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Channel: 吉岡正晴のソウル・サーチン
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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 012 ~ 大みそかに会った少年A Boy Born

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 012 ~ 大みそかに会った少年A Boy Born In 1987』■■

 

(本作・本文は約4300字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、8分から4分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと14分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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掘り起こし。

 

このところ、こうした昔のブログを片っ端から読んでいると、書いたことさえ忘れている記事がでてくる。そういう意味で、本当に、ブログを毎日書くということは、「記録する」「ジャーナルする」という意味で単純に大事だなあ、と思う。今回のストーリーは、2003年の大みそかに会った少年の話だ。読むまですっかり忘れていた。読後、なんとなくおぼろげに思い出した。しかし、いい話だ。

 

そして読んだ後、この少年は今、どこかで何をしているだろうかと猛烈に興味を持った。たぶん、いま、33歳くらいだ。おそらく、前のアーカイヴのイチローとチューイがアメリカ大陸を大冒険した1987年生まれだ。ここでは名前が仮名になっている。そのときは、本名を聞いたのだろうが、本名がわからない。たぶん、次男だから「次郎」にしたのだろう。会場になった家も、その住人もわからない。なにしろ17年前のことだ。連絡先はたぶんよほどの奇跡が起こらないとわからないだろう。

 

まあ、しかし、ここにこんな文章を出せばひょっとしたら誰かその次郎くんの知り合いが読んで、ひょっとして「お前の事か?」なんて話題になるかもしれない。まあ、そうなったら本当の奇跡だが。

 

少なくとも、本人が読めばきっとわかるんじゃないかな。しかし、よくこんなストーリーを書いていたものだ。自分でも呆れるというか驚く。(笑) 

 

彼はDJとか司会者になったのかなあ。どこかの放送局かなんかですれ違ったりしてないかなあ。

 

ではゆっくりストーリー、ゆっくりごらんください。もしお知り合いにこの人と思われる人物がいたら、ご連絡くださいませ。

 

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NO.502

2004/01/05 (Mon)

A Boy I Met At New Year's Eve

 

カウントダウン。

 

年越し蕎麦を食べ終え、うちに帰る途中友人からメールが入った。「OXのうちのカウントダウンのホームパーティーに行かない?」というものだった。まあ、特にすることもないので、あまり乗り気ではなかったが、行くことにした。

 

その家の主はスウェーデン人。すでに人が集まっていた。全部で4-50人はいただろうか。そして、ずいぶんと外人比率が高いホームパーティーだった。

 

音楽が流れ、映画のDVDが音を出さずに映像だけモニターから映し出されていた。会話の喧騒の中で、甚平のような着物を着た短髪の丸刈りの男の子がいた。十代に見える彼は、床にほぼ正座していた。その髪の色がちょっと茶髪っぽかったことと容姿からハーフのように見えた。

 

カウントダウンが進む。「5・・4・・3・・2・・1」 「ハッピー・ニュー・イヤー!」 自分でもなぜそこにいるのかよくわからなかったが、ぼーとしていると、大きな音で「ハッピー・ニュー・イヤー」という曲がかかった。ポップでわかりやすいメロディー。一体だれだろう。僕は初めて聴いた。今年はどんな年になるのだろうかと思いながら、中二階から階下の人たちをぼんやり眺めていた。

 

(ホームパーティー=イメージです)

 

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スイート16。

 

一段落してから、その彼と話す機会が訪れた。「学生?」 「え~」 「いくつ?」 「16です」 「ええええっ?」 十代とは思ったが、その若さにまず驚いた。彼はその日、そこへやってきた経緯を簡単に説明してくれた。大阪の友人に誘われこのパーティーに来たこと、もちろんこのようなパーティーは初めてだということなど。その話し振りはとても、今時の16歳とは思えなかった。しっかりした、きちんとした日本語でしかも敬語もできていて、眼をつぶって聴いていると30代か40代くらいの人と話をしているのではないかと錯覚してしまうほどだった。彼は自分のことを「僕」や「オレ」ではなく、「私(わたし)」というのだ。話し振りが落ち着いていて、そのことにも驚いた。

 

BGMは、いつの間にかアフターアワーズ系のスローっぽい曲になっていた。「将来、何をしたいの?」と僕は訊いた。「将来、自分の名前のついた番組をやって、いろんな人をゲストに迎えて、お話したいんです。トーク番組をやってみたいんです。で、そのためには歌をやったり、演技なんかもやってみたいと思っています」 しっかりとした口調で彼は自分の明確な目標を語った。

 

今まで、関西のほうにいたが、この12月(2003年12月)から東京にいる母親のところに戻って、一緒に暮らしているという。そして、彼のそれまでの人生を聴いて、僕はまたまた驚いた。16歳だが、すでに語るべきストーリーを持っていたのだ。「すばらしいストーリーだねえ」と言うと「ストーリーですか?」と彼は笑った。

 

紙コップが散らかり、けだるい空気が漂うなか彼は語り始めた。彼の名は、ここでは仮に次郎君としよう。次郎君は1987年、ブラジルに生まれた。3人兄弟の真中。上に兄と下に妹がいる。彼の母親は日系ブラジル人。つまり、血筋は日本人だ。だが、彼は父親を知らない。会ったことがないという。イギリス系ブラジル人らしい。4歳の時、日本にやってきた。

 

次郎君の母親のお父さん、つまり次郎君の母方の祖父は彼が生まれる前に亡くなっていた。そしてその祖母が再婚することになるのだが、祖母が再婚した翌日、次郎君が生まれた。その新しく再婚した相手は、現地でお寺を営むお坊さんだった。

 

母親は来日し、都内に住み、朝から夜遅くまで仕事をして、3人の子供の生活を支えていた。3人の兄弟のうち、次郎君だけが、いかにも外人風の容姿をしていた。そのことが理由となってか、まもなく兄の壮絶ないじめが始まった。2つ上の兄の暴力には耐えがたいものがあったが、昼間は母親がいないので、どうしようもなかった。母親が朝早くから仕事にでるため、朝御飯や、晩御飯は幼い妹が作っていた。

 

~~~

 

修行。

 

次郎君が小学校2年頃のこと。8歳くらいか。母親は彼に、その出生の秘密を打ち明けた。彼がなぜ他の二人と容姿が違うのか。実は、母親が一晩限りの相手をしてできた子供が次郎君だったのだ。そして、3人とも父親が違うということで、母の両親は、母親のことを決してよく言わなかった。「あんなあばずれ・・・」

 

小学校2年でそんなことを打ち明けられて、理解できるのだろうか。「え~、淡々と聴いていました。ああ、そうかって感じで」と彼は言う。そして彼が中学に進学する時、お寺に修行に行かないかという話が持ち上がった。再婚した祖父がお坊さんだったこと、その再婚した翌日に次郎君が生まれたことで、祖父は次郎君に運命的なものを感じ、ぜひ寺を継がせたいと願い次郎君にお坊さんになってほしいと思ったのだ。

 

小学校6年、次郎君は考えた。「ここのうちから出て、お寺に修行にでれば、おじいさんの期待にもこたえられる。それから兄の暴力から逃げられる。つまり厳しい現実から逃避できる。そして、自分がこの家から出て行くことによって、家計が少しでも楽になれば母親にとってもいいだろう」 こうして、彼は関西のお寺に修行にでる決意をした。中学一年になる前の決断だ。

 

(お寺=イメージです)

 

お寺の修行は厳しい。毎朝3時半起き。朝のお勤めなどをして、掃除、お経読みなど夕方までいろいろな仕事がある。そして、夕方から夜学の中学に通う。帰ってきたら即就寝だ。お寺にはテレビもなければラジオもない。新聞もないし、携帯電話もない。もっとも携帯は最近は隠れて持っているものもいるようだが、原則禁止だ。インターネットなどあるわけがない。ただ学校に行けば、学校の友達との会話で世間で何が起きているか、少しは知ることができるが、テレビの話題などにはついていけない。

 

彼が入った年、その寺には中学生が20人以上いたが、徐々に減り3年経つと半分以下に減っていた。彼が生活をする部屋の同居人は40代と50代の人だった。そのため彼の言葉は、そうした人たちの影響を受けることになった。16歳の彼の言葉が非常に落ち着いたしっかりした日本語だったのは、そういう理由だったのだ。

 

3年間の修行はやはり厳しかった。また、その間、お坊さんの世界と言えども、どろどろとしたものを見ることになった。一番学んだことは何、と尋ねると、「人間関係でしょうか」と彼は答えた。繰り返すが彼は16歳である。夜間高校へ進む頃になると、彼は自分がしたいことが徐々におぼろげながら、わかり始めてきた。そこで意を決し、お坊さんの道をあきらめ、東京に戻って自分の夢を追求することにした。学校の先生、そしてお寺の人に相談し、了解を得て、11月一杯でお寺を辞め、東京の母親のもとにやってきたのだ。

 

~~~

 

父親。

 

そしてこの日、友人に誘われて、パーティーにやってきていた。「これから、いろいろな人に会って、いろんなことをやりたいんです。私は、いろいろな人に会って話をするのが好きなんです。ですから、自分のやりたいことができるようにがんばっていきます」 彼はしっかりとした口調で、言う。

 

彼は父親に会ったことがない、と言った。「お父さんに会ってみたいと思わない?」と訊いた。「いや、私は今の生活がとても気に入っていて、満足しているので、別に会いたいとは思いません」 なるほど。では、もしお父さんの方が君に会いたいと言ってきたら? 「ああ、それは喜んで会いますよ。会いたいなんて言っていただけるなら、私は光栄です。嬉しいです」 「言っていただけるなら・・・」というくだりに、僕はちょっと感動して胸が一杯になった。

 

彼の話は、かつてテレビでやっていたご対面番組『嗚呼! ばら色の珍生』を思わせた。もし彼が父親と会う日がいつか来るのであれば、その場に立ち会いたいと思った。母親はその父親の連絡先を持っていないらしいが、母の姉、つまり次郎君のおば、そして、祖母は持っているらしい。彼はまだ未成年の16歳だが、その精神は36歳のようにも思えた。大人なのだ。人間とは環境にものすごく影響を受ける動物だという。彼の16年の人生はまだ短いが、非常に密度が濃い。そして彼のような真っ当な人間が育ったということは、結果としてその劣悪な環境もよかったのかもしれない。ものは考え様だ。

 

僕が自分の16歳の頃を振り返ったら、彼ほど何も考えていなかったと思う。彼にはしっかり目的を持って、つき進んで行って有意義な人生を送ってほしいと思った。僕にできることなら応援しよう。

 

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ハッピー・ニュー・イヤー。

 

バックでは小さな音でビヨンセが流れていた。たくさん灯っていたろうそくがほとんど消えようとしていた。ちょうど家の主がやってきた。僕は彼に尋ねた。「ねえ、あの、さっきの『ハッピー・ニュー・イヤー』って曲、誰が歌っているの?」 「あれ、あれはアバだよ~~! 当たり前じゃない!」  そうだったか。そういえば彼のお国の大スターだった。CDプレイヤーの前に散らかっていたCDを見ると、そこには数枚のアバのほかにエイス・オブ・ベースのCDもあった。

 

Abba - Happy New Year (Official Video)

https://www.youtube.com/watch?v=3Uo0JAUWijM

 

 

 

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タイトル『大晦日に会った少年』

 

PEOPLE>A Boy I Met At New Year's Eve

 

Diary Archives by MASAHARU YOSHIOKA

 

 

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〇お知らせ JFN系列24局放送『アイ・ガット・リズム』で「ビル・ウィザース特集」6月5回放送~

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〇お知らせ JFN系列24局放送『アイ・ガット・リズム』で「ビル・ウィザース特集」6月5回放送~「ソウル・サーチン・ブログ&ノート」で同物語

 

【Program “I Got Rhythm” Will Feature “Bill Withers Story” on June 2020 With The Soul Searcher】

 

物語。

 

東京FM系のJFN系FM24局ネットで放送される『アイ・ガット・リズム』の2020年6月放送回(基本30分x5回)で吉岡正晴が『ビル・ウィザース物語』を担当することになりました。

 

 

『アイ・ガット・リズム』は、JFN系列で2019年4月から始まった音楽ラジオ番組。毎月ひとつのテーマ、あるいは、一人/一組のアーティストにフォーカスして4回(5週時は5回)にわたって放送するもの。

 

ビル・ウィザースはご存じの通り2020年3月30日、ロスアンジェルスで81歳で死去。そのワン・アンド・オンリーなスタイルは多くの若手ミュージシャンからも尊敬されました。ビル・ウィザースの実働は1971年から1985年まで14年間。その後35年は長く実質的に引退していました。その明と暗はなぜ生まれたのか。ビル・ウィザースの出生、生い立ち、引退の真実など徹底なリサーチによる詳細物語でビル・ウィザースの生涯を浮き彫りにします。

 

同時に、このビル・ウィザースの生涯を描いた日本で唯一の『ビル・ウィザース物語』を初回放送前までに、吉岡正晴の「ソウル・サーチン・ブログ&ノート」(約4万字)を発表します。読んでから聞くか、聞いてから読むか、どちらもそれぞれにお楽しみください。「物語」は約4万字になりますので、拙著『ソウル・サーチン R&Bの心を求めて』の一章分にあたります。ブログ、ノートでは一回で掲載がむずかしいので2回(ブログは4-5回)に分けての掲載になる予定です。

 

番組ホームページ

https://park.gsj.mobi/program/show/43952

https://park.gsj.mobi/news/show/66733

 

 

ラジオ番組は、いずれもラジコのタイムフリー、エリアフリー(有料)で全国どこからでも聴取可能です。

 

初回放送は、2020年6月5日(金)午前11時半からのFM福島とFM群馬の予定。基本的には各局は6月5日から7日の週末にオンエアされます。

 

 

ラジコ→

http://radiko.jp/

タイムフリー、もしくエリアフリー(各月約400円前後のストリーミングで加入。日本全国の地上波FM局の多くを聴くことができます。コミュニティーFMは除きます)

 

皆様、各地のFM局でお聞きいただければ、幸いです。いずれのラジコ・タイムフリー(お住まいの地区以外のFMを聴くにはラジコの会員になる必要があります)

 

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放送日、各放送局は次の通りです。いずれも2020年。6/7は6月7日。

 

FM岩手 6/7、6/21、7/5  8:00~8:30(日)※第1、3、5週 活用

http://www.fmii.co.jp/

FM山形 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5  9:00~9:30(日)

http://www.rfm.co.jp/

福島エフエム 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3  11:30~11:55(金)

https://www.fmf.co.jp/pc2/

仙台 Date FM 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4  18:30~18:55(土)

http://771.fm/smp/

FM群馬 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3  11:30~11:55(金)

https://www.fmgunma.com/fmg863/

栃木 Radio Berry 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5  19:00~19:30(日)

http://www.berry.co.jp/

FM新潟 11:30~11:55(火)※6/2~再放送(土)21:30~55?

https://www.fmniigata.com/

長野 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4  5:00~5:30(土)

http://www.fmnagano.co.jp/

石川 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5  8:00~8:30(日)

https://hellofive.jp/

福井 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4  12:25~12:55(土)

https://www.fmfukui.jp/docs/

三重(レディオ・キューブ) 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5  18:30~18:55(日)

http://fmmie.jp/

FM大阪 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5  27:30~28:00(日)

http://www.fmosaka.net/

FM山陰 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5  24:00~24:30(日)

http://www.fm-sanin.co.jp/

FM広島 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4  18:30~18:55(土)

http://hfm.jp/

FM山口 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4  11:30~11:55(土)

http://www.fmy.co.jp/

FM香川 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4  20:25~20:55(土)

https://www.fmkagawa.co.jp/

FM徳島 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5  6:00~6:30(日)

https://fm807.jp/

FM高知 (Hisix) 6/6  12:30~12:55(土)※第1週のみ

   6/25  20:30~20:55(木)最終週のみ?

http://www.fmkochi.com/

FM佐賀 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4  11:30~11:55(土)

http://www.fmsaga.co.jp/

FM長崎 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4  20:00~20:30(土)

https://www.fmnagasaki.co.jp/

FM熊本 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3  11:30~11:55(金)※6/5~

https://fmk.fm/

FM大分 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4  7:30~8:00(土)

http://www.fmoita.co.jp/

FM宮崎(JOY FM) 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4  27:30~28:00(土)

http://www.joyfm.co.jp/

FM鹿児島 6/7、6/21  9:30~9:55(日)※第1、3週のみ活用

https://www.myufm.jp/

 

 

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 013~クラレンス・カーターの「パッチェス」』■

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来日したこともある盲目のソウル・シンガー、クラレンス・カーター。彼の代表曲に1970年の大ヒット「パッチェス(Patches)」がある。悲しい感じの実にストーリー性のある佳曲だ。この曲はもともとはデトロイトのチェアメン・オブ・ザ・ボードの作品だった。それがいかにしてカーターのヒット曲、代表曲になったのか。カーターとそのプロデューサー、リック・ホール、それぞれのその楽曲への思い。

 

(本作・本文は約4300字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、8分から4分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと14分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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オリジナル・サイト

 

★# (続・マッスル・ショールズ) クラレンス・カーターの「パッチェス」~リック・ホールが執念で

2014年07月06日(日)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11889398552.html

 

★# クラレンス・カーターの「パッチェス」~リック・ホールが執念で作り出したヒット

 

【Behind The Story of “Patches”】

 

父息子。

 

以前のブログでちょっとふれたクラレンス・カーターの「パッチェス」。タイトルの「パッチェス」は「つぎはぎ」のこと。この少年の洋服はいつもボロボロでつぎはぎだらけだったので、みんなから「パッチェス(つぎはぎ坊主)」などと呼ばれていた。それをタイトルにしたものだ。

 

ちょうど父を事故で失ったリック・ホールにとってはこの曲の歌詞が心に刺さった。どうしてもクラレンス・カーターに録音してもらいたいと考えた。

 

アラバマの農場で必死に働く父、その長男。父が死の床で長男、パッチェスに「あとの家族を頼む」という歌詞だ。

 

だが、問題がふたつあった。ひとつは、この曲はデトロイトのインヴィクタス・レコード所属のチェアメン・オブ・ザ・ボードのジェネラル・ジョンソンが書き、チェアメンたちが録音してアルバムの1曲にしていた。もし彼らがシングル・カットすると、カヴァーとして出したもので売れにくくなる。

 

 

ちょうどこのころ、リック・ホールのレーベル、フェイムはキャピトルが全米配給しており、インヴィクタスもキャピトルが配給していた。たまたまそのときに、キャピトルで販売会議があり、リックはそこで、インヴィクタスはこの曲をシングルのA面にしないことを知る。彼らはアルバムの別の曲「エヴリシングス・チューズデイ」をA面にして、「パッチェス」をB面にして、1970年7月末にリリースする。これがシングルの押し曲にならないことを知ったリックは、すぐにクラレンスに録音を持ちかける。

 

ところが、問題の二つ目が起こった。

 

固辞。

 

クラレンス・カーターが歌詞の一部に黒人蔑視的なニュアンスを感じたので、レコーディングを固辞したのだ。アラバマで貧困に生まれ、父を亡くして、家をささえなければならない13歳の息子についての歌を、クラレンスは「同胞をけなすことはできない」と。

 

だが、リックもどうしても録音してほしかったので、とりあえず、一回レコーディングしてくれ、それでだめだったら、あきらめるといい、スタジオで歌わせることになった。

 

点字で歌詞カードを作る時間もなく、クラレンスは歌詞を覚えずにスタジオ入りをした。そのためアシスタントがクラレンスの後ろで小さな声で歌詞を教えた。そのために、小さな声でその声が入っているという。

 

出来は、もちろん文句なしだった。リックはこれをスペシャルなものにしたいと思い、ストリングスをロスの一流アレンジャー、ジミー・ハスケルに頼み、数日後にロスに飛びストリングス部分を付け加える。

 

こうして出来上がった「パッチェス」は、1970年7月の前半にリリース、チェアメンのものより、少しだけ先にリリースされることになった。そして、見事なヒットになった。

 

 

このヒットを見て、キャピトル、インヴィクタスの人間はかなり怒ったらしいが、まあ、しかたないだろう。彼らがシングルのA面にしなかったのだから。

 

ちなみにこの時期のフェイム・スタジオは、例のスワンパーズ(ロジャー・ホーキンズ、デイヴィッド・フッド、ジミー・ジョンソン、バリー・ベケットら)が出て行ってしまい、新たなリズム隊を作っていた頃だった。このメンバーは、ギターにジュニア・ロウ、ジェシー・ボイスがベース(映画『マッスル・ショールズ』にもでてくる)、ドラムスにフリーマン・ブラウンという布陣だ。

 

クラレンス・カーターのヴァージョンは、ナレーションが多くを占め、実に淡々と物語を語る。これがラジオでヒットすると、クラレンスの元には多くの手紙が届いた。そして、多くの人は、これがクラレンスの実体験に基づくストーリーだと思った。なにしろ、彼はアラバマ生まれ育ちだからだ。

 

これは、クラレンスにとって3枚目のゴールド・ディスクに輝く。:

 

日本盤当初の邦題は、「パッチ」、今は「パッチズ」

 

執念。

 

キャピトル/インヴィクタスの連中は、「リック・ホールに出し抜かれた」と思っただろうが、ソングライターであるジェネラル・ジョンソン、ロン・ダンバーはすこし違った感想を持つことになる。

 

リック・ホール

 

それは、この曲が翌年グラミー賞「ベスト・リズム・アンド・ブルーズ・ソング」を受賞することになったからだ。

 

「パッチェス」は、リック・ホールのキャリア・ソングになったのと同時に、クラレンス・カーターにとってもキャリア・ソングになった。まさに、リック・ホールが執念で作り上げた一曲といっていい。

 

レコード版

http://youtu.be/IvfsfS6NVUc

 

 

 

ライヴ版

http://www.youtube.com/watch?v=-84fn58GTV0

Clarence Carter - Patches

 

 

 

https://amzn.to/3d8swKc

 

 

パッチェス Patches

Written by General Johnson, Rod Dunbar

 

I was born and raised down in Alabama

On a farm way back up in the woods

I was so ragged that folks used to call me Patches

Papa used to tease me about it

'Cause deep down inside he was hurt

'Cause he'd done all he could

 

My papa was a great old man

I can see him with a shovel in his hands, see

Education he never had

He did wonders when the times got bad

The little money from the crops he raised

Barely paid the bills we made

 

For, life had kick him down to the ground

When he tried to get up

Life would kick him back down

One day Papa called me to his dyin' bed

Put his hands on my shoulders

And in his tears he said

 

He said, Patches

I'm dependin' on you, son

To pull the family through

My son, it's all left up to you

 

Two days later Papa passed away, and

I became a man that day

So I told Mama I was gonna quit school, but

She said that was Daddy's strictest rule

 

So ev'ry mornin' 'fore I went to school

I fed the chickens and I chopped wood too

Sometimes I felt that I couldn't go on

I wanted to leave, just run away from home

But I would remember what my daddy said

With tears in his eyes on his dyin' bed

 

He said, Patches

I'm dependin' on you, son

I tried to do my best

It's up to you to do the rest

 

Then one day a strong rain came

And washed all the crops away

And at the age of 13 I thought

I was carryin' the weight of the

Whole world on my shoulders

And you know, Mama knew

What I was goin' through, 'cause

 

Ev'ry day I had to work the fields

'Cause that's the only way we got our meals

You see, I was the oldest of the family

And ev'rybody else depended on me

Ev'ry night I heard my Mama pray

Lord, give him the strength to face another day

 

So years have passed and all the kids are grown

The angels took Mama to a brand new home

Lord knows, people, I shedded tears

But my daddy's voice kept me through the years

Sing

 

Patches, I'm dependin' on you, son

To pull the family through

My son, it's all left up to you

Oh, I can still hear Papa's voice sayin'

 

Patches, I'm dependin' on you, son

I've tried to do my best

It's up to you to do the rest

I can still hear Papa, what he said

Patches...

