけない。しっかりと地に足がついている。曲の視点がいつもおもしろい。

 

『ベスト・オブ』のCDの日本盤で、デイヴィッド・リッツが書いたライナーノーツを訳した。日付を見ると2000年7月のことだった。もう20年前とは。このライナーでずいぶんとビルの事を知った。その後、ワックスポエティックス誌が日本ででるようになり、その第3号(2009年3月発売号)で、ビルの特集が16頁、アメリカ版の翻訳記事が出た。どちらもおもしろい文章だ。

 

アパラチア山脈の炭鉱夫を父に持つという意味で、僕が『ソウル・サーチン R&Bの心を求めて』で描いたウーマック&ウーマック(ボビー・ウーマック)と同じものをずっと感じていた。

 

デビューからのサセックス時代の日本での不遇時代から考えると、現在の愛され方には隔世の感がある。

 

1971年から1985年までのわずか14年の間にだされた8枚のアルバムで圧倒的な存在感を決定付けたビル・ウィザース。

 

ご冥福をお祈りしたいと思います。

 

OBITUARY>Withers, Bill (July 4, 1938 – March 30, 2020, 81 year old)

 

 

 

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