 

ENT>GREAT SONG STORY>Patches

 

2014年07月07日(月)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11889551169.html

 

★# (続・マッスル・ショールズ)「パッチェス」「パッチズ」の訳詩

 

【Patches : Japanese Translation】

 

昨日のブログで、クラレンス・カーターが歌う「パッチェス」について書いた。英語詞をそのままのせたおいたが、やはり、何度か聞いているうちに日本語にしておこうと思い、今日はその訳詩をご紹介する。

 

やはり、この悲しい歌に悲しい曲調なのだが、最後にはこう希望みたいなものがあって、ポジティヴな気持ちにさせられる。これはいい。

 

ちなみに、日本語の表記は「パッチズ」が多いのだが、僕にはヒットした当初から「パッチェス」に聞こえる。つぎはぎのこと。パッチをつける、などと使う。ここでは、つぎはぎだらけの服を着ていた主人公がみんなから、「パッチェス(つぎはぎ君、つぎはぎ坊主)」みたいな感じで呼ばれている。まあ、ニックネームといえばニックネームか。

 

この曲はこんなストーリーだ。実によく3分少々に収められている。

 

~~~

 

Patches

「パッチェス」(ジェネラル・ジョンソン、ロン・ダンバー作)(クラレンス・カーター・歌)

 

アラバマの森の奥深くにある農場。僕はそんなところに、生まれ、育った。僕が着てたものはボロボロでつぎはぎだらけだったから、みんなに「つぎはぎ(パッチェス)坊主」と呼ばれた。パパにもそれをからかわれたんだよ。でも、パパも一生懸命がんばっていたから、実は僕がそう呼ばれることに心を痛めていたんだ。

 

僕のパパは本当に素晴らしい人間だった。学校にも全然行けなかったけど、いつもシャベルを持って働いていた。

 

景気が悪くなっても、パパはやりくり上手だった。畑仕事での雀の涙ほどの稼ぎで、家計をなんとかしていた。

 

だけど、人生の歯車が父を地面にたたきつけたんだ。何度か起き上がろうとしたけど、そのたびに打ちのめされてしまった。

 

ある日、パパに死の床に呼び出された。パパが僕の肩に手をかけ、目に涙を浮かべこう言った。

 

ツギハギ坊主、いいか、

わしゃな、お前をあてにしてるからな。家族のあとをよろしく頼むぞ、すべてはお前の肩にかかってるんだからな。

 

それから2日後、パパが息を引き取った。僕はその日大人の男になったんだ。

だからママに言った。「僕、学校もう、行かないっ」

だけど、ママは「お父さんはお前を何があっても絶対に学校に行かせることにしてたわ」ときっぱり言った。

 

だから僕は毎朝、にわとりにエサをやり、薪を割ってから学校に行った。

つらくてこんなことは続けられないと思ったこともあった。

ただただこの家から逃げ出したいと思った。でもそのたびにパパが死の床で目に涙を浮かべ言った言葉が頭をよぎった。

 

つぎはぎ坊主(パッチェス)

わしゃ、お前を頼ってるんだ、息子よ

わしゃできる限りのことはやるからな

あとはお前が全力を尽くせ。

 

時は刻まれ、ある日激しい雨に襲われ

作物がすべて流されてしまった。

13歳だった僕は確信したんだ。

これから何が起ころうとも、この僕の家族を、そして世界すべてを、僕が支えていかなければならないんだ、と。僕も、ママも、みんなもこれからいばらの道が続くことがわかっていた。

 

これからまた、僕は毎日畑仕事に汗を流さなければならない。なにしろ、生きていくにはそれしかないんだから。

僕は一家の主(あるじ)だった。家族全員の人生が僕の肩にかかっていた。

 

毎晩、ママがお祈りしているのが聞こえてきた。「神様、息子に朝を迎える強さをわけたまえ」と。

 

何枚もの暦(こよみ)がめくられ、子供たちはみな大人になった。

そして子供たちがママに新しい家をプレゼントした。神様、泣いたよ、僕。

でもね、ずっとパパの声が耳元で響き続けてきたんだ、だから今までがんばってこれたんだよ。

 

あの声のおかげさ。

 

つぎはぎ坊主、わしゃ、お前をあてにしてるからな、息子よ。

家族をしっかりまとめろよ。

息子よ、みんなお前にかかってるんだ。

僕にはそんなパパの声がいまだに聞こえてくる。

 

つぎはぎ坊主、わしゃ、お前をあてにしてるからな。

わしゃ最善を尽くす、だからあとはお前に任せたぞ。

 

パパのささやきがいまだに僕の耳元で聞こえてくるんだ…

 

(訳詞・ザ・ソウル・サーチャー)

 

~~~

 

この「パッチェス」について、ちょっと調べていたら、なんと作家の村上春樹さんがこの曲を訳してエッセイを書いているという。アマゾンで探したら新書ででていたので、さっそくぽちってみた。いったい、どんな訳詞になっているか、いまから楽しみだ。

 

村上ソングズ (村上春樹翻訳ライブラリー) (日本語) 単行本 – 2010/11/1

村上 春樹  (著)

https://amzn.to/2X2tstV

 

 

ENT>GREAT SONG STORY>Patches

ENT>Carter, Clarence

 

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 014 ~ リック・ホールのソウル・サーチン■■

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 014 ~ リック・ホールのソウル・サーチン■■

 

昨日のクラレンス・カーターの「パッチェス」をプロデュースしたリック・ホールを描いた映画『マッスル・ショールズ』はまさにリック・ホールのソウル・サーチンの物語。映画の内容とリックの生涯をじっくりどうぞ。映画はレンタルでも、購買でも比較的簡単に入手できます。

 

(本作・本文は約7000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、14分から7分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと23分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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オリジナル・サイト:


◇映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』~リック・ホールのソウル・サーチン
2014年07月05日(土)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11888927212.html

 

映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』~リック・ホールのソウル・サーチン

 

(若干ネタばれがありますが、大勢に影響はありません。どうしても事前情報をいれたくないかたは、映画鑑賞後にごらんください。また映画観賞を迷われている方はぜひお読みください)

 

【Movie “Muscle Shoals” : Rick Hall’s Soul Searchin】

 

主観。

 

ドキュメンタリーというのは、10人の監督がたとえばまったく同じ100時間の映像素材から2時間のものを作ったとしても、10の違ったストーリーが生まれる。その監督の切り取り方、フォーカスの当て方が一番重要なのだ。そして出来上がった1本のドキュメンタリー作品も、10人が見れば10通りの見方をする。自分が思い入れがあるところのエピソードや曲は印象に残っていく。さらに、同じ1本のドキュメンタリー映像を同じ人間が見ても、時間を経てから見ると、また違った視点で見ること、感じることができる。そして優れたドキュメンタリーであればあるほど、多くの人が多くを語りだす。ドキュメンタリーとはそれほど、主観的なものになる。

 

さて、このドキュメンタリー映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』も、そんな見ごたえのある何度でも見たくなるドキュメンタリー作品だ。もちろん、ここに出てくるアーティストのレコードを知っている人が見れば、そんなエピソードがあったのかと、間違いなく大興奮する一方、仮に何も知らなくとも、深南部(ディープ・サウス)の小さなスタジオから生まれた音楽や人の物語に興味をそそられるだろう。

 

人口1万6千。

 

このドキュメンタリー映画は、アメリカ南部アラバマ州にある人口1万6千人(=2010年、1960年代は4000人程度)の小さな田舎街にリック・ホールという作詞・作曲家・ミュージシャンがレコーディング・スタジオ、「フェイム・スタジオ」を作り、その周辺のシンガー、ミュージシャンたちと「マッスル・ショールズ・サウンド」を生み出し、そのサウンドがアメリカ中、イギリス、そして、世界に広がっていった様子を古いアーカイヴ映像やインタヴューを存分に使い描くもの。

 

映画 マスル・ショールズ  街の入り口

 

マッスル・ショールズは、音楽のメッカ、ナッシュヴィル、メンフィスからともに車で約3時間弱という位置にあり、両町からのアーティストも来やすかったが、ナッシュヴィルともメンフィスとも違うサウンドを生み出した。

紆余曲折の人生を歩んできたリック・ホールが育てたスタジオ・ミュージシャンたちのグループが独立し、別のスタジオ「マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ」を設立してちょっとした「戦い」になったり、アリーサ・フランクリンのレコーディング最中にトラブルが起こったりする。そして、多くのミュージシャンがこの「マッスル・ショールズ・サウンド」の「魔法(マジック)」の秘密を語ろうとする。

 

ミック・ジャガーやキース・リチャーズ、ボノ、スティーヴィー・ウィンウッド、ポール・サイモン、ウィルソン・ピケット、アリーサ・フランクリンら多くのミュージシャンを魅了したそのサウンドの秘密は何か。

 

中でも語られるが土地がサウンドを作る、というのはとても重要だ。このマッスル・ショールズの横にはテネシー川が流れる。この川は「歌う川」と呼ばれた。川だけでなく多くの湿地帯があり水が豊潤だ。その水に育まれた森や林や木、ただただ続く綿花畑、そして水と自然がこの地を作り、この地が、この泥が、この水が人間を作る。そこに育った人間が「マッスル・ショールズ・サウンド」を作る。この土地のソウルは、訪れた人にもしみつく、と言う。そして、スティーヴィー・ウィンウッドは「風景の違いが音に現れる」とさえ言う。美しい映像とともに、マッスル・ショールズという土地柄が導入部で実にうまく描かれる。

 

誕生。

 

そして、この物語の成功の大半は、リック・ホールというプロデューサーが、実にこだわりにこだわってレコードを作り続けたことに尽きる。ときにはあまりにミュージシャンやシンガーたちに厳しい要求をつきつけて反感を買うこともあった。だがやはり出来上がった作品は間違いなく「匠が作り出した傑作」だった。

 

 

リック・ホールが「マッスル・ショールズ・サウンドの誕生」と語るアーサー・アレギザンダーの「ユー・ベター・ムーヴ・オン」のレコーディング映像、パーシー・スレッジの回想、パーシーの「男が女を愛するとき」をアトランティックのジェリー・ウェクスラーに売り込むシーン、多くのソウル・ヒットのバックを支えていたのは地元の白人だという驚異的な事実、そして、アメリカ国内でも特に人種差別の厳しい1960年代のアラバマ州においての、スタジオ内での黒人と白人間になんの対立もないこと、そして、リックに育てられた(ミュージシャンたち)スワンパーズのある種の裏切り、アリーサが初めてマッスル・ショールズにやってきたときのエピソード、アーカイヴなど、本作品は「歴史が起こっているまさにその瞬間」へ、我々をいざなってくれる。

 

リック・ホールの人生の中でいくつも挫折と拒絶があった。幼い頃弟が事故死する。それがきっかけとなり母親が家出、父親に育てられる。結婚して妻が交通事故死、父親もトラクターの運転を誤り事故死という身近な死を自身の人生のモチヴェーションにしてリックは、「ここで何かを成し遂げたかった。大物になりたかった」と強烈な思いを秘める。

 

「打ちのめされないと生き残れない。甘やかされた奴はじきに路頭に迷う」とリックは言う。だからリックの厳しさは、彼が歩んできた友達のいなかった辛い人生がにじみ出ているのだろう。

 

投影。

 

クラレンス・カーターが歌う名曲「パッチェス」(1970年7月からヒット、ソウル・チャート2位、ポップ・チャート4位、ゴールド・ディスク獲得。オリジナルはジェネラル・ジョンソンが書いたもので、彼のチェアメン・オブ・ザ・ボードの作品)は、リック・ホールの人生がかぶされていた曲だったことを、今回この映画で初めて知った。これはヒットした当時よく好きで7インチ・シングルを聴いていたが、まさかその裏にリックのこれほどの「思い入れ」があったとは。その「思い入れ」を知って、改めて聞き直すと、実に感慨深い。

 

アー写 クラレンス・カーターとリック・ホール 映画から

(リック・ホール=左、クラレンス・カーター=右)

 

『パッチェス』一部

He said, Patches
I'm dependin' on you, son
To pull the family through
My son, it's all left up to you
Two days later Papa passed away, and
I became a man that day

 

~~父が言った。「パッチェス(つぎはぎ)よ、私は息子のお前をあてにしてる
家族をしっかり頼んだぞ
息子よ、みんなお前にかかってるんだ」
それから2日後、父は亡くなり、僕はその日、男になったんだ~~

 

リックが自身、父を失った喪失感とこの曲のメッセージを重ねたのは自然なことだった。

 

クラレンス・カーターが語る「それまで、外で白人と会うと、彼らには『ミスター・ジミー』とか『ミスター・だれそれ』と言っていたが、ここ(スタジオ)では、ミスターなんてつけずにファーストネームで呼び合っていた。つまり、レコード(音楽)が黒人白人の人種への考え方を覆したのだ。誰も同じ人間だということを」という言葉は、いかに当時、このスタジオ、マッスル・ショールズが特異であったかを表す。そしてドキュメンタリーでは、人種差別政策を推し進めたジョージ・ウォーレス・アラバマ州知事のアーカイヴ映像もでてくる。

 

奇跡。

 

もちろん、マッスル・ショールズのリック・ホールに加えて、ニューヨークのアトランティック・レコードのジェリー・ウェクスラーが果たした役割もとてつもなく大きい。リックという大きなダイナマイトの導火線に火をつけたのが、ジェリーだといっても過言ではない。

 

アー写 ジェリー・ウェクスラー

(ジェリー・ウェクスラー)

 

この映画では触れられていないが、この地のラジオ局では白人のカントリー・ミュージックと黒人のソウル・ミュージックが何の違和感もなく同じようにかけられていたという。確かに、カントリーとソウルのルーツはこうした南部では一緒だ。だからこそ、白人のミュージシャンが黒人のバックをつけることも自然に起こったのだろう。

 

デトロイトでベリー・ゴーディー・ジュニアという人物が起こしたモータウンという奇跡と同様のことが、はるか南部のマッスル・ショールズという土地でリック・ホールによって起こされた。そうしたダイナミックなストーリーの一部がこの映像の中に描かれている。

 

僕は個人的には、この映画はまさにリック・ホールのソウル・サーチンの物語として見た。

 

~~~

 

再会。

 

映画本編ではリック・ホールとデイヴィッド・フッド、ロジャー・ホーキンズ、ジミー・ジョンソンが何年かぶりに再会しハグをするシーンがちょっとだけ出てくる。DVDのエクストラ・トラックでは、実はこの先、4人がのんびり昔話をするシーンがある。

 

リック・ホールと袂を分かち、同じ街にジェリー・ウェクスラーのバックアップの元、その名も「マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ」を建てた彼らとリックは、長い間、口もきかない状態だった。それが40年の歳月を経て、またこのドキュメンタリー作品のために、4人が揃って穏やかに昔を振り返る。時とともに考え方、感じ方も変わり、結局、「時間が解決した」ということになった。

 

映画 マスル・ショールズ スタジオ全景

 

貧困に生まれ、多くの「拒絶」をされて、ひたすらレコード作りに没頭して、たくさんのヒットを生み出してきた「音楽人」リック・ホール。2013年にこの映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』でスポットを浴び、さらに、彼は今年2014年、グラミー賞「トラスティーズ・アワード」を受賞した。「ソウル・サーチンの物語」としては、決して悪くない。

 

映画では直接描かれていないが、2013年6月、これまでノエル・ウェブスターという人物が1999年に買い取っていたものの、ずっと稼働していなかった3614ジャクソン・ハイウェイの「マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオ」を、ザ・マッスル・ショールズ・ミュージック基金が買い取った。同基金は、同地での音楽の歴史を保存したり、同地での音楽発展のために活動している団体。まず15万ドルの資金を集め、さらに改築のために40万ドルが必要だという。同基金は、ここを博物館にする。そして、この基金を運営しているのが、ロドニー・ホール、リック・ホールの息子だ。

 

つまり、父が裏切られて出来たスタジオが、いま、その父の息子によって買い取られ、歴史博物館となろうとしている。まさに歴史の点と点が一本の円になり、一回転した瞬間だ。

 

マッスル・ショールズ・ミュージック・ファウンデーション

http://www.msmusicfoundation.org/

 

~~~

 

■ 初日トーク・イヴェントにピーター・バラカンさんと吉岡正晴登場

 

2014年7月12日(土)の新宿シネマカリテで公開初日の初回上映後12時20分過ぎから、ピーター・バラカンさんと吉岡正晴が、映画について30分程度トークします。ここの映画館は、2日前からの予約になります。7月10日に映画館で初日初回10時20分上映回のチケットをご購入いただくか、前売り券を座席券に交換してください。座席は70~90席です。

 

会場 新宿シネマカリテ
〒160-0022 東京都新宿区3丁目37-12新宿NOWAビルB1F TEL:03-3352-5645
日時 映画上映開始2014年7月12日(土)午前10時20分
トークショー 午後12時20分頃から30分程度
トークパネル ピーター・バラカン、吉岡正晴
入場料 映画チケットの代金のみ

http://qualite.musashino-k.jp/#1404277125

映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』初日トークショーにバラカンさんと吉岡が出ます


2014年07月02日(水)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11887469529.html

 

■7月8日『ソウル・サーチン・レイディオ』(毎週火曜24時~25時、インターFM)で『マッスル・ショールズ』映画紹介、リスナーへ劇場鑑賞券プレゼントも

 

■7月9日『ザ・ナイト』に出演して『マッスル・ショールズ』についてご紹介します。

来週水曜日(2014年7月9日)『ザ・ナイト』にでます
2014年07月01日(火)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11887218606.html

 

■映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』関連記事

 

映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』~南部ソウルの旅への誘い
2014年05月24日(土)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11856958127.html

 

映画『マッスル・ショールズ』2014年7月日本公開決定
2014年03月10日(月)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11791905171.html

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■ 映画は7月12日から公開~

 

映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』は2014年7月12日(土)から新宿シネマカリテで公開。その後、7月19日から立川シネマシティー、7月26日から大阪シネマート心斎橋、8月16日から名古屋センチュリーシネマで公開。ほかに、札幌ディノスシネマズ札幌、横浜ジャック&ベティ、神戸アートビレッジセンター、福岡KBCシネマなどでの公開(日程は未定)が決まっている。

映画予告編

http://youtu.be/uaE6Xf91LBU

 

オフィシャル映画ページ。各界からのコメント、ニューズ、アーティスト紹介、楽曲紹介、ピーター・バラカン・インタヴューなど盛りだくさん。これを見てから映画に触れるとより楽しめます

http://muscleshoals-movie.com/index.html

 

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映画サントラ

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映画~ブルーレイ(字幕はありません)

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日本盤

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『ブルーズ&ソウル・レコーズ』最新号2014年8月号、マッスル・ショールズ特集も。予習にも。

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スペースシャワーネットワーク (2014-06-25)
 

MOVIE>Muscle Shoals

 

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そして、その訃報。2018年1月。

 

●リック・ホール~マッスルショールズ・サウンド生みの親、85歳で死去
2018年01月19日(金)

『●リック・ホール~マッスルショールズ・サウンド生みの親、85歳で死去』●リック・ホール~マッスルショールズ・サウンド生みの親、85歳で死去 【Rick Hall, Fame Studio Owameblo.jp

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12344134224.html


【Rick Hall, Fame Studio Owner, Producer for Muscle Shoals Sound, Dies At 85】

 

訃報。

 

アラバマ州マッスル・ショールズで独特のサウンドを作り上げたプロデューサー、リック・ホールが2018年1月2日、地元アラバマ州フローレンスの自宅で死去した。前立腺癌を患っており、最近体調を崩していたという。85歳。1月31日に86歳になるところだった。

 

リック・ホールはいわゆる「マッスル・ショールズ・サウンド」という独特のサウンドを作り上げた張本人。1960年代から70年代、さらに80年代にかけて、ポップ、ロック、そして特にソウル、R&Bの世界で大きな足跡を残した。

 

https://goo.gl/F2W2tc 

ニューヨーク・タイムズ記事

 


www.nytimes.com/2018/01/03/obituaries/rick-hall-muscle-shoals-dies.html?smid=tw-share

https://www.npr.org/sections/therecord/2018/01/02/575157623/rick-hall-producer-and-songwriter-who-put-muscle-shoals-on-the-map-dead-at-85

 

Candi Staton のツイート
@IamCandiStaton
8:10 - 2018年1月3日
Without Rick Hall, there would be no Candi Staton... He was not only my producer but one of my best friends and I’m going to miss him...

 

リック・ホールは、アラバマ州の何もない片田舎に小さなスタジオを作り、そこから全米、さらには世界的なヒットが生まれるようになり、その「マッスル・ショールズ・サウンド」が大きな注目を集めるようになった。パーシー・スレッジ、アリーサ・フランクリン、クラレンス・カーターなどのソウル・ヒットだけでなく、カントリー・ヒット、ボズ・スキャッグスなどのポップ・ヒット、さらにはポール・サイモン、ローリング・ストーンズなども、この地を訪れそのサウンドで作品を作った。

 

彼に関しては2013年ドキュメンタリー映画『マッスル・ショールズ』で描かれ、これは、翌2014年『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』として日本公開された→

https://goo.gl/6ZaR65

 

~~~ 

 

評伝。

 

リック・ホールは1932年1月31日ミシシッピー州生まれ、アラバマ州マッスル・ショールズ育ち。

 

同地でFAME(フェイム=フローレンス・アラバマ・ミュージック・エンタープライズの頭文字を取ったもの)スタジオを設立。ここで音楽出版社を設立、さらに原盤制作もてがけるようになった。いくつかローカル(地元)のシンガーを録音し、小ヒットさせていたが、1965年、やはり地元で録音したパーシー・スレッジの「ホエン・ア・マン・ラヴズ・ア・ウーマン」がニューヨークのアトランティック・レコードの配給で全米に流通すると、これが大ヒット。

 

この南部の小さな街マッスル・ショールズが音楽業界の大きな注目を集めたのは、これ以降、1960年代半ば、アトランティック・レコーズの敏腕プロデューサー、ジェリー・ウェクスラーがここでアリーサ・フランクリン、ウィルソン・ピケットなどを録音するようになってから多数のアーティストが録音に訪れた。

 

ローリング・ストーンズ、ポール・サイモン、ボズ・スキャッグスなど多数のポップ、ロック・ミュージシャンも「マッスル・ショールズ詣で」をしにやって来た。2013年の映画以外に、1970年にデンマークの放送局が作ったドキュメンタリーがある→

『◇(続)「マッスル・ショールズ」~『フェイム・スタジオ・ドキュメンタリー』~グーグルマップでスタ』◇(続)「マッスル・ショールズ」~『フェイム・スタジオ・ドキュメンタリー』~グーグルマップでスタジオ訪問【Muscle Sgoo.gl

https://goo.gl/LEB4hJ 

 

多くのソウルの名盤を作ったスタジオだが、ミュージシャンは白人。フェイム・スタジオで活躍していたミュージシャンたちが、ジェリー・ウェクスラーのサポートを得て、独立、マッスル・ショールズ・サウンド・スタジオを設立。二者は一時期ライヴァル関係となった。

 

映画『マッスル・ショールズ』、リック・ホールについての紹介

『◇映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』~リック・ホールのソウル・サーチン』◇映画『黄金のメロディ マッスル・ショールズ』~リック・ホールのソウル・サーチン(若干ネタばれがありますが、大勢に影響はあgoo.gl

→https://goo.gl/BqdS3d

 

これはまさにリック・ホールのソウル・サーチンの物語。

ブルーレイ(日本語字幕付き)→

黄金のメロディ マッスル・ショールズ [Blu-ray]goo.gl

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映画ではそのあたりの「戦争」も描かれる。

 

フェイム・レコードの仕事をまとめたコンピCD、詳細なライナーノーツの日本語訳も。https://goo.gl/Prs8cR 

スウェーデンのドキュメンタリーについての詳細 https://goo.gl/GM1Xoq 

 

フェイム、リック・ホールがソウルミュージックの歴史に残した足跡は多大

 

リック・ホール Rick Hall 映画『黄金のメロディ~マッスル・ショールズ』日本公開予告編(約2分半) ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ボノ、ポール・サイモン、アリーサ、クラレンス・カーター、パーシー・スレッジらも登場→https://goo.gl/UpyA93  

 

素晴らしいサウンドを残したフェイム・スタジオ、リック・ホール、ご冥福をお祈りいたします。

 

Fame Studios Story 1961-73
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The Complete Fame Singles Volume 1 * 1964-67
Various Artists
ACE (2014-03-31)
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南部ソウル、ブルーズに詳しい陶守さんのブログ

リックホール逝去、2018年1月9日付け

Blues Ginza Blogblack.ap.teacup.com


http://black.ap.teacup.com/applet/sumori/20180109/archive

OBITUARY>Hall, Rick (January 31, 1931 – January 2, 2018, 85 years old)

 

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◎小曽根真さんの自宅から『ウェルカム・トゥ・アワ・リヴィング・ルーム』5月末でいったん終了

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◎小曽根真さんの自宅から『ウェルカム・トゥ・アワ・リヴィング・ルーム』5月末でいったん終了


日本をベースに活躍する世界的ピアニスト、小曽根真さんがコロナ禍で自宅待機が続く中、少しでも家にいる人たちに何かができないかと考えた結果、2020年4月9日から毎日自宅からフェイスブック・ライヴでピアノ演奏を生配信し始めた。これが大好評を得て、連日8千人を超える人たちが観覧に訪れるようになったが、緊急事態宣言の終結にともない、自宅ライヴを5月31日で一度終了することになった。

 

(本作・本文は約4500字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、9分から4分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと15分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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◎小曽根真さんの自宅から『ウェルカム・トゥ・アワ・リヴィング・ルーム』5月末でいったん終了

 

【Welcome To Our Living Room Will End May 31st 2020】

 

悲報。

 

まさにそれは悲報だった。コロナ禍が深まる2020年4月9日以降毎日夜9時(日本時間)自宅リヴィング・ルームから生配信でピアノ演奏とトークを聞かせていた小曽根真さんの『ウェルカム・トゥ・アワ・リヴィング・ルーム』が、コロナ禍の一段落を受け、5月31日(日)の配信で終了することが発表された。

 

    

4月9日の放送から、5月28日でちょうど50回を迎えるが、5月31日(日)の第53回でいったん終了することになる。

 

この番組は、小曽根さんのフェイスブック・アカウントで毎晩9時から放送され、誰でも視聴可、コメント可の生配信。コメントは連日1万を超える。

 

生配信されるフェイスブック・アカウント。誰でも見られる。
https://bit.ly/2ZJo7d0

 

僕は5月10日(日)放送の竹下由起さんの『湘南ブリーズ』(湘南ビーチFM)で小曽根さんがゲストで出て、この生配信のことを話していて知り、その日から欠かさず毎日見る/聴くようになった。

 

ツイッターでは21時前に、これから始まりますという情報を出したが、一度見たら病みつきまちがいなしのファンが急増。なんと、現在では毎日8000人以上が視聴に訪れる。おそらく最終回は日曜でもあるので1万人突破はまちがいないだろう。

 

小曽根さんの生ピアノと奥様三鈴さんのお相手で約1時間。このトークがまたほほえましい。コメント欄に次々書き込まれるリクエストなどからもその場で演奏したりする。途中までしかできなかった曲は宿題と称して後日完全版が披露されることもある。

 

それにしても、小曽根さんの音楽的キャパの広さが圧巻だ。ジャズ、スタンダード、ポップス、ソウル、ロック、ラテン、ディスコ、日本のさまざまな音楽などなど。しかも、やったことがないという曲を記憶でやり遂げたりもしてしまう。そしてできなかった場合は、宿題で後日完成版をやる。さらに各曲のアレンジ力がすばらしい。

 

聴き手がそれぞれ馴染んだ曲には特にそれを感じられると思う。

 

僕などはソウル系、ディスコ系によくなじんでいるのでアースの「アフター・ザ・ラヴ・ハズ・ゴーン」やマイケル・ジャクソンの「ヒール・ザ・ワールド」、さらに、アースの「イン・ザ・ストーン」には度肝を抜かれた。「イン・ザ・ストーン」などとてもピアノソロでできるような曲ではないのに、小曽根さん曰く「無謀!」にもやってしまった。ものすごく忙しく指が動いていたが、しばらく次の曲に行けなかったほどだ。(笑)

 

 

生配信後約1時間で熱心な小曽根ファンでもある中西光雄さんによる詳細なセットリストが書かれてフェイスブックのアーカイヴに乗ったり、ユーチューブにも乗る。

 

ユーチューブはこちら。

“Borderless Music” by Makoto OzoneYouTube でお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共www.youtube.com


https://www.youtube.com/channel/UC8qMAoagv5AEkYtXGEM_FXQ

過去アーカイヴがすべて見られる。2020年5月27日が第49回。

 

毎回約10曲プレイし、すでに50回近いので延500曲近くプレイしていることになる。

 

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■なぜこの生配信を始めたのか

 

生配信。

 

『湘南ブリーズ』で竹下さんが小曽根さんにインタヴューをした部分を書き起こされているので、許可をもらい転載させていただきました。下記が今回、この『ウェルカム・トゥ・アワ・リヴィング・ルーム』を始めたきっかけなどを語っています。『 』が小曽根さんのコメント。

 

『この状況で、海外の友人ミュージシャン達が家での時間をいかに楽しく過ごすのかを(SNSなどで)見て、同じミュージシャンやファンに何か届けられないかと思って。


No Name Horsesの15周年のツアーがキャンセルになったこともあり、楽しみにされていた方に少しでも何かできないか、と思い始めました。』

 

『芸術は贅沢、高尚だという感覚がまだ日本にはあるが、そうではない、ということを言いたい。』

 

『音楽は生命維持には直接関係ないですが、(このライブ配信が)ひとつのメッセージとして皆さんと音楽で繋がっていきたい。みんなが自由に動けるまでは続けていきたい。』

 

『ナマにこだわるのは、リアルタイムで世界中と繋がっている感覚があるから。芸術は、必ず人の心を繋げていくことができる。終息してもすぐにはコンサートに来られる状況にはならないと思います。だから(今後も)毎日でなくても、せっかくできた宝物のような関係を持続したい。』

『音楽は言葉だと思っているので、その国の世界観を出す時に、可能な限りそれが一番活きる音色で弾きたい。そのためには良い楽器が必要なんです。』

 

『今回(新型コロナウィルス感染拡大)は、人類がちょっと立ち止まって考えませんか、と言われている気がすごくするんです。この星に住まわせてもらっている、ということを謙虚に受け止め、一人一人が地球というものに関わってもいいのではないかと思うんです。僕は、一回組み立て直せるチャンスをもらったと思っています。』

 

『音楽は最たるもので、謙虚さと感謝を持って弾いていないと、絶対お客さんと繋がることができません。聴いている人はわかるんです。音楽的なことは勉強すればいくらだってわかりますが、聴いてピンとくるかこないか、好きか嫌いか、というところで芸術は判断されるべきものなんです。だから、日頃から何を大事に生きていくか、ということがその人の音楽や言葉の端々に出てきたりする。

 

テレビに出て演説している時も、この人は何を大事にしているか、ということが、今、みんな敏感に感じられていると思うんです。政治的なこと、経済的なことではなく、人としてというところをすごく大事に、これからいろいろなものを選んでいくということ、新しい今までよりも素晴らしい世界を作っていくことに繋がっていけばいい、という夢を持っています。』

 

『インターネットのステキなところは、みんな好きなことをしながら聴ける、ということ。


音楽がこんなに近くなったことが、僕は嬉しいんです。コンサートに行ったら、例えば子供を連れて行っちゃいけないとか、動物がいるとダメ、とかあるけど、ここではお風呂に入りながら聴いている人もいるし、退屈したら切っちゃっちゃえばいいんですよ。芸術というものをそれくらい贅沢に扱ってほしいと思う。もう好き嫌いでいいんですよ。それしかないんですから、生きている証拠は。』

 

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また、ジャズ・トウキョウというウェッブでもこの小曽根さんライヴについて、紹介されている。

 

リンクはこちら→

[ライブ配信] 小曽根 真 Welcome to Our Living Room 〜 毎晩、自宅からコンサートを配信自宅からソロピアノコンサートを毎晩配信し、COVID-19による自宅待機、ロックダウン中の人や医療従事者などに届けている。jazztokyo.org


https://jazztokyo.org/news/post-51934/
(2020年4月26日付け)

 

それにしても、5月で終わってしまったら、6月から1万人以上の人が「小曽根ロス」に陥ることになりそうだ。

 

過去アーカイヴを一回目から毎日見ようかなと思う。(笑)

 

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奥さんとのかけあいや、猫のおーちゃん、ゆっくりちゃんたち(飼い猫は3匹)も時折登場する。

 

昨日(2020年5月27日)はたとえばアース・ウィンド&ファイアーの「イン・ザ・ストーン」をソロ・ピアノで披露。下記動画で43分25秒あたりから。

https://www.youtube.com/watch?v=sFMWRjQkhwE

 

この日のセットリストは次の通り。[ ] denotes original artist and/or the acts who made it hit first followed by songwriters

 

Set List 2020-05-27 “Welcome To Our Living Room #49

 

Show started 21:00
01 "You Are the Sunshine of My Life" [Stevie Wonder - 1973] by Stevie Wonder
02 "I'm Getting Sentimental Over You" [Tommy Dorsey Orchestra, 1932] by Ned Washington George Bassman
03 "Change the World" [Eric Clapton – 1996] by Tommy Sims/Gordon Kennedy/ Wayne Kirkpatrick.
04 "Esperanza" by Makoto Ozone, album”THE TRIO”(1997)
05 Happy Birthday 
06 "I Try To Imagine" by Makoto Ozone,  Album “UNTIL WE VANISH” (2019)
07 "In the Stone" [Earth, Wind & Fire – 1979] by Allee Willis, David Foster, Maurice White
08 "Autumn Leaves" [Roger Williams -1955] by Joseph Kosma /Jacques Prévert(French Lyrics)/ Johnny Mercer(English Lyrics)inspired by Oscar Peterson.
09  "The Rose"[Bette Midler – 1979] by Amanda McBroom
Show ended 22:05

 

Many Thanks to Makoto Ozone,  Mitsuo Nakanishi (with the support of Hiroshi Itsuno "55 Records") for all the song credits.

 

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 015 ~ 76年の夏を思い出させるボズ・スキャッグ

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 015 ~ 76年の夏を思い出させるボズ・スキャッグスの『シルク・ディグリーズ』+76年の初渡米(書き下ろし)■■

 

ボズ・スキャッグスの『シルク・ディグリーズ』がリリースされた1976年、その7月、僕は初めてロスアンジェルスとニューヨークを訪れた。『シルク・ディグリーズ』からの「ロウ・ダウン」の大ヒットのアーカイヴと、今回の書き下ろしによる1976年夏のLA、ニューヨーク紀行のほんの一部をご紹介します。

 

本記事は有料設定ですが、このnoteで最後まで無料で読めます。読後、お気に召せば「記事を購入する(今回は100円)」、あるいは、「サポートをする」(金額は自由に設定可)なども可能です。クレジットカード払いか、携帯電話支払いがお選びいただけます。アカウントを作らなくても支払い可能。アカウントを作ると、次回以降手続きが簡略化できます。

 

(本作・本文は約4000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、8分から4分半。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと13分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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オリジナル・サイト

 

2005/01/07 (Fri)

Boz Scaggs' "Silk Degrees" Remind Me Summer Of 76

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200501/diary20050107.html

 

2005/01/07 (Fri)

Boz Scaggs' "Silk Degrees" Remind Me Summer Of 76

76年の夏を思い出させるボズ・スキャッグスの『シルク・ディグリーズ』

 

青い空。

 

シルク・ディグリーズ

 

昨年(2004年)暮れ、ボズ・スキャッグスのアルバムが一挙に廉価盤で再発売され、その中にあの名盤『シルク・ディグリーズ』(1976年作品)があったので、何度も聴いている作品だが、また久々にCDを聴いてみた。

 

1976年の夏、ちょうど「ロウダウン」がR&Bラジオや、ディスコでもかかっていたことを思い出す。白人の作品ながら、ソウルフルなサウンドで、R&Bステーションでも支持を集めたのだが、やはり、このベースラインが醸し出すグルーヴ感は素晴らしい。アヴェレージ・ホワイト・バンドなどのいわゆるブルー・アイド・ソウルが話題になっていた時期でもあり、「ロウダウン」もある種ブルー・アイド・ソウル的に受け入れられていたことも納得できる。

 

とはいうものの、僕は当時は完璧にソウル・ミュージック至上主義(笑)で曲を聴いていたので、みんなが黒っぽいといったこの「ロウダウン」でさえも、白さを感じていた。だが、抜群なポップ感覚はこの曲に感じていたから、これがポップ・チャートを駆け上るのは容易に理解できた。

 

1976年7月、僕は初めてアメリカに行った。友人がロスにいてその彼を訪ねておよそ一週間の予定で機上の人となった。で、その時レンタカーを借りたのだが、カーラジオから繰り返し流れてきた曲のひとつが「ロウダウン」だった。僕が聴いていたのはもちろん、局はどこだったか忘れたが、ブラックステーション、R&Bステーションだったにもかかわらずだ。(おそらくKJLHかKDAYあたりだったかもしれない)

 

当然、ロスの風景と、カーステレオから流れてくる多くのソウル・ヒットの中に混ざってこの「ロウダウン」がかかってもまったく違和感はない。たしかアメリカのラジオというものにどっぷり浸かったのもあの時が初めてだったかもしれない。そこで、アメリカのラジオはヒット曲が一時間に1回かかるものだということを知った。

 

Boz Scaggs - Lowdown (Official Audio) https://www.youtube.com/watch?v=I-hKBmTAADo

 

 

 

天辰保文さんが2004年10月に書き下ろしたCD解説によれば、天辰さんはこのアルバムがヒットした1976年12月にサンフランシスコでボズのライヴを見た、という。しかも、そのライヴは男性ブラックタイ、女性ドレスというドレスコードがあったそうだ。もうそんなころからボズの音楽とそのファンは、おしゃれだったのかと改めてびっくりした。

 

ここには、他に「ハーバー・ライツ」という傑作バラードやあるいはリタ・クーリッジでヒットした「ウィ・アー・オール・アローン」も入っている。まさに名盤である。

 

Boz Scaggs - Harbor lights

https://www.youtube.com/watch?v=Ry19uowIgAo

 

 

We re all alone 訳詞付 Boz Scaggs

https://www.youtube.com/watch?v=fSXsUC4O3FI

 

 

 

ボズはサンフランシスコ出身だが、僕にはこの「ロウダウン」とカリフォルニア、それもロスの青い空が結びついている。それはちょうどこのジャケットの雲ひとつない青い空のイメージである。76年、日本では雑誌ポパイが誕生する年だ。アメリカ、カリフォルニアが日本の若者にぐっと近づこうとしていた時期でもある。

 

SILK DEGREES CD, オリジナルレコーディングのリマスター, インポート

ボズ・スキャッグス

 

 

POPEYE (ポパイ) 創刊号 1976年 SUMMER カリフォルニア特集 雑誌 – 1976/7/31

 

 

 

Boz Scaggs / Vinyl Album "Silk Degrees" 1976 full/complet

https://www.youtube.com/watch?v=cmmmzNFykAY&list=PLuJVd8CEAt6bDACLLBl2XU1ljIRn9WMgk

 

Diary Archives by MASAHARU YOSHIOKA

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2020年5月29日記

 

◎  あれから44年~1976年に思いを馳せて

 

【44 Years Later, 2020】

 

初アメリカ。

 

1976年7月にアメリカに行ったときのことはいろいろとよく覚えている。44年も前なのに。

 

すでにレコードの輸入業を始めていた僕はその取引先の人と一度顔を合わせておいてもいいだろう、くらいの軽い気持ちで出向いた。当時は国際線はまだ羽田発のみだった。

 

LAに着くと以前東京で知り合っていた友人のOさん(日本人)が空港まで迎えに来てくれた。サンセット・ブルヴァードのモーテルを予約してくれておいたのも彼だ。いろいろあちこちを案内してくれたが、LAでのちょっとしたことも教えてくれた。

 

僕はといえば、アメリカのことをテレビや映画などでちょっとだけ知っていたつもりだったが、実際は見る物聞くものすべてが真新しく、なにからなにまでカルチャー・ショックだった。

 

空港にOさんが迎えに来てくれたので、レンタカーはモーテル近くのレンタカー屋で借りた。もちろん、左ハンドルの右側通行など初めてでかなり戸惑ったが、2-3日で慣れた。

 

モーテル近くのカフェ(いまでいうファミレスだったかも、デニーズのような)で朝食か昼食をOさんと取っていると、その店の中に汚い身なりの見るからにホームレスが入ってきた。するとOさんは、「絶対に金や物をあげるな」と言う。僕なんかは1ドルくらい恵んでもいいのではと思ったが、「絶対ダメだ」という。というのは、「一人にやると、それがまわりのホームレスに伝わって、ほかの連中があいつにやったのに、なんで俺にくれなんだ、と文句を言ってくるからだ」という。「マジか、そんなことがあるのか」と驚いたが、現地に住むOさんの言うことはきいたほうがいいに決まっているので、無視することにした。そのとき、財布を見せるな、現金は人前で数えるな、など、今となっては当たり前のことを強く言われた。

 

車椅子。

 

かと思えば、ハリウッドかどこかのアイスクリーム・ショップに行ったときのことだ。僕は一番定番の「ヴァニラ・アイスクリーム」が欲しかったが、これがまったく通じない。どうも「バ・ニ・ラ」がダメでちゃんとV音を発音して「ヴァッ」とやらなければならなかったようだ。結局でてきたのは、「バナナ・アイスクリーム」だった。

 

このときに、カウンターの向こう側にいた店員の一人が車椅子で客の注文を取り、その味をスクープし、客に渡し、お金を受け取っていたのを見て、大変驚いた。「おおっ、アメリカは車椅子でも働けるようになってるんだ」とえらく感嘆した。日本では街中ではほとんど病院以外で車椅子など見る機会はなかったから、普通のそうした店で車椅子の人が、他のスタッフと同様に仕事をしているのが新鮮だった。1976年、44年も前のことだ。そう思って注意していると、意外とすでに車椅子の人がレストランやスーパーなどにもいることに気が付いた。そのとき、アメリカのトイレはめちゃ広いなあと感じたのだが、それは車椅子でも利用できるようになっていたのだ。日本でバリアフリーなどと言われるようになったのは、たぶんこの20年くらいだと思うので、その1976年の体験はなかなか斬新だった。

 

英語の発音で通じなかったのが、「コーヒー」と「コーク」「コーラ」の違い。コーヒーをオーダーしてコーラが来て、コーラをオーダーしたのにコーヒーが来たことがなんどあったか。(笑)

 

LA滞在中には、上記のブログでも書いた通り、ラジオ、FM局をずっと流していた。車はもちろん、モーテルにいるときもそうだ。そのとき持って行ったラジカセにそのラジオをかたっぱしから録音した記憶があるのだが、どうもそれが手元にない。その次にLAに行くのは1983年なので、ひょっとしたらラジオを録りまくったのはそのときだったかもしれない。

 

タワー・レコードに行ったのもこのときが初めてだった。それはそれは楽しかった。あんなに大きくて広いレコード店など見たこともなかったから、何時間でもいられた。当時はあの黄色い袋が本当にまぶしかった。

 

ただ1976年の時点ではすでに新譜アルバムは自分で輸入してほとんど欲しい物は買っていたので、旧譜の古いものなど、いわゆるカット盤を漁ってきた。

 

そういえばこのときチップの払い方も、Oさんに教わった。この10%から15%というのがなかなかめんどうくさかった。

 

初ニューヨーク。

 

このとき、一日だけ「レッド・アイ・スペシャル」(西海岸を夜中出発、東海岸に朝到着する便。時差3時間をカウントすると8時間半から9時間時計が進む。夜23時にLA発だと朝8時頃ニューヨークに到着する。みんな眠くて目が赤くなるので、レッド・アイ・スペシャルという)でLAからニューヨークに行った。今思えば、ニューヨークとLA3泊ずつくらいにわけてもよかったかなとも思うが、ニューヨークにはOさんのような人がいなかったので、勝手がわからなかったのだ。

 

このころ母親にLAとニューヨークの違いをよく聞かれ、LAがコロンボが住んでいる所でニューヨークがコジャックが住んでいる所だと説明すると、なんとなく理解してくれたようだ。ついでに説明すると、アイアンサイドはサンフランシスコだ。刑事でアメリカの都市を覚えるのかという話だが。(笑)

 

そして、ナップザックのようなものひとつで朝方ニューヨークに着いた僕はマンハッタンまでバスで行き、まだ時間が早かったので、空いてるカフェで朝食を取ってから唯一の知り合いLさんに電話をした。住所を聞いていたので、その近くまで来ていたが、電話をすると入口で部屋番号と名前を言えば、ガードマンが通してくれる、という。たしか52丁目あたりのけっこうな高層マンションでドアマンがいるちゃんとしたところだった。

 

その彼の部屋は40何階で、窓からはマンハッタンが一望できた。彼は夕方はJFKまで送っていくと言ってくれた。

 

まあ、半日しか一緒にいなかったのだが、その雑談の中で超びっくりしたのが、その高級マンションの少し下の階は映画の撮影スタジオになっていて、『コジャック』をいつも撮影していると言われたことだ。「よくテリー・サヴァラスに会うよ」と言われ「へえ、これがニューヨークか」と思ったものだ。そう、コジャックはまちがいなくニューヨークに住んでいたことがわかったのだ。

 

あの頃、もっとずうずうしければ、そのスタジオに案内してくれ、テリー・サヴァラスとツーショット写真撮りたい、と言っただろうなあ、と今は思う。

 

結局、僕が次にニューヨークに舞い降りるのは1983年7月、それから7年後のことだ。

 

それはまた別の機会に。

 

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◎ミネアポリス・ライオット2020

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◎ミネアポリスで暴動

 

2020年5月25日夜、ミネアポリスの白人警察官デレク・ショーヴィンが無抵抗の黒人ジョージ・フロイドさん(46)を押さえつけ、「息ができない」と言うものの押さえ続けた結果死去。その一部始終の模様が撮影されネットに公開されたところ一挙に反発が起こり、暴動へ発展した。当該の警官4名は解雇されたがまだ逮捕されていない。捜査も開始。広範な抗議行動がミネアポリス以外の地域にも広がりつつある。動画含むニュース記事。ニュースをまとめた。

https://bit.ly/2AaeiKd

 

#Georgefloyd

 

 

(本作・本文は約3000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、6分から3分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと10分くらいの至福のひと時です。ただ各関連リンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、さらに30分以上楽しめます。お楽しみください)

 

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◎ミネアポリス・ライオット2020

 

【Minneapolis Riots 2020】

 

暴動2020。

 

街が炎に包まれる。CNNのニュース画面からはミネアポリスが燃えている様子が休みなく写されていた。まるでミネアポリス・ライオット(暴動)2020だ。

 

2020年5月25日夜、ミネアポリスの白人警察官デレク・ショーヴィンが無抵抗の黒人ジョージ・フロイドさん(46)を押さえつけ、「息ができない」と言うものの8分間ほど押さえ続けた結果死去。現場には他に3人の警官もいたが、なにもしなかった。その一部始終の模様が撮影されネットに公開されたところ一挙に反発が起こり、暴動へ発展した。当該の警官4名は解雇され、ショーヴィンは第3級殺人で逮捕された。世論はほかの3人への厳罰を求め抗議を行っている。捜査も開始。広範な抗議行動がミネアポリス以外の地域にも広がりつつある。動画含むニュース記事。ニュースをまとめた。

https://bit.ly/2AaeiKd

 

この記事中の動画に路上に寝かされ首を押さえつけられているジョージ・フロイドさんの姿がある。繰り返し「アイ・キャント・ブリーズ(息ができない)」と言ってるにも拘わらず、デレク・ショーヴィンはそのまま押さえつけ、動きが止まってしまう。周りで見ている者が、「脈を計れ」などと叫ぶが、まもなく救急車に運ばれていったが、その後死亡が確認された。

 

そしてこの模様の一部始終が携帯電話で動画に撮られており、SNSに載せられた瞬間、一気に拡散した。

 

(ジョージ・フロイドさんの首根っこを押さえつけるデレク・ショーヴィン元警官)

 

ミネアポリスで暴徒と化した群衆が警察署に放火をしたり、店に略奪に入るなど暴動に発展してしまった。

 

この暴動は、ミネアポリスのダウンタウンを中心に起こっているが、他の地域にも飛び火している。

 

28日にはこの暴動を取材していたCNNのカメラマン、リポーターらが一時期当局に逮捕されるなど混乱が続いている。彼らはその後、29日には釈放された。

 

著名人を含む多くの人たちがSNSやメディアでもこの問題を取りあげ、とりあえず逮捕されたショーヴィンが軽い刑、あるいは執行猶予などがついたら再度暴動が起こりそうだ。

 

(今回問題を起こした警察官が所属する警察署。火が放たれた)

 

全米各地でのデモなどの動きも含め、しばらく目が離せない状況だ。

 

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2020年5月29日10時57分のジェニファー・ブルックスのツイッター。パトカーがスプレーを撒き人々を威嚇している。

https://twitter.com/i/status/1266186985041022976

 

5月29日午前11時41分

https://twitter.com/Breaking911/status/1266197959152107528

 

ミネアポリスは日本時間からマイナス14時間。CNNは長時間の生中継を行っていた。

 

If Prince is there, he would sing: Prince-Baltimore    

https://bit.ly/2X9CTb0  Baltimore could be Minneapolis, and

Prince - Mary Don't You Weep →https://bit.ly/2XGv5MV "Mary" could be George Floyd. 

#minneapolisupdate #georgefloyd #georgefloydrip what a tragedy

 

プリンスの「ボルティモア」についての解説→https://amba.to/36FUNFv 歌詞→https://amba.to/2TNl27V#minneapolisupdate #georgefloyd #georgefloydrip

 

ミネアポリス出身のプリンスは、2015年4月、メリーランド州ボルティモアで黒人生年フレディー・グレイが死去した件で、すぐにボルティモアに出向きチャリティー・コンサートを行った。

 

どうもこのデレク・ショーヴィンは以前から問題があった警察官のようだ。

 

https://twitter.com/eridescent__/status/1266013547156377602

 

続・ミネアポリス暴動。警官に殺されたジョージ・フロイドは、ずっと「息ができないI can't breath」と言い続けたが、押さえつけられた。なんと2015年の作品で元テレンス・テレント・ダービーSananda Maitreya が I Wanna Breathe  という曲を出していて、今回SNSに投稿→

https://www.youtube.com/watch?time_continue=236&v=W_VkxR5rKDg&feature=emb_logo

 

首を絞められて死んでしまうシーンはスパイク・リーの『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989年)の映画のワンシーンにあり、これが2000年代に入っても現実化したことが大きな問題となった。

 

Do the Right Thing Radio Raheem's death

https://www.youtube.com/watch?v=7TrE6GquNKE

 

マーカス・ミラーもその名も「アイ・キャント・ブリーズ」をリリース。2015年。

 

I Can't Breathe - Marcus Miller

https://www.youtube.com/watch?v=GWiGHbcoGBA

 

一方で、すでにその暴動で散らかったエリアを清掃している有志たちもいる。

 

2020年5月29日午前2時10分

https://www.facebook.com/marvin.el.73/posts/2791613631061739?__cft__[0]=AZWle4GbY35-v7d0aZuB5g98836yPD8YnzFFdnIXPFQYbKvwtQZE5evRrd6u1G9R47vc00cVwRQuBc73pRZSCG0x1Ofy8wzbD_NMe4DLxfp8dbcnIe2xFUgGmoqrZX30m0Q&__tn__=%2CO%2CP-R

 

2020年5月29日午前7時54分

https://twitter.com/lolwtfnotmonica/status/1266140727358246913

 

1967年デトロイト暴動、1992年ロドニー・キング事件に端を発したロスアンジェルス暴動。

 

2000年代に入ってからは同様の事件が多発し、一挙に、「ブラック・ライヴズ・マター(黒人の命も大切・重要だ)」運動が巻き起こった。

 

■関連記事

 

 

2018年に公開された映画『デトロイト』は1967年のデトロイトで起きた暴動を題材にしたもの。

 

映画『デトロイト』~2018年1月日本公開~1967年の暴動を50年後に描く衝撃作(1)

2017年11月20日(月)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12329704810.html

 

○映画『デトロイト』(2)~ドラマティックスの栄枯盛衰~新スター誕生、ラリー・リード役アルジー・

2017年11月22日(水)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12330293292.html

 

■最近の人種差別問題関連記事。

 

スティーヴィー・ワンダーがひざまずくとき~シャーロッツヴィルに登場~

2017年09月28日(木)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12314322903.html

 

(最近の人種差別への抗議行動として象徴的になっているひざまずき(taking a knee)についての解説)

 

映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』~アルバムから映画まで27年を経てのブラックムーヴィーの金字塔

2015年09月27日(日)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12077294077.html

 

NWAのヒットに「ファック・ザ・ポリス(警官なんてくそくらえ)」という警察に対する不信を声高に語る作品もある。その頃から、警察の横暴は変わらない。

 

第57回グラミー・モーメント~ファレルの主張とキング牧師への賛歌

2015年02月10日(火)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11987696106.html

 

「ブラック・ライヴズ・マター」が象徴的に表れたグラミー賞授賞式。

 

■ブラック・ライヴズ・マター関連記事・参考資料

 

2014年12月12日(金)

スティーヴィー・ワンダー、警察官不起訴に曲内でコメント

http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11962479104.html

 

【エリック・ガーナー事件】

 

2014年7月17日、ニューヨーク・スタッテン・アイランドで起きた事件。路上で煙草を売っていた黒人エリック・ガーナー(43歳)が警官の職務質問に「放っておいてくれ」と言ったが言い争いとなり、白人警官ダニエル・パンテーロ(29歳)がニューヨークでは禁じられている後ろから羽交い絞めにし、殺してしまった事件。ガーナーは羽交い絞めにされているときに、「息ができない I can't breath」と何度も言っているが、警官はそれを無視して羽交い絞めを続け、結果殺してしまった。

 

 

 

【マイケル・ブラウン事件】

 

2014年8月9日、ミズーリ州ファーガソンで起こった無防備の黒人青年マイケル・ブラウン(18歳)が白人警官ダレン・ウィルソン(28歳)によって射殺された事件。

 

【トレイヴォン・マーティン事件】

 

2012年2月26日、フロリダ州サンフォードでマーティン(17歳)が自警団のジョージ・ジマーマン(28歳ヒスパニック系)に射殺された事件。ジマーマンは同州にある「スタンド・ユア・グラウンド法、正当防衛法」のために無罪となり、抗議運動が起こった。

 

黒人を殺した白人が相次いで不起訴となったことで、各地で暴動、抗議行動が起こっている。これらすべてを含めてBlack Lives Matter 黒人の命だって大事なんだ、という運動が起こっている。

 

グラミー余波~ハンズ・アップ・ドント・シュート~ファレルからビヨンセへ

2015年02月11日(水)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11988131340.html

 

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 016 ~ メンフィスを代表するソウル・レーベル、ス

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 016 ~ メンフィスを代表するソウル・レーベル、スタックス・レコード物語 

■■

 

5分でわかるメンフィスを代表するソウル・レーベル、スタックス・レコード物語。オーティス・レディング、アイザック・ヘイズ、ジョニー・テイラー、バーケイズなど多くのアーティスト、ヒットを生み出したそのレーベルは1959年から1974年まで実質15年ほどの活動だった。その15年で残した足跡。映画『ワッツタックス』を見るとそれだけで1時間40分くらいかかりますw 

 

 

(本作・本文は約4000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、8分から4分半。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと13分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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2005/01/09 (Sun)

Stax Story: Stax Is Answers From Southern To Motown In Nothern

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200501/diary20050109.html

 

5分でわかるスタックス・レコーズ。

 

メンフィス。

 

『ソウル・ブレンズ』内「ソウル・サーチン」のコーナーでは、(2005年)1月9日から4回にわたってメンフィスの名門レーベル、スタックス・レコードを特集する。時間も通常の20分から30分へ拡大してのご紹介だ。

 

スタックス・レコードは1959年テネシー州メンフィスで、ジム・スチュワートとエステル・アクストンの2人の兄弟(正確には姉=エステルと弟=ジム)によって設立されたインディのレコード会社。設立当初は、サテライト・レコードといった。ジムは、銀行員のかたわら、カントリーが好きで自らフィードルを演奏していたが、当時、地元から登場して全米的な人気を得始めていたエルヴィス・プレスリーの成功が大いに刺激になった。

 

エステル(左)とジム(右)

 

地元のDJ、フレッド・バイラーの歌を録音し、サテライトから発売。これが記念すべき第一弾となった。その後、レーベル名をスタックスへ変更。このSTAXは、スチュワート(Stewart)のSTとアクストン(Axton)のAXからとった。当時は、地元のカントリー、ポップ、ソウルのアーティストなどをそれほどこだわりなく録音していた。

 

1961年、地元で発売したR&Bシンガー、カーラ・トーマスの「ジー・ウィズ」の発売権をメジャーのアトランティックが獲得し、全国発売したところ、全米規模でヒット。これがスタックスとしての記念すべき初ヒットとなった。

 

カーラ・トーマス

 

 

以後、このレーベルからは、マーキーズ、ルーファス・トーマス、ウィリアム・ベル、ブッカーT&ザ・MGズなど多くのアーティストが登場。そのアーティストもほとんど黒人となり、ソウル、R&B中心のレーベルになっていく。

 

~~~

 

天才登場。

 

そして、1962年秋、このレーベルにひとりの天才シンガーが現れる。それがオーティス・レディングだ。彼がスタジオの余り時間に録音した「ディーズ・アームズ・オブ・マイン」が1962年10月にリリースされると瞬く間に大ヒット。オーティスの存在とメンフィスにある一レーベル、スタックスの存在をアメリカの音楽業界に広く知らしめることになった。

 

オーティスの人気に牽引されるように、スタックスからの作品は徐々に大ヒットするようになる。エディー・フロイド、ジョニー・テイラー、サム&デイヴ、アイザック・ヘイズ、メイブル・ジョン、さらに無数のローカル・アーティストたちが作品をだした。

 

オーティス・レディング

 

スタックスからでるソウル・レコードは、いわゆる「スタックス・サウンド」と呼ばれ南部を中心に人気を集めるが、その特徴は、ブルーズとゴスペルに根ざした泥臭い黒いサウンドだった。北部のモータウンが都会的に洗練されポップになっていったのに対し、スタックス・サウンドはあくまで黒さが全面にでていた。その点で、モータウンはアメリカだけでなく、世界的に支持を受けたが、スタックスはあくまで黒人による黒人のための、黒人の音楽という意味で、世界的な広がりはモータウンほどにはなかった。

 

Otis Redding "Try A Little Tenderness" Live 1967 (Reelin' In The Years Archives)

https://www.youtube.com/watch?v=IQ9n2_5mbig

 

しかし、一方で、ソウル、R&B、ゴスペル、ブルーズといったブラック・ミュージックの王道をリリースしてきたスタックスの存在意義は大きい。またスタックスは、地元メンフィスだけでなく、北部シカゴ、デトロイト、東部のフィラデルフィアなどのアーティストたちの作品も積極的にリリース、徐々に総合ソウル・レーベル的な存在になっていく。

 

スタックスは、1960年代中期、メジャーのアトランティックが配給を担うことになり、ヒットを出すが、まったく予期せぬ不幸が襲う。スタックスの看板スター、オーティス・レディングが1967年12月10日、飛行機事故で他界するのだ。これは同レーベルにとって計り知れぬ衝撃を与えた。

 

スタックスの歴史を俯瞰すると、1959年からこの1967年暮れまでを第一期、1968年から1975年までを第二期とすることができる。第一期は、まさにすべて勢いで走ってきた。だが、それ以降はそれまでと違った空気で運営されていくようになる。

 

(この項・続く)

 

「スタックス・レコード・スペシャル」は、『ソウル・ブレンズ』(日曜午後1時から5時、インターFM76.1mhz)内「ソウル・サーチン」のコーナー(午後2時から2時半)で4週間にわたってお送りします。

 

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2005/01/10 (Mon)

Stax Story Part 2: After Otis, It's New Generation Of Stax

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200501/diary20050110.html

 

 

2005/01/10 (Mon)

Stax Story Part 2: After Otis, It's New Generation Of Stax

 

死後。

 

オーティスの死後、しばらく、スタックスの面々はまったく何も手がつかなかった。だが、彼らは仕事を続ける。ルーファス・トーマス、ジョニー・テイラー、エディー・フロイド、ソウル・チルドレン、ジュディー・クレイ、ステイプル・シンガーズ、オリー&ナイチンゲールズ、ニューカマーズ、ドラマティックスなどなどがヒットを出しつづけ、スタックスの火を消すことなく守った。

 

1967年12月のオーティスの死をきっかけに、アトランティックが配給から手を引き、1968年からはガルフ&ウェスタン社が全米での配給を担当。このころスタックスの運営に有能な人物が登場する。元メンフィスのラジオDJ、アル・ベルである。彼は地元でDJをやっていたが、スタックスの作品、メンフィスのローカルアーティストの作品群を積極的にプレイし、地元アーティストの人気を高める手助けをした。

 

アル・ベル

 

そうした実績が認められ、彼はスタックスのプロモーションマン(宣伝マン)として雇われるようになる。そして、すぐに手腕を発揮し、彼は副社長にまでなる。アル・ベルは、スタックスに新たなイメージを作ろうとした。新しい「指がなっているような(フィンガー・スナッピン)」ロゴを作り、レーベルデザインを変え、配給元も変え、心機一転再出発を計った。そして、上記のアーティストらが次々とヒットを出すようになった。

 

~~~

 

新生スタックス。

 

それまでソングライター、プロデューサーとしてスタックスを裏から支えてきたアイザック・ヘイズは自らの低音ヴォイスを打ち出し、シンガーとしても登場。彼は映画『シャフト』のテーマを担当し1971年全米ナンバーワンを生み出す。ゴスペル・グループ、ステイプル・シンガーズも「リスペクト・ユアセルフ」「アイル・テイク・ユー・ゼア」の2大ヒットで一躍メジャーな存在に、さらに、デトロイト出身のドラマティックスも「イン・ザ・レイン」(1972年)の大ヒットを放ち、エモーションズがコーラス・グループとして注目され、それまでになくスタックスは成功する。

 

 

~~~

 

大イヴェント「ワッツタックス」。

 

そして、スタックス・レコードの歴史上最大の出来事が1972年8月に起こる。アル・ベルが音頭をとり、スタックスのアーティストを集合させ、ロスアンジェルスコロシアムで行った大イヴェント「ワッツタックス」である。これは、ロスの黒人街であるワッツ地区を潤そうということで、行われたイヴェントでスタックスのアーティストが10時間以上にわたってライヴを見せた。「ワッツタックス」とは、おわかりのように「ワッツ」と「スタックス」をあわせた言葉である。この模様はライヴレコード、映画にもなり、そのイヴェントは現在でも伝説として語られる。

 

 

Wattstax 1973 (映画・フルヴァージョン、約1時間43分)

https://www.youtube.com/watch?v=9xJw7g1wvRw

 

Wattstax LIVE Isaac Hayes - Ain't No Sunshine (Full Length Version)

https://www.youtube.com/watch?v=H8mYeehkqAA

アイザック・ヘイズのビル・ウィザースの「エイント・ノー・サンシャイン」のカヴァー・ヴァージョン、音のみ

 

 

しかし、残念ながら1973年ごろからスタックスからなかなかヒットがでなくなり、最終的に1975年、スタックスは倒産。所属アーティストは、次々と他のレーベルへ移っていった。ジョニー・テイラーはCBSに移籍し、「ディスコ・レディー」の大ヒットを、ウィリアム・ベルはマーキュリーに移り「トライング・トゥ・ラヴ・トゥー」の大ヒットを、エモーションズもCBSに移り「ベスト・オブ・マイ・ラヴ」などの大ヒットを出すようになった。

 

スタックスの作品の権利はその後ファンタジー・レコードが買収し、管理発売している。スタックスの実質的な活動時期は1959年から1974年くらいまでの15年ほどだったが、その間に残した作品群はブラック・ミュージックのかけがえのない宝物である。

 

+++++++++++++++

 

「スタックス・レコード・スペシャル」は、『ソウル・ブレンズ』(日曜午後1時から5時、インターFM76.1mhz)内「ソウル・サーチン」のコーナー(午後2時から2時半)で4週間にわたってお送りします。第二回は1月16日(日曜)。30分に拡大です。

 

Diary Archives by MASAHARU YOSHIOKA

 

 

■スタックス関連記事

 

カーラ・トーマス来日

カーラ&ヴァニース・トーマス・ライヴ~メンフィスの香りをたっぷり漂わせ

2018年08月02日(木)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12394866849.html

 

ユニクロがレコード・レーベルのTシャツを発売

2016年03月08日(火)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12136691087.html

 

LLクールJが語るヴァイナルへの熱い思い~『NCIS:ロスアンジェルス』

2014年04月19日(土)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11826668286.html

 

DVDワッツタックス

 

ワッツタックス/スタックス・コンサート [DVD]

ワーナー・ホーム・ビデオ (2009-07-08)

https://amzn.to/3cjeYdx

 

1972年夏に行われたスタックス主催の大イヴェント『ワッツタックス』の映画DVD。そういえば、このことについてはほとんど触れられていなかったような気も。

 

ソウル・レジェンド、アイザック・へイズ死去

2008年08月12日(火)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10126355414.html

 

【映画『ソウル・メン』に出演~アイザック・ヘイズとバーニー・マック

2008年08月13日(水)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10126746106.html

 

ソウル・ジャイアンツ、ブラック・モーゼ、アイザック・ヘイズ(パート3

2008年08月14日(木)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10127098769.html

 

 

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ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ#016~南アフリカ出身ヒュー・マサケラ笑う門には福来たる

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南アフリカ。

 

南アフリカ出身のトランぺッター、ヒュー・マサケラは僕のお気に入りのトランぺッターだ。2005年に来日したときに、ライヴを見に行った。日本ではほとんど知られていないが、一般的には「グレイジン・イン・ザ・グラス」という1968年のミリオン・セラー、全米ナンバーワン・ヒットが有名だ。僕は1985年にアメリカ・ジャイヴ・レコードから出たアルバム『ウィエティング・フォー・ザ・レイン』のライナーノーツを書いたのだが、そのとき徹底的にいろいろ調べて彼のキャリアを勉強し、すっかりファンになってしまった。おそらくヒュー・マサケラについてのバイオとして一番詳しいものになったと思う。それだけ思い入れもあったので、ライヴも楽しみだった。そしてその時買った自伝がずっと見当たらなかったのだが、数日前ひょんなことからでてきた。その嬉しさもあり、今日はヒュー・マサケラについての記事をまとめてみたい。アパルトヘイト(人種隔離政策)のため30余年ふるさとに帰れなかったエグザイル。3本立て。

 

(本作・本文は約7000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、14分から7分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと23分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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July 21, 2005
Hugh Masekela: Signed Autograph On His Autobiography
【ヒュー・マサケラ自筆のサインを貰う】
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200507/2005_07_21.html

 

July 21, 2005
Hugh Masekela: Signed Autograph On His Autobiography


【ヒュー・マサケラ自筆のサインを貰う】

 

ハグ。

 

ライヴ後、自伝本『スティル・グレイジング』を買って、彼を待っていると、登場するなり、いきなりハグをしてきた。「(日本語で)ありがとう、ありがとう。(これは英語)名前はなんだ?」 「マサハル、これです」 名刺を渡す。

 

「南アフリカには戻りましたか?」と僕は彼に尋ねた。「今は住んでるよ」 「え~~、いつから?」 「14-5年になるかな。アパルトヘイトがなくってからすぐに戻った」 「その時どんな気持ちでしたか?」 「それは素晴らしかったよ。自分が生まれ育った街だし。だが、多くのものが破壊されていた」 自伝本にていねいにサインを書きながら、彼は僕の質問に答えてくれた。

 

その自伝本を出したのは、1939年南アフリカ生まれのトランペッター、ヒュー・マサケラである。今年66歳。ブルーノートでライヴを行い、CDと自伝を即売し、買ってくれた人にサインをするというわけだ。自伝(2004年発売)がでているのは知らなかったので早速買い求め、サインしてもらうことにした。

 

ブログ ヒューマサケラ アー写1

ヒュー・マサケラ

 

実は彼のライヴはいつか見てみたいと20年近く思っていた。2年ほど前にひょんなことで来日していたのを後から知ってひじょうに残念な思いをしたが、今回はブルーノートということで期待していた。

 

なぜ20年も前からか。少し長くなるが書いてみよう。ヒュー・マサケラの存在は知っていた。ヒット・ポップスを追っていれば彼の1968年の大ヒット「グレイジン・イン・ザ・グラス」という曲を知ることになる。なにしろ全米ナンバーワン・ヒットだから、どこかで聴いたり、CDのヒット・コンピレーションに入っていたりする。その後1970年代に彼がカサブランカ・レコードから出した、少しばかりディスコ調のアルバムも数枚持っている。

 

そして、1985年9月、彼がジャイヴへ移籍して出したアルバム『ウェイティング・フォー・ザ・レイン』のライナーを書く機会に恵まれた。これはジャイヴ・アフリカからの彼の2作目だったが、この時いろいろとヒューのことを調べ、彼について詳しく知って大変感銘を受けたのだ。

 

その後ジャイヴからは同じく南アフリカ出身のギタリスト、ジョナサン・バトラーがデビューする。時を同じくして、南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)が国際的に非難をあびるようになり、ミュージシャンたちも反アパルトヘイトの作品を出すようになる。例えば、1985年の「サンシティー」(アーティスト・ユナイテッド・アゲインスト・アパルトヘイト)や、同年のスティーヴィー・ワンダーの『イン・スクエア・サークル』収録の「イッツ・ロング・アパルトヘイト」などである。南アフリカ、アパルトヘイトなどへの興味が広がりつつ、何人かの南アフリカのミュージシャンが長く母国に帰れないでいることを知った。

 

ジョナサン・バトラーにはインタヴューする機会があったが、ヒュー・マサケラとはまったく縁がなかった。その後僕は1988年から単行本となる『ソウル・サーチン』を書き始め、2000年に出版するが、実はヒュー・マサケラ、ジョナサン・バトラーの二人は、もし取材がじっくりできるなら、書いてみたいと思っていたのだ。

 

なにしろ、ミュージシャン本人にはなんともし難い「政治」という要因で母国を追われ、イギリスやアメリカなどのどこかの外国で生きていかなければならない。そして、仮に外国で成功し、南アフリカでレコードが売れても、そこでライヴをできない。そういう過酷な状況でミュージシャンはどう考えていくのか。

 

 

ブログ ヒューマサケラ ジョナサン・バトラー アー写

(ジョナサン・バトラー)

 

ジョナサン・バトラーだったかのインタヴューで、「自分はアパルトヘイトがなくならない限り、母国には帰らない」という強い主張があったが、これはジョナサンだけでなく、一度南アフリカをでた人間にとっては、共通の認識だったようだ。1980年代の半ばまではとてもアパルトヘイトがなくなるなどという状況ではなかったから、なおさら、絶望感は強かったに違いない。当然、そこには各人のソウル・サーチンがあるはずで、それを知りたいと思っていた。

 

ヒュー・マサケラは21歳の時、1960年に、ニューヨークに留学のため行って以来、ずっと母国に帰らないでいた。彼もアパルトヘイトに反対の立場をとるため、母国には帰らないという強い意志をもっていた。そんな彼が南アフリカに戻るのは、1991年、アパルトヘイトの撤廃が発表されてからすぐのこと。31年ぶりの帰郷である。

 

「あなたのライヴは、20年以上、待ち続けていたんですよ」 英語が少し訛っているヒューは、きっと日本語アクセントの僕の英語も聞き取り辛いのだろう。「何年だって?」 「20年以上ですよ」 「それはありがとう」 

 

そして、僕の名刺を見ながら、尋ねてきた。「ソウル・サーチャーか。君は何のソウルを探してるんだ?」 「毎日、あらゆるソウルを探してますよ」と答えると、彼がにやっとして僕に再びハグしてくれた。

 

+++++

 

ブルーノートのウェッブ
http://www.bluenote.co.jp/art/20050719.html

 

(2005年7月20日水曜、ブルーノート東京・ファースト=ヒュー・マサケラ・ライヴ)

ENT>MUSIC>LIVE>Masekela, Hugh

 

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②  
ヒュー・マサケラ・ライヴ~笑う門(角)には福来る
2013年03月22日(金)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11495180295.html

 

◎ヒュー・マサケラ・ライヴ~笑う門(角)には福来る

 

【Hugh Masekela: Happiness Is Just Around The Laughing Corner (Door)】

 

笑。

 

なぜかヒュー・マサケラは、「俺は広島出身だ」という。たぶん、彼独特のジョークだと思うのだが。これを笑いながら言うので、実に楽しい。その場では言い方が面白いので、真実かどうかなどどうでもよくなってくる。(笑) 

 

南アフリカ出身の超ヴェテラン・トランペッター、ヒュー・マサケラの8年ぶりのライヴ。心待ちにしていた。前回は2005年。

 

ブログ ヒューマサケラ アー写3

ヒュー・マサケラ

 

地元アフリカの人たちか南アフリカ大使館の人たちか、めちゃくちゃのりにのっている一団がいた。この日は観客の外国人比率が高かった。彼らは実に楽しそうににこにこしながら、踊っている。それを見ているとこちらまで楽しくなってくる。笑いは百薬の長。

 

ヒューの音楽には底抜けの明るさと権力への反発の大きさ、そして、ばねの力強さが共存している。

 

1939年4月4日南アフリカ生まれ。現在73歳。長く同地の「アパルトヘイト(人種隔離政策)」のために母国に戻れなかったエグザイル(亡命者)だ。

 

僕は「グレイジン・イン・ザ・グラス」のヒットで名前を知ったが、詳しく学んだのは1985年、ジャイヴから出たアルバム『ウェイティング・フォー・ザ・レイン』のライナーノーツを書いたとき。いろいろ調べて彼の生い立ちやディスコグラフィーなどを詳しく書いたが、そのとき彼の数奇な人生を知り感銘を受けた。のちに「ソウル・サーチン」を書いたときの候補の一人だった。1985年から数えても28年経っている。

 

歌にトランペットにちょっとした踊りというか動くしぐさなどを見て、また体全体を使って声を出す様子から、南アのアル・ジャロウのようにも思えてきた。あるいは音楽世界のネルソン・マンデラか。ヒュー・マサケラはネルソン・マンデラに直接電話ができて話ができるらしい。すごい人なんだ。

 

ロックでファンキーなアフロ・ビートがブルーノートを彩る。

 

「マコッティ・ハレザマヘ(聴いた音をそのままカタカナにしただけ)」とは、「レッツ・ゴー・ブライド、お嫁さん、さあ、行こう」という意味らしい。

「アシコ」は、「ゲット・トゥゲザー、ユナイト(一致団結)」を意味するそうだ。この曲はオデッセイの「ゴーイング・バック・トゥ・マイ・ルーツ」を思わせるようなグルーヴ感あふれる作品で、観客ものりのりになった。

 

ヒューは本当に元気だ。渋い枯れたトランペットの響きと陽気なアフリカ大陸のダンス、というか動きが実に楽しい。

 

フェラ・クティー(3月13日のフェラブレーション)→ヒュー・マサケラという流れは東京の夜の演出としては最高だ。

 

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CD。

 

ライヴ後楽屋に行くと、その『ウェイティング・フォー・ザ・レイン』の、なんとCDがあり、ファンの方のサインを待ち受けていた。僕はCDになっていたのを知らなかったので、ちょっと見せてもらうと僕のライナーがついていた。

 

ブログ ヒューマサケラ ジャケ写 ウェイティング (日本盤)

 

ヒューが言う。「これは、今、ここで買えるのか。何枚か欲しいんだよ。これは、ほら、ジャケットが違うだろう」

 

そうそう、これジャケット、日本盤はおしゃれな大草原のような風景写真に変えていた。思い出した。でも、今はもう廃盤だ。

 

「これは近年だしたアルバムの中では自分が一番気に入ってるアルバムなんだ」とも言う。「近年」「最近」がたぶん、ここ30年くらいの幅があるんだと思う。アフリカの人たちが、「ああ、あそこは隣町だからすぐだよ」という距離が50キロや100キロだったりするのと同じ感覚かもしれない。

 

このアルバムが出たときはまだ「アパルトヘイト」(1948年制定から1994年撤廃)のためにヒューはエグザイル(亡命者)だった。「この時代にはあなたの音楽は、ラジオで放送禁止(banned)だったんでしょう」とふると、「俺自身が禁止(I was banned)されてたんだよ」と笑いながら答えた。

 

彼の「I was banned」は僕に対して強烈なパンチだった。そうだった。アパルトヘイトが終わって20年近く経つが、きっとその傷跡はまだまだ残っているのだろう。歴史の一ページを垣間見た瞬間だった。

 

名刺を見ながら、「マサハル~~~、マサケラ~~。兄弟みたいだな」と大声で笑った。笑う門には福来る!

 

~~~

 

そして、ヒューの今回のツアー・マネジャーであるジョッシュといろいろと話していたら、思わぬ展開が。なんと彼は例の『シュガーマン 奇跡に愛された男』のレコード店オウナー、シガーマンとも大の知り合いで、南アでロドリゲスがライヴをやったときのプロモーター的な役割を担っていた、という。

 

One thing leads to another. なんでもつながるなあ。で、この続きは明日へ。

 

(この項続く)

 

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■ 動画

 

Hugh Masekela Bring Back Nelson Mandela

In 1987, Hugh Masekela had a hit single with Bring Him Back Home which became an anthem for the movement to free Nelson Mandela.

 

http://www.youtube.com/watch?v=opUEIVlG1BQ&feature=share&list=AL94UKMTqg-9BMo_t696CxbXnWu9XVMTcJ

 

■ 過去関連記事

 

July 21, 2005
Hugh Masekela: Signed Autograph On His Autobiography
【ヒュー・マサケラ自筆のサインを貰う】
http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200507/2005_07_21.html

 

この本を久々に読もうと探したが出てこない。ずっとライヴに行く前から読み返そうと探してる。まだ出てこない。どこに行ったのか。まさかブックオフなんかに間違って出してないよねえ。(笑) 

 

ワールド・カップ・キックオフ・コンサート~アリシア、ジョン・レジェンドなど
2010年06月12日(土)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100612.html

 

映画『ソウル・パワー』6月に日本公開決定 (パート1)
2010年03月14日(日)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20100314.html

 

■ メンバー

 

Hugh Masekela(flh,tp,vo) ヒュー・マセケラ(フリューゲルホーン、トランペット、ヴォーカル)
Cameron Ward(g,vo) キャメロン・ワード(ギター、ヴォーカル)
Randal Skippers(key,vo) ランダル・スキッパーズ(キーボード、ヴォーカル)
Abednigo Zulu(b) アベデネコ・ズールー(ベース)
Lee-Roy Sauls(ds,vo) リー-ロイ・サウルス(ドラムス、ヴォーカル)
Francis Fuster(per,vo) フランシス・フスター(パーカッション、ヴォーカル)

 

■ セットリスト


Hugh Masekela @ Bluenote Tokyo, March 18, 2013

 

show started 21:34
01. The Boy
02. Chileshe
03. Marketplace
04. Ha Le Se
05. Lady
06. Makoti
07. Ashiko
Enc. Rekpete
Show ended

(2013年3月18日月曜、東京ブルーノート、ヒュー・マサケラ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Masekela, Hugh
2013-

 

■ ウェイティング・フォー・ザ・レイン

https://amzn.to/2XnpwUO
株式会社ソニー・ミュージックレコーズ (1985-12-01)

 

■ ベスト

https://amzn.to/2XnpwUO

 

■ 自伝 (英語)

ブログ ヒューマサケラ 本・書影

https://amzn.to/2MowKBv

ブログ ヒューマサケラ サイン

(本にヒュー・マサケラ本人のサインをしてもらった。ドーモアリガト。一番下には、丁寧にメールアドレスまで)

 

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ヒュー・マサケラからシュガーマンへ~南アフリカでつながる点と線
2013年03月23日(土)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11495696973.html

 

◇ ヒュー・マサケラからシュガーマンへ~南アフリカでつながる点と線

 

【Hugh Masekela To Sugar Man: Dot Is Connected】

 

シュガーマン。

 

8年ぶりの来日を果たした南アフリカのトランペッター、ヒュー・マサケラ。

 

そのマネージャー役として来ていたジョッシュに南アフリカ音楽事情などを聴いていたとき、当然話は『シュガーマン 奇跡に愛された男』になる。「ケープタウンのマブ・ヴァイナルは行ったことあるか?」と聞くと、「あのオーナーのひとり、シガーマンは大の友達だよ。南アで1990年代にシュガーマンのライヴをやったとき、仕切ったんだ」というではないか。

 

ちょうど横にいたヒュー・マサケラはこの映画をまだ見ていなかった。「ヒュー、この映画は見たほうがいい。南アでブレイクしたアメリカのシンガーの物語なんだ」とヒューに言うと、彼も「そうか、そうか」とうなづく。

 

「なんでロドリゲスの音楽はアメリカからはるか離れたアフリカで人気になったんでしょう?」

 

ジョッシュ。「それは(彼の音楽が)いい音楽だからだろ」

 

「彼の音楽もラジオではかからなかったんでしょう?」

 

「かからないね。でも、ロドリゲスの音楽を聴いた地元のミュージシャンたちが、ライヴハウスなどでロドリゲスの曲をカヴァーして歌っていたんだ。それが徐々に広まった」

 

「なるほど。そして、(レコードショップのオーナー)シガーマンがその人気ぶりに興味を持ち、ロドリゲスを探し始めるわけだ」

 

「ロドリゲスのライヴを南アフリカでやって、彼とはいろいろと話したよ。彼は本当に自分の欲がないヤツなんだ。もらったギャラを全部3人の娘たちにやってしまうんだよ。娘たちは、それですぐにバッグなんか買っちゃうんだけどね。(笑) 映画にも映っていたように彼は昔も今も、あの古い家に住んでいる。電気のないような家にね」

 

「一度、ロンドンでライヴをやったとき、付いていった。ロンドンでも大いに受けていた」

 

ジョッシュは現在ヨハネスブルグに住んでいる。ヨハネスブルグと「マブ・ミュージック」があるケープタウンは飛行機で2時間ほどの距離だそうだ。

 

マブ・ミュージックのシガーマンと一度メールのやりとりをしたといったら、「おおっ、じゃあ、彼に俺(ジョッシュ)と東京で会ってハングアウトしたって伝えてくれ」と。(笑)

 

ロドリゲスは南アで何度かツアーをやっている。そして彼の音楽は黒人だけでなく、白人の支持も得た。

 

ロドリゲスの音楽は、アメリカ・デトロイトの社会の底辺にいる人々について歌っている。ときに黒人よりも下に見られることもあるメキシカンらしい抑圧された側からの訴えが、南アフリカの人々の心に響いたのだろう。

 

ロドリゲスの音楽が南アフリカで受けたのは「彼の音楽がよかったから」とジョッシュは言う。では、なぜアメリカでは受けなかったのか。タイミングなのだろうが、それはいまだに謎だ。

 

「南アフリカに来たことあるか?」と言われたので、「いやあ、ない」と答えると、「来るべきだ」と言われた。

 

翌日彼らはドバイ経由で南アフリカに戻った。長旅だ。

 

【『シュガーマン』映画の紹介、期間限定でポッドキャストアップ】

https://soundcloud.com/soul-searchin-14-1/soul-searchin-radio-2013-03-17
(約24分)

 

■ 関連記事

 

映画『シュガーマン 奇跡に愛された男~Searching For Sugar Man』
2013年02月01日(金)
http://ameblo.jp/soulsearchin/day-20130201.html

 

『シュガーマン 奇跡に愛された男』~今日の「ソウル・サーチン・レイディオ」
2013年03月17日(日)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11491738910.html

 

『シュガーマン 奇跡に愛された男』を紹介して~「コーズ」の意味は?
2013年03月18日(月)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11492611519.html

 

■映画『シュガーマン 奇跡に愛された男』2013年3月16日(土)から角川シネマ有楽町などでロードショー公開

映画公式ホームページ。予告編など。
http://www.sugarman.jp/
(ここで座席の予約などもできる)

 

■サウンドトラック『シュガーマン 奇跡に愛された男』

https://amzn.to/2Ao14tr

 

■1970年リリース・ファースト・アルバム

https://amzn.to/2yVAUOo

 

■1971年リリース・セカンド・アルバム

https://amzn.to/2MkI4Pi

 

■DVD Searching For Sugar Man (輸入盤)

https://amzn.to/2MoytGZ

 

ENT>MOVIE>Sugar Man
ENT>

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2018年1月23日、ヒュー・マサケラ死去

 

当時のツイッター。

 

訃報1 ヒュー・マサケラ Hugh Masekela 2018年1月23日南アフリカで前立腺がんのため死去。78歳。南アフリカ出身のトランぺッター、アンチ・アパルトヘイト活動家。投獄されていたこともある。

https://goo.gl/phBAbh 1968年「グレイジン・イン・ザ・グラス」の世界的大ヒット。

 

2013年来日時のライヴ評など→ヒュー・マサケラ・ライヴ~笑う門(角)には福来る 2013年03月22日(金) https://goo.gl/L6M6tT ヒュー・マサケラからシュガーマンへ~南アフリカでつながる点と線 2013年03月23日(土) https://goo.gl/7r1g1u 

 

1939年4月4日、南アフリカの炭鉱の町生まれ。様々な音楽に触れ、トランペッターに。1960年、21歳でアメリカに渡り、以後、同地、イギリスを本拠に活躍。1986年ポール・サイモンの『グレイスランド・世界ツアー』に同行したが、南アだけはプレイできなかった

 

ヒュー・マサケラ。本人名義ツイッターにおけるオフィシャルコメント。マサケラは2005年、2013年来日。他にもひょっとしたらあるかもしれない。

https://twitter.com/hughmasekela/status/955713727088775168

 

1968年、マンハッタンの学校でのクラスメートだったステュワート・レヴィンとともに「チサ Chisa」レーベルを設立。「チサ」とはアフリカのズールー語で「燃えるBurn」という意味だそう。同レーベルにはクルセイダーズなどが所属した。

 

ブログ ヒューマサケラ 吉岡+ヒュー

(2013年3月、ブルーノートで。左・ヒュー・マサケラ、右・ヨシオカ・マサハル=自撮りです)

 

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〇お知らせ JFN系列24局放送『アイ・ガット・リズム』で「ビル・ウィザース特集」6月5回放送~

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〇お知らせ JFN系列24局放送『アイ・ガット・リズム』で「ビル・ウィザース特集」6月5回放送~「ソウル・サーチン・ブログ&ノート」で同物語 今日から放送開始 #billwithers #igotrhythm #jfn

【Program “I Got Rhythm” Will Feature “Bill Withers Story” on June 2020 With The Soul Searcher】

物語。

東京FM系のJFN系FM24局ネットで放送される『アイ・ガット・リズム』の2020年6月放送回(基本30分x5回)で吉岡正晴が『ビル・ウィザース物語』を担当することになりました。

 



『アイ・ガット・リズム』は、JFN系列で2019年4月から始まった音楽ラジオ番組。毎月ひとつのテーマ、あるいは、一人/一組のアーティストにフォーカスして4回(月曜日の基準時が5週時は5回)にわたって放送するもの。

ビル・ウィザースはご存じの通り2020年3月30日、ロスアンジェルスで81歳で死去。そのワン・アンド・オンリーなスタイルは多くの若手ミュージシャンからも尊敬されました。ビル・ウィザースの実働は1971年から1985年まで14年間。その後35年は長く実質的に引退していました。その明と暗はなぜ生まれたのか。ビル・ウィザースの出生、生い立ち、引退の真実など徹底なリサーチによる詳細でビル・ウィザースの生涯を浮き彫りにします。

同時に、このビル・ウィザースの生涯を描いた日本で唯一の『ビル・ウィザース物語』を初回放送前までに、吉岡正晴の「ソウル・サーチン・ブログ&ノート」(約4万字)を発表します。読んでから聞くか、聞いてから読むか、どちらもそれぞれにお楽しみください。「物語」は約4万字になりますので、拙著『ソウル・サーチン R&Bの心を求めて』の一章分にあたります。ブログ、ノートでは一回で掲載がむずかしいので2回(ブログは4-5回)に分けての掲載になる予定です。

番組ホームページ
park.gsj.mobi/program/show/43952

ラジオ番組は、いずれもラジコのタイムフリー、エリアフリー(有料)で全国どこからでも聴取可能です。

初回放送は、2020年6月2日(火)午前11時半からのFM新潟。基本的には各局は6月5日から7日の週末にオンエアされます。

ラジコ→
radiko.jp
タイムフリー、もしくエリアフリー(各月350円+税金で加入。日本全国の地上波FM局の多くを聴くことができます。コミュニティーFMは除きます)

皆様、各地のFM局いずれかのラジコ・タイムフリーでお聞きいただければ、幸いです。お住まいの地区以外のFMを聴くにはラジコの会員になる必要があります。

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今回の『アイ・ガット・リズム~ビル・ウィザース物語』の放送日、各放送局は次の通りです。いずれも2020年。6/7は6月7日。放送日の早い順に並べました。各地域のFM局でお聞きいただくか、ラジコのタイムフリー、エリアフリーなどでお聞きください。なお、25分ヴァージョンと30分ヴァージョンがあり、30分ヴァージョンをお勧めします。

【2020年6月2日火曜・初回放送】

FM新潟 11:30~11:55(火)6/2~再放送6/6(土)21:30~55
fmniigata.com
(以降毎週火曜午前11時30分~、再放送毎週土曜21時30分~)
今日の放送分はすでにタイムフリーで聴けます。エリアフリー→北陸甲信越→新潟→FM新潟77.5
radiko.jp/#!/ts/FMNIIGATA/202…

【2020年6月5日金曜・初回放送】
福島エフエム 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)
fmf.co.jp/pc2
FM群馬 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)
fmgunma.com/fmg863
FM熊本 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)※6/5~
fmk.fm

【2020年6月6日土曜・初回放送】

FM長野 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 5:00~5:30(土)
fmnagano.co.jp
FM大分 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 7:30~8:00(土)
fmoita.co.jp
FM山口 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)
fmy.co.jp
FM佐賀 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)
fmsaga.co.jp
福井 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 12:25~12:55(土)
fmfukui.jp/docs
FM高知 (Hisix) 6/6 12:30~12:55(土)※第1週のみ
   6/25 20:30~20:55(木)最終週のみ?
fmkochi.com
FM広島 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)
hfm.jp
仙台 Date FM 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)
771.fm/smp
FM長崎 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:00~20:30(土)
fmnagasaki.co.jp
FM香川 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:25~20:55(土)
fmkagawa.co.jp
FM宮崎(JOY FM) 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 27:30~28:00(土)
joyfm.co.jp

【2020年6月7日日曜・初回放送】

FM徳島 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 6:00~6:30(日)
fm807.jp
FM岩手 6/7、6/21、7/5 8:00~8:30(日)※第1、3、5週 のみ放送
fmii.co.jp
FM石川 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 8:00~8:30(日)
hellofive.jp
FM山形 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 9:00~9:30(日)
rfm.co.jp
FM鹿児島 6/7、6/21 9:30~9:55(日)※第1、3週のみ放送
myufm.jp
三重(レディオ・キューブ) 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 18:30~18:55(日)
fmmie.jp
栃木 Radio Berry 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 19:00~19:30(日)
berry.co.jp
FM山陰 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 24:00~24:30(日)
fm-sanin.co.jp
FM大阪 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 27:30~28:00(日)
fmosaka.net

全24局ネット。各局のエリア・フリー、タイム・フリーで何度でも聴取可能です。
ちなみに、一番最初に放送されたFM新潟(6月2日11時半~)のものは、エリア・フリー、タイム・フリーですでに聴取可能です。
radiko.jp/#!/ts/FMNIIGATA/202…

 




RADIO>I GOT RHYTHM>Bill Withers



 

■ビル・ウィザース物語(パート1)~炭鉱の街からハリウッド・ヒルまで

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■ビル・ウィザース物語(パート1)~炭鉱の街からハリウッド・ヒルまで

 

シンガー・ソングライター、ビル・ウィザースが2020年3月30日に81歳で死去しました。その訃報などを当初はツイッターなどで連投し、さらに4月5日付けブログから8回にわたっていろいろと投稿しました。それらのビル・ウィザース関連原稿を大幅に加筆修正しまとめて、このノートに『ビル・ウィザース物語~炭鉱の街からハリウッド・ヒルまで』として2回に分けて掲載します。

 

(本作・本文は約25000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、50分から25分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと83分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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アー写 ビル・ウィザース NYT

 

ビルの訃報は日本時間の2020年4月3日(金)夜に流れました。僕のツイッターでは3日の23時43分に一報を流し以後いくつも情報を出し、4日以降、日本でも、また世界でも一斉に追悼モードとなりました。「ソウル・サーチン・ブログ」5日付けのブログで少しまとめ、以後、ビル関連の記事を結局トータル8本紹介したのでひとつにまとめました。特に評伝はかなり加筆しました。ゆっくりお楽しみください。

 

また、本物語と同時に2020年6月、東京FM系のJFN系24局ネットで放送される『アイ・ガット・リズム I Got Rhythm』(基本25分or30分x5回)で吉岡正晴が『ビル・ウィザース物語』を担当することになりました。6月2日FM新潟を皮切りに全国24局のFM局で放送されます。放送日・日時など一覧にまとめました。

 

番組ホームページ
https://park.gsj.mobi/program/show/43952
(5日前後に更新の予定です)

 

ラジオ番組は、いずれもラジコ(ラジオのインターネット配信サーヴィス。パソコン、スマートホンなどで聴取ができる)のタイムフリー、エリアフリー(有料)で全国どこからでも聴取可能です。

 

ラジコ
http://radiko.jp/
(エリアフリーなどの契約もこちらでできます。月額350円+税で全国の地上波FM局を聴取可能になります)

 

初回放送は、2020年6月2日(火)午前11時半からのFM新潟でした。その後6月5日から7日の週末にオンエアされます。

 

皆様お住まいの各地のFM局をお探しの上、お聞きいただければ幸いです。また、お住まいの地域に放送される局がなくてもいずれのラジコ・エリアフリー、タイムフリー(お住まいの地区以外のFMを聴くにはラジコの会員になる必要があります)のサーヴィスで聴取可能です。

 

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放送日、各放送局は次の通りです。いずれも2020年。例えば6/7は6月7日。放送日の早い順に並べました。番組名は『I Got Rhythm』。

 

【2020年6月2日火曜・初回放送(基本は以降同曜日同時間に放送】

 

FM新潟 11:30~11:55(火)6/2~再放送6/6(土)21:30~55
https://www.fmniigata.com/
(以降毎週火曜午前11時30分~、再放送毎週土曜21時30分~)

 

ちなみに、一番最初に放送されたFM新潟(6月2日11時半~)のものは、エリアフリー、タイムフリーですでに聴取可能です。契約者の方は、こちらで聴取可。
http://radiko.jp/#!/ts/FMNIIGATA/20200602113000

 

【2020年6月5日金曜・初回放送】

 

福島エフエム 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)
https://www.fmf.co.jp/pc2/
FM群馬 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)
https://www.fmgunma.com/fmg863/
FM熊本 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)※6/5~
https://fmk.fm/

 

【2020年6月6日土曜・初回放送】

 

FM長野 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 5:00~5:30(土)
http://www.fmnagano.co.jp/
FM大分 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 7:30~8:00(土)
http://www.fmoita.co.jp/
FM山口 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)
http://www.fmy.co.jp/
FM佐賀 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)
http://www.fmsaga.co.jp/
FM福井 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 12:25~12:55(土)
https://www.fmfukui.jp/docs/
FM高知 (Hisix) 6/6 12:30~12:55(土)※第1週のみ
   6/25 20:30~20:55(木)最終週のみ?
http://www.fmkochi.com/
FM広島 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)
http://hfm.jp/
仙台 Date FM 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)
http://771.fm/smp/
FM長崎 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:00~20:30(土)
https://www.fmnagasaki.co.jp/
FM香川 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:25~20:55(土)
https://www.fmkagawa.co.jp/
FM宮崎(JOY FM) 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 27:30~28:00(土)
http://www.joyfm.co.jp/

 

【2020年6月7日日曜・初回放送】

 

FM徳島 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 6:00~6:30(日)
https://fm807.jp/
FM岩手 6/7、6/21、7/5 8:00~8:30(日)※第1、3、5週 のみ放送
http://www.fmii.co.jp/
FM石川 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 8:00~8:30(日)
https://hellofive.jp/
FM山形 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 9:00~9:30(日)
http://www.rfm.co.jp/
FM鹿児島 6/7、6/21 9:30~9:55(日)※第1、3週のみ放送
https://www.myufm.jp/
三重(レディオ・キューブ) 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 18:30~18:55(日)
http://fmmie.jp/
栃木 Radio Berry 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 19:00~19:30(日)
http://www.berry.co.jp/
FM山陰 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 24:00~24:30(日)
http://www.fm-sanin.co.jp/
FM大阪 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 27:30~28:00(日)
http://www.fmosaka.net/

 

全24局ネット。各局のエリアフリー、タイムフリーで何度でも聴取可能です。

 

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冒頭にニュースとそのリンク、そして、本編『ビル・ウィザース物語~炭鉱の街からハリウッド・ヒルまで』(パート1)です。

 

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●ビル・ウィザース81歳で死去~朴訥とした吟遊詩人 

 

【Bill Withers Dies At 81】

 

訃報。

 

アメリカのシンガー・ソングライターでソウル界の吟遊詩人とも呼ばれるビル・ウィザースが2020年3月30日、ロスアンジェルスで心臓の合併症で死去した。81歳だった。コロナ・ウィルスとの関連は現在のところ発表されていない。心臓に問題があったという。

 

ニューヨーク・タイムズ紙の記事
Bill Withers, Who Sang ‘Lean on Me’ and ‘Ain’t No Sunshine,’ Dies at 81
By Neil Genzlinger
April 3, 2020
https://www.nytimes.com/2020/04/03/arts/music/bill-withers-dead.html

 

ワシントン・ポスト紙の記事
Bill Withers was the populist we needed
By Robert Gebelhoff
Assistant editor and Opinions contributor
April 4, 2020 at 6:21 a.m. GMT+9
https://www.washingtonpost.com/opinions/2020/04/03/bill-withers-was-populist-we-needed/

 

CNNの記事
Bill Withers, 'Lean On Me' and 'Lovely Day' singer, has died at 81
By Lisa Respers France, CNN
Updated 2105 GMT (0505 HKT) April 3, 2020
https://edition.cnn.com/2020/04/03/entertainment/bill-withers-obit/index.html

 

AP通信の配信記事
Bill Withers dead: Lean On Me, Lovely Day and Ain't No Sunshine singer passes away at 81 from heart complications
By ASSOCIATED PRESS
PUBLISHED: 15:12 BST, 3 April 2020 | UPDATED: 04:29 BST, 4 April 2020
http://dailym.ai/2XacQRt 

 

クエストラヴのDJショーではやくもトリビュート
https://www.pscp.tv/w/1lDxLgjXXYZJm

 

1971年にブッカー・Tがプロデュースした「エイント・ノー・サンシャイン」が大ヒットし一躍シーンに躍り出た。その後も多数のヒットを生み出した。

 

1970年代から80年代以降も、抒情的な作品を多数リリース。ブラックのシンガー・ソングライターとしてワン&オンリーな存在感を示した。「ユーズ・ミー」「ハーレム」「ラヴリー・デイ」など。グラミー賞も「エイント・ノー・サンシャイン」、「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」、「リーン・オン・ミー」で3回獲得している。

 

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■ビル・ウィザース物語~絶望のスラブ・フォークからの脱出

 

0. プロローグ

 

ビル・ウィザースは、1956年、高校を出てネイヴィー(海軍)に入隊して以来40年以上、生まれ故郷のスラブ・フォークには戻っていなかった。2000年代に入り、ドキュメンタリー映画『スティル・ビル』(2009年公開)の撮影で久しぶりにスラブ・フォークを訪れ、古い友人と街を歩き、その中でウィザース家の墓を探すシーンがあった。

 

同じスラブ・フォークでも白人の墓はきちんと整備され綺麗になっていたが、黒人の墓は雑草が生え、木が生い茂っている混沌とした場所にあった。ビルは、草をかき分け兄のアールの墓石をやっとの思いで探すが、それは普通の雑木林の中にかろうじて立っていた墓石だった。

 

おそらく命日に誰かが墓参りに来ることもないであろう殺伐とした風景だった。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース 雑木林の墓

(うっそうと木が茂る雑木林の中にある墓石、ドキュメンタリー『スティル・ビル』から)

 

何十年かぶりに戻った故郷。ビルにとってそれはルーツを探る旅だったのかもしれない。十代の頃に街を出て世界を見ようと決意した男の旅は漠たる不安に満ち溢れていた…。

 


1.炭鉱の町に生まれて。線路の向こう側とこちら側

 

線路。

 

アパラチア山脈は、アメリカ東部を北から南へ走る大きな山脈だ。北はニューヨーク、コネチカット、はてはカナダまで、南はジョージア州、ノース・キャロライナ州まで10以上の州をまたぎその長さは2000キロを超える。この山脈には豊富な資源があり、19世紀から20世紀中頃までは石炭採掘が大きな産業になっていた。そしてその石炭が電気を作り、それがアメリカのさまざまな産業を支え、大きな経済大国の礎になった。

 

炭鉱のトンネルは暗く、埃まみれで、しかも音が響いて想像を絶する大音響に包まれている。また、いつトンネルが崩れるかわからないような何より危険な場所で、一時期は全米の鉱山で年間1000人もの事故死者がでていたという。アパラチア山脈のほぼ中央あたりに位置するウェスト・ヴァージニア州スラブ・フォークもそんな炭鉱の街だった。あまり仕事を選べない多くの移民やアフリカン・アメリカンが安い賃金で過酷な労働を強いられていた。

 

そんなスラブ・フォークにウィリアム・ハリソン・ウィザース(・シニア)という男がいた。1891年頃に生まれ、1917年からずっとこの炭鉱夫として仕事をしていた。ウィリアムは地味で真面目な男で、スラブ・フォークの石炭掘削の仕事をしながらバプティスト教会の助祭でもあり、採掘会社のユニオン(労働組合)の会計も担当、また一時期バーバー(床屋)も運営していた。ウィリアムはマティー・ローズ・ギャロウェイという女性と結婚、ただし、マティーは再婚でその時点で4人の子供がいた。

DVD スクショ ビル・ウィザース スラブフォーク看板 jpeg

(スラブ・フォークへ。『スティル・ビル』から)

 

ウィリアムとマティーの間に二人の子供が生まれ、下の子には期待をかけて父と同じ名前をつけた。ウィリアム・ハリソン・ウィザース・ジュニアだ。1938年(昭和13年)7月4日のことだった。ウィリアムの愛称はビル、ビル・ウィザースの誕生だ。こうして彼は6人兄弟の末っ子となった。一番離れた兄(異父兄弟)とは24歳違ったという。ビルが生まれたとき母は41歳(1897年頃の生まれ)、父は47歳だった。母の父は1854年生まれで、奴隷だったが9歳の頃(1863年頃)奴隷から解放され、この地の炭鉱で働き始めたという。

 

ビル・ジュニアが3歳になると、父と母は別居、1942年5月には離婚。ビルは、しばらく母方の叔母(=母の姉妹カレラ・ギャロウェイ・ブリッグス)のところにいて、その後スラブ・フォーク近くのバックリートいう街に引っ越した母のところに移り住んだ。ただ金曜に父が迎えに来て父が住むスラブ・フォークで週末を過ごしたという。

 

1949年、そのカレラ叔母が死去すると、その母親、ビルの祖母ルーラ・カーター・ギャロウェイによく可愛がられるようになる。その後、ビルが11歳から12歳にかけて父が病気になり、最後の一年は父のところで看病をしたり世話をしていた。父は1951年7月15日、60歳で亡くなった。父の死でビル少年はハイスクールを7年生で中退、靴磨きなどさまざまな仕事をするようになった。父の死後、父の兄(叔父)アールの未亡人、エルフリーダ・マーティンのもとで世話になる。そして、ビル・ジュニアをかわいがってくれた祖母も1953年に亡くなり、親戚のところを転々とした。

 

ビルが振り返る。「父はユニオンのメンバーでもあったから労働者をまとめたりしていたようだ。教会でもリーダーシップをとっていた。父は突然死んだわけではなく、(しばらく)病を患っていたわけだが、だんだんと弱っていくと、将来どうなるかある程度心の準備ができるというものだ。もちろん、誰かが亡くなるということは本当に寂しいものだが、心の準備はできていたということかな。人生は続いていくし。ま、そういう現実的な考え方が僕の性格なのかもしれない」

 

炭鉱労働者はその採掘による粉塵のために、肺がんなどで若くして死ぬ者が多かったという。ビル・ウィザースの父も、それが多かれ少なかれ死因になったようだ。父はビルが13歳のときに亡くなり、母親とも多くの時間は過ごさなかったので、あまり家庭というものを知らなかったようだ。

 

1940年代から1950年代のアメリカ南部は、特に人種差別が強かった。(その流れは脈々と続いているが) ただこのスラブ・フォークは、黒人居住区と白人居住区が一本の線路で分けられていて、両者があまり交わることがなかったようだ。この街は、学校も分離され、バスも一番後ろに座らなければならないことはなかった(当時黒人がバスに乗るときは必ず一番後ろに座らなければならなかった)。 南部ではあったが、意外と人種差別的なものは頻繁には感じなかったらしい。また黒人も貧しかったが、移民も白人もここで働く人たちは基本的には貧しい人達ばかりだった。

 

街を横切る線路があり、線路の向こう側は白人居住地区、こちら側は黒人居住地区だったがビル少年はその線路に近いところに住んでいて、ときどき線路を渡った白人の友達の家にも行き来して普通につきあっていたという。

 

そんな白人の友達の家ではラジオやステレオからカントリーが流れ、自分の家や黒人の友達の家ではブルーズやゴスペルが流れていた。週末には父親や祖母に連れられて教会に行っていた。そうしてビルは音楽的には白人のものも、黒人のものも自然に吸収していった。あまり彼自身音楽ジャンルのことを考えなかったようだ。

 

もし、ビルの音楽に白人的要素(フォーク・ミュージックやカントリーなど)を感じるとすれば、その故郷スラブ・フォークでの幼少時の音楽体験がルーツにあるのだろう。いわばその線路の向こう側とこちら側を自由に行き来したことが大きな要素になったわけだ。

 

子供の頃、ビルや仲間はその線路でよく遊んだ。線路は森の中をくねくねしながら、トンネルや川の上を走る橋もあった。夏になればその川で全裸になって泳いだものだ。女の子が川岸にいると、彼女たちが帰るまで川から出られなかった。時がゆったりと流れ、のんびりした空気の環境だった。

 

子供は誰でもなんとか線路の上を歩こうとする。それは映画『スタンド・バイ・ミー』でリヴァー・フェニックスたちがそこを歩いてまだ見ぬ外の世界に冒険に出る、不安と期待と希望をはらむ線路のようなものだった。ほんの子供の頃には考えてなかったかもしれないが、ビルにとって線路の向こうには考えられないほどの都会があり、輝ける未来をおぼろげに見ていたのかもしれない。

 

このスラブ・フォークという街は、大変貧しい小さな街だったが、隣近所誰もが誰をも知っているような、街全体がファミリーのような、アメリカにある典型的な小さな田舎街だった。街には大した娯楽施設もなく、誰かのうちにテレビが入れば(その頃、テレビを持つ家などひじょうに珍しかった)近所のみんながその家に押しかけてテレビを見た。誰かが塩やミルクが足りなければ、誰かがそれを気兼ねなく貸してくれるほど人々は温かった。週末の娯楽といえば、映画を近くの少し大きな街に見に行く程度だった。

DVD スクショ ビルウィザース 鉱山全景 字幕付き jpeg

 

(スラブフォークの鉱山、『スティル・ビル』から)

 

「リーン・オン・エヴリバディー」すなわち、誰もが誰にでも頼って生きていた街、それがスラブ・フォークだった。

 

だが、ビルは少年時代から早くこの街を出たいと思っていた。極貧の生活は、それ自体がブルーズだった。

 

もうひとつ彼の悩みは、吃音(きつおん・どもり=註:どもりという単語は、近年使用自粛単語になっていますが、吃音だとまだわかりにくいと思われるため、いちおう文中では時代的背景も考え使用しました)だった。30歳頃まで吃音がなくならなかったというビルはスラブ・フォーク時代の一人の男を思い出す。

 

「杖をついたヴァージルという身長150センチにも満たない男がいてね、ニューススタンド(新聞雑誌などを売る雑貨店)をやっていた。僕はその前で靴磨きをやっていて、あるとき仕事が終わってヴァージルの店でコミック雑誌(マンガ雑誌)を買おうとした。すると僕が欲しいコミックが(レジ)カウンターの向こう側にあったので、それが欲しいと言おうとした。僕がどもって話すと、だいたいの連中はみんな笑うんだが、彼はまったく笑うことなく、僕にどもりがあることに対して『君には治療が必要だな』と言ったんだ。そのとき彼は杖なしでは歩けない小さな男だというのに、僕にとっては『父親』のような『大人の男』のような存在になったんだ。とても、力強い男らしい人物に見えた。多くの男たちは酒を飲んで、筋肉を鍛えて、喧嘩をして、それで男らしさを出していたが、僕にはそういうのはばかばかしく見えたんだ。ヴァージルは一度僕をどもりの矯正の先生のところに連れて行ってくれた。2度目は金がなかったから行けなかったんだけどね。でも、そのことが僕にとっては本当に大きかった。心に種を撒かれたようなものだった。彼には大きな影響を受けたわけだ」

 

ビルが続ける。「学校の教師にこう言われた。『お前は、黒人で、どもりがあって、喘息持ちだ。つまり(お前は)ハンディキャップ(障碍者)だ、と。気に入らなかったね。だから僕はずっと夢を胸に秘めてスラブ・フォークを出て、まったく新しい人達と出会おうと心に誓った」

 

1950年代初め。極貧の街に育ち、両親も早く亡くなり、黒人で、どもりで、喘息持ち。ある種三重苦のようなビル少年にとって確かにそこにいては何も将来の光が差し込んで来るようには思えなかった。

 

2.ネイヴィー(海軍)入隊

 

規律。

 

ビルは父の後をついで鉱山に入りたいとは思わず、そんな小さな街からなんとか出て、世界を見たいという思いは日に日に募っていった。スラブ・フォークの街自体にも魅力も将来性も感じていなかった。

 

そこでビルはハイスクールを中退したあとネイヴィー(海軍)に入隊することを決意。軍隊に入れば、さまざまなことを覚えられ、技術がつき、それでちゃんとした給料ももらえるので、生活にも困らないだろうと考えた。貧困から脱出する第一歩だった。試験勉強を一生懸命がんばり、試験と面接を受け見事に合格。1956年5月、17歳で東海岸のネイヴィー(海軍)に入隊。ここで1965年まで約9年過ごすことになる。米軍の基地は世界中に展開しており、一時期グアムの基地にいたこともあるという。

 

「料理人やスチュワードにはなりたくなかった。そこで、飛行機のことを学べる学校に通ったんだ」とビルは振り返る。 

 

それが功を奏してか、除隊後飛行機の部品を作る工場に就職することができた。

 

ネイヴィーでの生活はすべて彼にとって新しい体験だった。

 

しかし内気な性格と吃音(きつおん・どもり)があったため、なかなか他の人と打ち解けなかった。そのため、よく読書をして一人の世界に浸った。ビル本人はたいした教育は受けなかったというが、おそらく人生のすべてを独学していった。この頃からストリート・スマート(街で日常に生きるための術を習得すること)になっていったのかもしれない。そして、余暇に詩を書き始める。

 

DVD スクショ ビルウィザース USネイヴィー (イメージ)

(ネイヴィー=イメージ)

 

ネイヴィーでの規則正しく規律の厳しい生活は、彼が社会生活をしていく上で大きな土台となった。時間を守る、約束を守る、貧しいながらもきっちりとした生活設計を立てる、そうしたことができるようになった。ビルの立ち振る舞い、そして生き方が軽く浮ついていないベースはそうした下積み時代に培われた。

 

1965年7月、ネイヴィーを円満に除隊。除隊後の休暇に、彼は一度ニューヨークに友人を訪ねて遊びに行った。もちろん初めての大都会ニューヨークで、その時にハーレムに行った。その頃はハーレムが豪華絢爛なぎりぎり最後の時期だったという。コットンクラブをはじめとするいくつかのクラブ、ライヴハウスがあり、比較的経済的に裕福な人々が住んでいた。スラブ・フォークという小さな田舎街からやってきたビルにとって、ニューヨークやハーレムはすべてがまぶしかった。

DVD スクショ ビルウィザース ジャンボ機トイレ(イメージ)

(ジャンボ機のトイレ=イメージ)

 

ニューヨークから一度戻ったあと、カリフォルニア州サンホセに移住。その後、1967年にはロスアンジェルスに引っ越す。腕に技術があったので、フォードやIBMで仕事をしたこともあった。郵便配達、牛乳配達などもした。ダグラス航空機の下請け工場に就職。ここでは技術職としてジャンボジェット(飛行機)のトイレの取り付けを行っていた。「ジャンボのトイレについては、誰よりもよく知ってる」とジョークを飛ばす。

 

それまでは余暇に遊び半分で楽器を弾いて鼻歌を歌うことはあったが、プロのミュージシャンやシンガーになろうとは思っていなかった。しかし、あるとき1960年代半ばには人気シンガーとなっていたルー・ロウルズのライヴを見て、シンガーはみんなにモテるようだと感じ、シンガーを目指すようになった。自分が時給3ドルだったときにロウルズが一週間で2000ドル稼ぐと聞いて「そっちのほうがいい」と軽く思ったようだ。

 

3.インディからデビュー

 

インディ。

 

ルー・ロウルズのライヴに刺激を受けた彼は音楽業界に入り込もうと考える。ただ彼は自分が歌手としてというよりも、ソングライターとして何かできればいいのではないかとおぼろげに思うようになっていた。

 

給料から貯金をしてデモ・テープを作り、あちこちに売り込み、これが功をそうして、29歳頃の1967年、ロータスというインディ・レーベルでインチ・シングル「Three Nights And A Morning」(Lotus 3601) をリリースするチャンスに恵まれる。

 

それがこれだ。まずはお聞きください。

 

Three Nights And A Morning Bill Withers 1967
https://www.youtube.com/watch?v=3CyTNBUFJCM

DVD スクショ ビルウィザース シングル盤面

ちなみにそのシングルのB面。

What I’ll Do [What’ll I Do] – Bill Withers (1967)
https://www.youtube.com/watch?v=a64sUfURifc

 

これはカヴァーで大作曲家アーヴィング・バーリン(1888年~1989年)の曲。正しくは、「What’ll I Do」だが、盤面はミス表記している。これはバーリンが1923年に書いた曲でグレイス・ムーア、ジョン・スティールによって歌われた。よく知られているのは、1962年のフランク・シナトラのもの。その後1974年に映画『ザ・グレイト・ギャツビー』にも使用されるが、1967年の時点ではまだでていない。所詮シングル盤のB面なので、カヴァーでもいれておこうということで録音したのだろう。

 

「スリー・ナイツ~」はけっこうなアップテンポの曲になっている。そして、ビル・ウィザースのファースト・アルバムあるいはベスト・アルバムなどをお持ちの方は、これは彼の「ハーレム」ではないかとおわかりになるだろう。そう、これが「ハーレム」の原型なのだ。

 

ちなみに、最初のタイトルが「スリー・ナイツ&ア・モーニング」となったのは、なぜか。歌詞を見ると、夏の夜、冬の夜、土曜の夜、そして、一晩中遊び明かして日曜の朝、が描かれる。だから、3つの夜とある朝、ということだ。ビルはこうしたシーンごとに映像を浮かび上がらせるような構成が実にうまい。

 

このロータス・レコーズというのは、ムーグなどで音楽を作るモート・ガーソンとニューヨークをベースにレーベルなどを運営していた音楽ビジネスマン、ハイ・ワイス(のちにサム・レコーズなどを始めるサム・ワイスの兄弟)が共同で始めたレーベル。ロータスが西海岸のレーベルか東海岸のものかちょっとわからない。ビルがたまたまニューヨークに行って知り合ったのか、もうロスに行っていて、そこで彼らと知り合ったのか、あるいは普通に売り込みの手紙などを送ったのかなどは不明だ。

1967年は、そろそろ音楽をやり始めていろいろ動き始めていたころで、なんらかの経緯でこのレーベルと知り合い、レコーディングしたのだろう。

 

いずれにせよ、このシングル盤が出た。

 

この「スリー・ナイツ・アンド・ア・モーニング」のアレンジ/プロデュースはレーベル・オウナーのひとりモート・ガーソンだ。ほぼ歌詞も「ハーレム」と同じ。

 

しかし、これはまったくヒットもせず、その後は続かなかった。ビルの期待はまったく外れてしまった。

 

4.クラレンス・エイヴォントとの出会い

 

起業家。

 

彼は昼間の仕事を続けながら、自分のサラリーから貯金をしてさらにデモ・テープを作りあちこちに売り込んだ。そのうちの一本が友人のフォーレスト・ハミルトン(チコ・ハミルトンの息子)を経由して最終的にサセックス・レコードのクラレンス・エイヴォントの元へ届いた。1970年初めの頃だった。

DVD スクショ ビル・ウィザース クラレンスエイヴォントアー写

(クラレンス・エイヴォント)

 

このときいくつか他のレコード会社にもデモ・テープが渡ったが、興味を示したレコード会社は、いわゆるビル曰く「ソウル・ミュージック・シンドローム」に陥っていて、黒人シンガーのビルを当時の「ソウル」の型にはめようとしたという。女の子のコーラスをつけて、ラメの派手な衣装を着て踊る曲を作る、というイメージだ。ビルはそうしたことにはまったく興味がなかったので、そうしたレコード会社とは契約しなかった。一方、エイヴォントは、ウィザース本人がやりたいことに理解を示したのでここに行こうと思ったようだ。

 

そのエイヴォントについて少し紹介しておこう。

 

当時サセックス・レコードを運営していた業界の大物、クラレンス・エイヴォントは1931年2月25日ノース・キャロライナ州グリーンズボロの生まれ。ビルより7歳年上だ。8人兄弟の長男。ハイスクール後(1949年頃)、ニュージャージーに移り、デパートの「メイシーズ」に就職。倉庫などで納品されたものの仕分けをしたりしていた。

 

このニュージャージー時代に、エイヴォントは同地にあるライヴ・ハウス、「テディー・Pズ・ラウンジ」という店でマネージャーの仕事を始める。これが彼が音楽業界に入るきっかけとなった。

 

エイヴォントはここで多くの音楽関係者と知り合うようになり、中でもトランぺッターで歌も歌うサッチモことルイ(ス)・アームストロングのマネージャー、ジョセフ・グラッサー(1896年~1969年)に大変目をかけてもらうようになる。グラッサーは多くのブラック・ミュージシャンをマネージしており、彼からアーティストのマネージメントの仕事を学ぶ。

 

エイヴォントは、1962年11月にはエイヴォント・ガーデ・エンタープライズというマネージメントや制作などをする会社をニューヨークでスタート。1960年代からブルーズのリトル・ウィリー・ジョン、ジャズのサラ・ヴォーン、フレディー・ハバード、ソウルのキム・ウェストンなどをマネージするようになる。さらに、マネージしていたロックのパイオニア、トム・ウイルソン、クリード・テイラー(のちにKUDUレコーズ設立)と手を組み、ウイルソン・オルガニゼーションに参画。音楽業界で頭角を現すようになり、いろいろな会社の要職にもつく。

 

1964年9月にはウェスト・コースト・オフィースを開き、映画業界への足掛かりも作り始める。

 

そして、1966年9月にニューヨークでサセックス・プロダクションを設立、フォー・ハイズ、ジョニー・ナッシュ、テリー・ブライアント、ビリー・ウッズなどと契約、レコードを出し始めるがまったく成功を収めず、この事業は縮小。撤退の判断もうまいようだ。

 

しかし、基本的には強気の姿勢を崩さずビジネスを広げ、経営を積極的に多角化してきたエイヴォントはその翌年、1967年10月にはロスアンジェルスでMGMとともにヴェンチャー・レコーズを設立。これはメジャーのMGMレコーズのブラック・アーティストをてがけることになるレコード会社で、元モータウンのプロデューサー、ソングライター、ウィリアム・ミッキー・スティーヴンソンがチーフとなって制作をまとめていた。この時期(1967年秋)にエイヴォントはロスアンジェルスのビヴァリー・ヒルズに移住。そして、この頃にエイヴォントのアシスタント的に動いていたのが、スタックス・レコーズで仕事をしていたアル・ベル(のちに副社長)だった。

 

ちなみにエイヴォントは、スタックスを1968年5月にガルフ+ウェスタン社(主に資産運用などで利益を得る投資会社)に売却する仲介を果たした。ガルフ社は430万ドル〈約15億4800万円〉でスタックスを買収するが、エイヴォントは手数料としてその10%(約43万ドル)を受け取った。エイヴォントとアル・ベルはその後も仕事上のパートナーとしていくつかの会社を運営。

 

エイヴォントは1969年12月に再度サセックスを設立、1975年6月の倒産までビジネスを続けた。

 

今回は大手(といってもインディではあるが)のブッダ・レコーズに配給を委託し、ビル・ウィザース、デニス・コフィー、クリエイティヴ・ソース、ギャラリーなどと契約し、ヒットを出すようになる。

 

契約した最初のアーティストはロドリゲスというシンガー・ソングライターで、彼にフォーカスしたドキュメンタリー『シュガーマン 奇跡に愛された男(原題、サーチング・フォー・シュガーマン)』が2012年に公開され話題となった。サセックスは1970年からレコードを出し始めるが、そんなごく初期にエイヴォントはビル・ウィザースのデモ・テープに出会う。

 

ちなみにこのエイヴォントはのちにタブー・レコーズを設立し、ここからSOSバンド、アレキサンダー・オニール、シェレール、プロデューサーとしてのジミー・ジャム&テリー・ルイスなどを発掘し育てる。また、タブー後は一時期モータウン・レコーズの社長にもなったブラック・ミュージック業界の立志伝中の人物である。

 

5.契約。

 

録音。

 

エイヴォントは、ビルに「アルバム一枚になるくらいの曲はあるのかな」と尋ね、「ある」と答えると、デモ・テープを気に入っていたビルと契約することを決意。

 

1970年5月8日、ビルは正式にクラレンス・エイヴォントとレコーディング・アーティスト、ソングライターとして、さらに、マネージメント契約も交わす。

 

まずはアル・ベルなどを介して旧知のブッカーTにプロデュースを依頼。ブッカーTはスタックス・レコーズをベースにブッカーT&ザ・MGズとして活躍、またスタックスの多くの人に力を貸してきたキーボード、オルガン奏者、プロデューサーだ。まったく無名の新人、ビル・ウィザースのプロデューサーに業界の大物ブッカーTを起用するのは、ビルにとってはラッキーであり、エイヴォント社長としては大胆な決断だった。

 

ビル本人は、「音楽業界のことを何も知らない自分がここでブッカーTと出会えたことは大きかった」と振り返る。

 

ビルはまずブッカーTを自分の小さなアパートに招き、何曲かギターで弾いてみせた。その中に「エイント・ノー・サンシャイン」があった。まだそのときは、後半の「アイ・ノウ・アイ・ノウ・アイ・ノウ」のところは歌詞ができていなかったので、その旨伝えて歌った。するとブッカーTは、「そのままでいい」と言った。このとき、ビルはブッカーが信じるに足りるプロデューサーだと直感したという。

 

その後、今度はブッカーTがちょうどその頃購入したばかりのマリブの牧場にビルを招いた。このときビルは何日かここに滞在し20曲ほどを披露したという。ブッカーTはすっかりビルの魔力に魅了されていた。

DVD スクショ ビル・ウィザース ブッカーT アー写

(ブッカーTジョーンズ)

 

ブッカーTは自身のMGズのメンバーに電話し、彼らにレコーディングに参加してくれるよう頼んだ。ドラムスのアル・ジャクソン、ベースのドナルド・ダック・ダン、ギターにスティーヴ・クロッパーだ。ただクロッパーはスケジュールの都合で来られなかったので、代わりにスティーブン・スティルスを頼んだ。

 

ただこの時でさえも、ビル・ウィザース本人は、自分の楽曲が別の歌のうまいシンガーに歌ってもらえればいいだろう、と思っていたようだ。

 

その証拠に最初のレコーディングの日、ブッカーTに、「それで、これらの曲は誰が歌うんだい?」と尋ねたほどだった。ブッカーTは「もちろん、君だよ」と言って、ビルをスタジオのブースに送り込んだ。

 

まずはシングル「ハーレム」と「エイント・ノー・サンシャイン」が録音される。

 

この「ハーレム」はビルにとっては先に書いた通り「スリー・ナイツ~」のタイトルで一度シングルとしてリリースしていたがヒットはしておらず、それでもどうしても世に出したい作品だった。

 

弱小レーベルで制作予算もなく、3時間のスタジオ時間は当初は4回(計12時間)予定された。

 

とはいえ、こうした錚々たるメンバーが集まり、ほぼ初めてのレコーディングでビル・ウィザースは緊張していた。

 

おもしろいことに、このアルバムが録音されたウォーリー・ハイダー・スタジオで、偶然ブッカーTの知り合いでもあるグラハム・ナッシュがいて、ナッシュにちょっとギターでも弾いてくれと頼んだという。正式なクレジットには名前はのっていないが、最初のレコーディングで緊張していたビルにこうアドヴァイスしたという。

 

ナッシュはビルの前に座り、イギリス風のアクセントでこう言った。「君は君のすばらしさにまったく気づいてない。ただ自分らしく歌えば(just as you are)いいんだよ」

 

この言葉を機に、ビルはリラックスしてレコーディングに臨めるようになった。そして、アルバムのタイトルにその「自分らしく」「ありのまま」ということで「ジャスト・アズ・アイ・アム」と名付けることになる。

 

ところが、レコーディングを2回終えたところで、サセックスからスタジオ代の支払いがなされず、次の録音がなかなかできなくなった。2回目のスタジオ使用料を支払らわなかったので貸してもらえなかったのだ。その結果レコーディングは4回から3回に短縮され、しかも2回目と3回目のセッションの間が6か月も経ってしまったという。それでも、9時間でファースト・アルバムとなる楽曲12曲をなんとかまとめ、1971年2月16日にようやく録音が終わった。

 

当初「スリー・ナイツ・アンド・ア・モーニング」と題されていた曲はシンプルな「ハーレム」というタイトルとなって再録音され、第一弾シングルにしようということになった。そこでそのシングルB面には「エイント・ノー・サンシャイン」が収められた。

 

デビュー・アルバムのタイトル『ジャスト・アズ・アイ・アム』は、「等身大の自分」「ありのままの自分」といった意味で、素朴で誠実そうなビル・ウィザースというシンガー・ソングライターのありのままが反映することになった。

 

このアルバムと第一弾シングル「ハーレム」は、アルバムとほぼ同時に1971年4月にリリースされた。

 

しかし、「ハーレム」はヒットせず、徐々に全米のDJがシングルB面の「エイント・ノー・サンシャイン」をかけるようになり6月頃からじわじわヒット、最終的には見事な大ヒットになった。

DVD スクショ ビルウィザース サセックスレーベル盤面 エイんとのーサンシャイン

ビルはこの頃初めてのライヴを披露。1971年6月26日、シカゴのオペラ・ハウスで正式なステージ・デビューを果たした。

 

実質的な1971年4月のメジャー・デビュー時で32歳という遅咲きだ。(7月に33歳、またインディ時代のシングルはとりあえずノーカウント)

 

「エイント・ノー・サンシャイン」は、イントロ0秒、アコースティック・ギターの入ったフォーク調の曲で当時のソウル・シングルとしてはかなり異色だった。

 

 

この曲は、ビルが1962年の映画『酒とバラの日々』をテレビで見てヒントを得て一気に書き上げた。これはアルコール中毒になった夫婦をジャック・レモンとリー・レミックが演じる映画だが、夫はなんとか中毒から抜けるが、妻が抜けられないというストーリーだ。そしえtそのやりきれないストーリーを見て、「(彼女がいなくなったら)太陽なんてない」「希望なんてない」という寂しさを曲に書いたのだ。

 

「一般的に、女性は、ボーイフレンドと別れると、『ああ、なんで彼は私の元を去って行ってしまったの』『戻ってきてほしい』なんて感じになる。一方で男性は『ああ、彼女がいなくなってせいせいだ』と強がって見せる。でも、実際はそうではない。男性だって、彼女と別れたら寂しくて、落ち込むんだ。だから、『エイント・ノー・サンシャイン』なんて曲を書いたんだ」

 

これは先に述べたように、生まれ故郷のスラブ・フォークで白人と黒人の友人のどちらもおり、彼らがそれぞれ聞いていた音楽の影響を受けていることが表れた一曲だ。白人はギターでフォーク調の曲、黒人は同じギターでもブルーズといった具合だ。

 

「(曲を書く)目的は、人々が聴きたいと思うことを書くことだ。それは必ずしも、僕自身のパーソナルな経験話ではない。僕はどちらかというとプライヴェートな人間なんでね」

 

とはいうものの、デビュー作は、彼の経験話が曲になっているものが多い。

 

「それは結果的に、僕の経験のストーリーが、僕自身のありのままの姿だからね」と吐露する。

 

「曲を書くときにはちょっとした個人的なやり方があってね。椅子に座って、自分自身をちょっと引っ掻いてみるんだ。そうすると、心に何かが浮かんでくる。たとえば、『彼女がいなくなって、太陽なんてない…』とかね。その歌詞がどこから来るかなんてわからない。才能とかギフト(与えられたもの)とかかもしれない。きっと心に浮かんだものって(神からの)ギフトなんじゃないかな」

 

「僕は『エイント・ノー・サンシャイン』はアルバムでベストの曲だとは思ったが、シングルのB面にいれられてしまった。もしあれがヒットしなかったら、僕のキャリアなんてなかっただろうね」

 

「素朴な田舎の連中は、本当に素朴だからね。大都会の連中はいろんなゲームに夢中なって忙しいんだろうけどね。田舎の連中は自分たちの出自をよくわかってるんだよ」

 

「僕は黒人で、吃音(どもり)があって、ちょっといろいろな血が入ってたから黒人たちからものけ者にされ、白人からも煙たがられ、八方塞がりだった。それにちょっと喘息持ちでもあった。16歳のとき、僕を育ててくれてた人達と折り合いが悪くなって、そこを出てしまった。でも一方炭鉱夫たちはいい人たちで僕のめんどうをよくみてくれた。ただ彼らはすごく個性的だったけどね。一緒にいると、『まわりの世界がすべて間違ってる、(まわりが)悪いんだ』って教えられるんだ。そんな環境に染まったら普通だったら、なんで(街を出て)世界を見ようなんて思うかね」

だが、ビルはちょっと違った。そうした周囲の人たちを見て、反面教師としたのだろう。

 

「子供の頃通ったのはブラック・スクール(黒人の学校)。ブラックの先生がいて、みんなはブルーズのことを本で勉強するかもしれないが、そこでは僕自身がブルーズだったんだよ。僕はウェスト・ヴァージニア出身で、母親は生活を支えるためにごみ集めまでして懸命に働いていて、僕は家族の中で初めて炭鉱夫にならなかった男なんだ。このどん底を見ない限り本なんか書けないよ」

 

このスラブ・フォークの街自体にビル・ウィザースは希望をもっていなかった。ファースト・アルバムには「ベター・オフ・デッド」(死んだ方がまし)といった暗いブルーズ曲もある。

 

これはアルコール中毒の主人公(自分)が、妻・子供たちに愛想をつかされ家を出て行ってしまい、自分なんか死んだ方がましだと言って、最後ピストルの発射音で終わるドラマチックな曲だ。まさにストーリーはブルーズだ。

 

ファースト・アルバムからの「グランドマズ・ハンズ」は、シングル・ヒットもするが、その名の通り、「おばあちゃんの手」。ビルが覚えている祖母の物語を描いたものだ。

 

おばあちゃんは、毎週日曜日教会でゴスペルを歌うとき手を叩き、タンバリンも叩く。ビル少年に、「走っちゃだめ、草むらには蛇がいるかもしれないし、ガラスの破片が落ちてるかもしれないから」とやさしく教える。そしてそのおばあちゃんがいなくなった今、(自分が)天国に行ったらおばあちゃんの手を探すんだと歌う。世のおばあちゃんがみな感激した歌だ。

DVD スクショ ビルウィザース ジャケ写 おばあちゃんの手 日本盤

ビルはしばしば、自分が体験したこと、見聞きしたこと、自分のまわりに直接起こったことくらいしか書けないと言っているが、これなどは彼の経験をそのまま曲にした傑作ともいえる。そして、多くのミュージシャンたちがまっさきにビル・ウィザースの思い出の曲としてあげるのがこの「グランドマズ・ハンズ」だ。

 

~~~

 

6 すぐ終わるシングル盤

 

吟遊詩人。

 

ビル・ウィザースの最初のシングル「エイント・ノー・サンシャイン(邦題、消えゆく太陽)」の17センチ(7インチ)・シングル盤を当時、ラジオで聴いて、日本盤を買った。裏面は「ハーレム」。家に帰ってターンテーブル(当時はステレオと言った)に載せてかけると「エイント・ノー・サンシャイン」はあっという間に終わる。なんと2分しかない曲なのだ。レコードをひっくり返してB面を聴く。「ハーレム」。これは3分くらいだった。またA面を聴く。すぐ終わる。またB面を聴く。そのうちA面ばかりを繰り返し聴くようになる。1971年の暮れか、72年の初めだろうか。日本盤は当時A&Mをリリースしていたキング・レコードからでた。その後、アルバム『ジャスト・アズ・アイ・アム』が出る。アルバムは高かったので、当時は買えなかった。

 

今は長い曲が当たり前だが、ビル・ウィザースの曲は、特に初期の曲はみな短い。ファースト・アルバムでは12曲のうち、7曲が3分以内だ。曲作りも、ギター弾きとしても「自分は素人」と考えている彼は、なによりシンプルな作品、メロディーを作る。一つのテーマを見つけ、そのことを歌うとき、それほど長さは必要はない。いわば、ビルは3分の吟遊詩人だ。そして、ビルのシンプリシティーは、50年後の現在でも普遍的に魅力的だ。

 

「エイント・ノー・サンシャイン」はギターを中心にした曲で、当時の他のソウル・ミュージックとはまったく違っていた。異色というか、違ったのだ。そこで、日本では従来のソウル・ファンからはあまり歓迎されていなかった。一方、ロック・ファン、フォーク・ファンからも黒人のシンガー・ソングライターということであまり注目もされなかった。たぶん、今の音楽ファンにはとうてい理解できないような空気感だった。ただしアメリカではトップ40とソウル・チャート(ソウル・ラジオ)ではしっかり支持された。このあたりが日本とアメリカのソウル・ミュージックの受け入れられ方の違いだった。

 

そして、この曲は1972年3月14日、第14回グラミー賞で「ベスト・リズム&ブルーズ・ソング」部門を獲得する。予算がないためにレコーディングも十分な時間もお金もかけられずに作ったアルバムの中から、シングルが見事なグラミー賞を獲得とは、エイヴォント自身も予想だにしなかった。そして、このグラミーを機に、ビル・ウィザースの名前は一挙に知られ、ライヴ・ツアーの要望も高まることになった。

 

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(続く)

 

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ソウル・サーチン・ブログ運営・吉岡正晴

 

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■ビル・ウィザース物語(パート2)~炭鉱の町からハリウッド・ヒルまで

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■ビル・ウィザース物語(パート2)~炭鉱の町からハリウッド・ヒルまで

 

【Bill Withers Story (Part 2) : From Slab Folk To Hollywood Hills】

 

ビル・ウィザースの訃報は日本時間の2020年4月3日(金)夜に流れました。僕のツイッターでは3日の23時43分に一報を流し以後いくつも情報を出し、4日以降、日本でも、また世界でも一斉に追悼モードとなりました。「ソウル・サーチン・ブログ」5日付けのブログで少しまとめ、以後、ビル関連の記事を結局トータル8本紹介したのでひとつにまとめました。特に評伝はかなり加筆しました。ゆっくりお楽しみください。

 

■JFN24局で『アイ・ガット・リズム』でビル・ウィザース物語放送

 

また、本物語と同時に2020年6月、東京FM系のJFN系24局ネットで放送される『アイ・ガット・リズム I Got Rhythm』(基本25分or30分x5回)で吉岡正晴が『ビル・ウィザース物語』を担当することになりました。6月2日FM新潟を皮切りに全国24局のFM局で放送されます。放送日・日時など一覧にまとめました。

 

番組ホームページ
https://park.gsj.mobi/program/show/43952
(5日前後に更新の予定です)

 

ラジオ番組は、いずれもラジコ(ラジオのインターネット配信サーヴィス。パソコン、スマートホンなどで聴取ができる)のタイムフリー、エリアフリー(有料)で全国どこからでも聴取可能です。

 

ラジコ
http://radiko.jp/
(エリアフリーなどの契約もこちらでできます。月額350円+税で全国の地上波FM局を聴取可能になります)

 

初回放送は、2020年6月2日(火)午前11時半からのFM新潟でした。その後6月5日から7日の週末にオンエアされます。

 

皆様お住まいの各地のFM局をお探しの上、お聞きいただければ幸いです。また、お住まいの地域に放送される局がなくてもいずれのラジコ・エリアフリー、タイムフリー(お住まいの地区以外のFMを聴くにはラジコの会員になる必要があります)のサーヴィスで聴取可能です。

 

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放送日、各放送局は次の通りです。いずれも2020年。例えば6/7は6月7日。放送日の早い順に並べました。番組名は『I Got Rhythm』。

 

【2020年6月2日火曜・初回放送(基本は以降同曜日同時間に放送】

 

FM新潟 11:30~11:55(火)6/2~再放送6/6(土)21:30~55
https://www.fmniigata.com/
(以降毎週火曜午前11時30分~、再放送毎週土曜21時30分~)

ちなみに、一番最初に放送されたFM新潟(6月2日11時半~)のものは、エリアフリー、タイムフリーですでに聴取可能です。契約者の方は、こちらで聴取可。
http://radiko.jp/#!/ts/FMNIIGATA/20200602113000

 

【2020年6月5日金曜・初回放送】

 

福島エフエム 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)
https://www.fmf.co.jp/pc2/
FM群馬 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)
https://www.fmgunma.com/fmg863/
FM熊本 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)※6/5~
https://fmk.fm/

 

【2020年6月6日土曜・初回放送】

 

FM長野 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 5:00~5:30(土)
http://www.fmnagano.co.jp/
FM大分 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 7:30~8:00(土)
http://www.fmoita.co.jp/
FM山口 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)
http://www.fmy.co.jp/
FM佐賀 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)
http://www.fmsaga.co.jp/
FM福井 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 12:25~12:55(土)
https://www.fmfukui.jp/docs/
FM高知 (Hisix) 6/6 12:30~12:55(土)※第1週のみ
   6/25 20:30~20:55(木)最終週のみ?
http://www.fmkochi.com/
FM広島 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)
http://hfm.jp/
仙台 Date FM 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)
http://771.fm/smp/
FM長崎 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:00~20:30(土)
https://www.fmnagasaki.co.jp/
FM香川 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:25~20:55(土)
https://www.fmkagawa.co.jp/
FM宮崎(JOY FM) 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 27:30~28:00(土)
http://www.joyfm.co.jp/

 

【2020年6月7日日曜・初回放送】

 

FM徳島 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 6:00~6:30(日)
https://fm807.jp/
FM岩手 6/7、6/21、7/5 8:00~8:30(日)※第1、3、5週 のみ放送
http://www.fmii.co.jp/
FM石川 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 8:00~8:30(日)
https://hellofive.jp/
FM山形 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 9:00~9:30(日)
http://www.rfm.co.jp/
FM鹿児島 6/7、6/21 9:30~9:55(日)※第1、3週のみ放送
https://www.myufm.jp/
三重(レディオ・キューブ) 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 18:30~18:55(日)
http://fmmie.jp/
栃木 Radio Berry 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 19:00~19:30(日)
http://www.berry.co.jp/
FM山陰 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 24:00~24:30(日)
http://www.fm-sanin.co.jp/
FM大阪 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 27:30~28:00(日)
http://www.fmosaka.net/

 

全24局ネット。各局のエリアフリー、タイムフリーで何度でも聴取可能です。

 

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本編『ビル・ウィザース物語~炭鉱の街からハリウッド・ヒルまで』(パート2)です。

 

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(昨日のブログからの続き)

 

■ビル・ウィザース物語(パート2)~炭鉱の町からハリウッド・ヒルまで~

 

7.「リーン・オン・ミー」誕生。

 

素朴。

 

ビルは、ワッツ・103rd(ハンドレッド・サード)バンドのメンバーだったドラムスのジェームス・ギャドソン、ギタリストのバーノース・ブラックマン、キーボードのレイ・ジャクソン、そして、ベースのメルヴィン・ダンラップを従え、全米ツアーにまわる。そのツアー中にもビルは曲を書き、いくつかはステージで試しに歌ってみたりした。そして、それらの曲を集めて2枚目のアルバムを出すことになる。

 

そして、2作目からの名曲「リーン・オン・ミー」はこうして生まれた。1972年7月には全米ポップ・チャートで1位を3週連続で獲得するこの曲は、その後も何か有事のときの応援歌としてたびたび歌われたり、ラジオから流れたりする。ニューヨークの「911テロ」のとき、あるいは、いまのコロナ禍でも、社会が暗くどんよりしたときの応援歌になっている。それは詞の内容が時代と関係なく普遍的なものだからだ。

 

ビル・ウィザースの生まれ故郷スラブ・フォークは前述の通りとても貧乏な炭鉱町だ。そこでは、近所の誰もが皆を知っていた。誰かの家に塩がなければ、誰かが塩を貸し、ミルクが足りない家があれば、誰かがミルクを与えた。お互いがお互いを助け合い生きてきた小さな素朴な田舎街だった。そんな街では、誰かに頼る(Lean On Somebody)ということは、自然なことだった。

 

1971年のある日、ロスアンジェルスに移っていた彼は新しく買ったウーリッツァー社のキーボードをダンボールから取り出した。彼自身、ある程度ギターは弾くが、キーボードはそれほど弾けなかった。取り扱い説明書を読むこともなく、適当にいじりながら音を出し始めると、彼はある音が気に入った。いろいろなスイッチを適当にさわりながら、音を出していると、ちょっとしたメロディーをハミングしていた。そのハミングしたメロディーは彼が炭鉱の近くか、あるいは故郷の教会で聴いたようなメロディーだった。

 

DVD スクショ ビルウィザース ウーリッツァー (イメージ)

(ウーリッツァー・キーボード=イメージ)

 

思い浮かんだメロディーから、ビルの脳裏にはその故郷の人々が思い出された。そして、その故郷に思いをはせるうちに、歌詞ができてきた。誰もが誰かに頼る小さな炭鉱町の人々を歌った歌詞だ。「リーン・オン・サムバディー(誰かに頼る)」の街、スラブ・フォーク。そのことを思い浮かべながら書いた作品、それが「リーン・オン・ミー」だった。

 

しかし、この曲を作った時、彼にはアルバムのレコーディングの予定はなかった。1971年6月発売のデビュー・アルバム『ジャスト・アズ・アイ・アム』(ありのままの自分、自分そのもの、等身大の自分と言った意味)がヒットしていたが、それをプロデュースしてくれたブッカーTはスケジュールの関係で次の作品をプロデュースできなかった。(ここは推測だが、ブッカーTはビルのファースト・アルバムのプロデュース料を正しくもらえなかったのではないか。なので、1枚目があれだけ売れていたにも関わらず、ブッカーが断った。ブッカーの自伝にはビルのデビュー作のことは書かれているが、2枚目をてがけなかった理由などは書かれていない。おそらく公式には、「スケジュールがあわなかった」、ということになるのだろうが、実際はブッカーがファーストの約束されたギャラをもらえず、断ったのではないかと僕はふんでいる。次回、ブッカーに取材する機会があれば、ぜひ確かめてみたいと思う)

 

8.ガレージ・バンド。

 

直談判。

 

ビルはレコード会社サセックスの社長、クラレンス・エイヴォントにツアーで一緒にやっていたバンド・メンバーで2作目のレコーディングをしたいというが、エイヴォントは首を縦にふらない。エイヴォントは、一流のスタジオ・ミュージシャンを起用してアルバムを作ろうと考えていたようだった。

 

この頃の音楽業界の常識というのは、レコーディングはそれなりのプロ、つまり、スタジオ・ミュージシャンを使ってきっちりと音を作ることが「よし」とされた。彼らは譜面が読めなければならなかった。スタジオ代はひじょうに高かったので、一度譜面を見るだけで演奏できなければならなかった。

 

だから、何度もリハーサルを繰り返すライヴ・バンド、あるいは、ツアー・バンドは、そうしたスタジオ・ミュージシャンと比べると一段下に見られていたのだ。エイヴォント社長も、レコーディングはちゃんとしたミュージシャンを使ってやり、ツアーは別のライヴ用のバンドでやればいいと考えていた。ファーストを録ったブッカーT&MGズは、スタジオ・バンドとしても、またライヴ・バンドとしてもすでに定評があったので、レコーディングはうまく行ったわけだ。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース ジェームスギャドソン アー写

(ジェームス・ギャドソン)

 

そこで、ビルはスタジオ代の安い午前中に3時間ほど時間をとってもらい、そのメンバーでデモ・テープを録音させてくれるよう直訴。なんとか社長の了解を得た。

 

ビルとジェームス・ギャドソン、そして、その仲間たちはいつもギャドソンの自宅ガレージに集まって、汗だくになってセッションをしていた。ビルは同じ仲間のキーボード奏者レイ・ジャクソンにメンバーを集めるように頼み、ある金曜の午前10時、皆がスタジオに集まることになった。彼らはギャドソンのガレージでいつもやっている曲を、スタジオでやればいいだけだ。心意気もよくわかっている。

 

しかし、このレコーディング・セッションの日、なんとギャドソンの車が故障してスタジオに来れなくなった。あわてたビルは、すぐにギャドソンの家に迎えに行き、大急ぎでスタジオに彼を連れてきた。「あんなに飛ばしたことはなかった」とビルは振り返る。

 

定刻より少し遅れたが、なんとか全員が揃いビルはメンバーに言った。「この3時間で我々は自分たちの実力を証明しなければならない」。

 

9.アル・ベルの助言

 

助言。

 

レコーディングはリハーサルの甲斐もあってか順調に進み、スタジオで「ユーズ・ミー」など何曲かを録音。スタジオからいきなり、ビルはテープを持ってエイヴォント社長のオフィースに直行した。社長は、ちょうどスタックス・レコードの重役であり、エイヴォントの手伝いをしていたアル・ベルとミーティングをしていた。そこで、できたての作品を聴かせると、クラレンスはあまりのってこない。ところが、アル・ベルがその作品を気に入ったようだった。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース アル・ベル アー写モノクロ

(アル・ベル)

 

アル・ベルは言った。「このドラムスは、ワッツ・ハンドレッド・サード・バンドのドラムスのようだな。彼らにやらせたらいいじゃないか」。するとアル・ベルの意見には一目置いていたエイヴォントも「そうか…」という感じで、なんとかセカンド・アルバムのレコーディングにゴーサインがでた。もちろん、アル・ベルがぴんときたドラムスは、ジェームス・ギャドソン、つまり彼が見立てた通りワッツ・ハンドレッド・サード・バンドのドラマーだった。

 

2-3度のセッションで彼の2枚目のアルバム『スティル・ビル』が完成する。タイトルは、デビュー作が大ヒットし、グラミー賞を取ったとしても、ビル本人はハリウッドのけばけばしい世界に入って変わったりはしていない。「以前、昔と同じビル」という意味で、「スティル・ビル」と名付けられた。

 

アルバムからの最初のシングル「リーン・オン・ミー」は、1972年4月からヒット。見事にソウル・チャート、ポップ・チャートでナンバー・ワンに輝いた。その後もイギリスのグループ、マッドがカヴァーしたり、他にもマイケル・ボルトン、ティナ・ターナー、アル・ジャロウまで多数のカヴァーが誕生し、ビル・ウィザース作品の中でももっとも人気の一曲となった。その普遍的なメッセージは曲が書かれて30年以上たった今日でも輝きを失わない。

 

アルバムは1972年5月にリリースされソウル・アルバム・チャートで1位、見事ゴールド・ディスクに輝く。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース リーンオンミー盤面 サセックス

 

10.「僕を頼って」。

 

リーン・オン・ミー
作詞・作曲・歌・ビル・ウィザース

 

人生、生きていけば、みな、痛みを感じる時もあれば、
悲しみにくれることもある
だが、私たちが賢ければ、
いつでも希望に満ちた明日がやってくることがわかっている

君が落ち込んでいる時には、僕を頼ってくれていいんだよ
僕は君の友達になって、君ががんばれるよう手助けしよう 
僕だってすぐに誰かを頼りにする日がくるかもしれないのだから

君に必要なものが僕の手元にあって、借りたいと思うなら、
プライドを捨てて、そう言ってくれ
その事を口に出して言わなければ、
誰も君の気持ちをわかってくれない

ブラザー、手助けが必要なら、ただ僕を呼んでくれればいい、
僕たちはみな、誰か頼れる人が必要なんだ
僕も君にはわかってもらえる悩みを抱えているかもしれない
僕たちはみな、誰か頼る人間が必要なんだ

持っていかなければならない荷物があるなら、
僕を呼び出してくれ、僕が荷物を少し持ってあげよう、
すぐに飛んでいくよ、君に友達が必要な時は・・・
呼んでおくれ

 

(大意・訳詞ソウル・サーチャー)

 

Lean On Me (1972)
Written And Sung By Bill Withers

 

Sometimes, in my lives
We all have pain, we all have sorrow
But, if we are wise
We know that there’s always tomorrow

Lean on me, when you’re not strong
And I’ll be your friend, I’ll help you carry on
For, it won’t be long
Til I’m gonna need somebody to lean on

Please swallow your pride
If I have things you need to borrow
For no one can fill
Those of your needs that you won’t let show

You just call on me brother when you need a hand
We all need somebody to lean on
I just might have a problem that you’ll understand
We all need somebody to lean on

Lean on me, when you’re not strong
And I’ll be your friend, I’ll help you carry on
For, it won’t be long
Til I’m gonna need somebody to lean on

You just call on me brother when you need a hand
We all need somebody to lean on
I just might have a problem that you’ll understand
We all need somebody to lean on

If there is a load
You have to bear, that you can’t carry
I’m right up the road
I’ll share your load if you just call me
Call me if you need a friend
Call me …

 

Lean On Me- Bill Withers (Lyrics)
https://www.youtube.com/watch?v=rdlPVBvkr-s

 

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11.カーネギー・ホールの栄誉。

 

栄光。

 

ビル・ウィザースは2枚のアルバムで、アメリカの音楽シーンに大きなインパクトを与えた。シングル「エイント・ノー・サンシャイン」と「リーン・オン・ミー」の2大ヒットで、いわゆるトップ40ファンからも、ロック・ファンからも、そしてもちろんソウル・ファンからも親しまれるようになった。

 

そして、その2枚のアルバムを受けて、ライヴ・アルバムを作る話がでてきた。しかも、会場はニューヨークの音楽の聖地とも言えるカーネギー・ホールだ。

 

レコーディングは1972年10月6日、メンバーは気心の知れたレイ・ジャクソン(キーボード、ピアノ)、ジェームス・ギャドソン(ドラムス)、メルヴィン・ダンラップ(ベース)、ギターにビノース・ブラックモン、パーカッションにボビー・ホール、そして、ビル・ウィザースがヴォーカルとギターとピアノを担当した。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース カーネギーホール外観

(カーネギー・ホール)

 

そして彼は満員のカーネギーの観客を沸かせた。アルバムは、当時のヴァイナル2枚組で『ライヴ・アット・カーネギー・ホール』と題され、1973年4月に全米発売された。(現在はCD1枚) ここには全14トラック(15曲)が収録されうち5曲が過去2枚のアルバムに入っていない新曲だ。

 

ちなみに1作目『ジャスト・アズ・アイ・アム』から「エイント・ノー・サンシャイン」、「グランドマズ・ハンズ」、「ベター・オフ・デッド」、「ホープ・シール・ビー・ハピアー」、「ハーレム」の5曲、2作目『スティル・ビル』から「ユーズ・ミー」、「レット・ミー・イン・ユア・ライフ」、「ロンリー・タウン、ロンリー・ストリート」、そして、「リーン・オン・ミー」の4曲。残る6曲が新しい。

 

ただ、「ハーレム」とメドレーになっている「コールド・バロニー」は一足先にアイズレイ・ブラザースが「ハーレム」をベースに二次創作、改編し「コールド・ボローニャ」としたもので、ビル自身もその制作に携わった曲だ。

 

二次創作。

 

この「ハーレム」と「コールド・ボローニャ(コールド・バロニー)」について少し説明しておこう。

 

まず「ハーレム」を聴いてインスパイアーを得たアイズレイ・ブラザースが「コールド・ボローニャ」という曲を作った。「ハーレム」のコード進行、リズムを使い独自の歌詞を載せたもの。アイズレイのアルバム『ギヴン・イット・バック』(1971年)に収録された。アイズレイのヴァージョンにもビルはゲストでギターを弾いている。

 

「コールド・ボローニャ」とは、冷たいボローニャのこと。ボローニャとは写真のようなハムだ。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース ボローニャハム

(ボローニャハムのサンドイッチ)

 

主人公のお母さんが金持ちの家のお手伝いさんをしていて、そこの余りもののコールド・ボローニャを持ち帰って、それにマヨネーズをつけパンと一緒に食べるという話。家には食べ物がなくて、おなかが空いている子供が、お母さんが持ち帰る残り物のコールド・ボローニャを待っているというまさにハーレムにありそうな世相を描いた作品だ。

 

これがアイズレイのヴァージョン。ギターはビル・ウィザース。

 

Isley Brothers – Cold Balogna
https://www.youtube.com/watch?v=nlrCNFIr_xY

 

ということで、この2曲はビルにとっても1曲でメドレーにして歌うのも自然なことだった。

 

そして、1枚目と2枚目のアルバムが出た後に、ビルはカーネギー・ホールでのライヴで2曲をメドレーにして披露した。ライヴ盤ではなんと13分余におよぶ。

 

Harlem / Cold Baloney-Bill Withers-1973
https://www.youtube.com/watch?v=c6_qJ4_EXnk

 

これはいわば当夜のハイライトの一曲と言えるかもしれない。

 

もうひとつ、日本人の僕には当初わからなかったが、彼にとって「ハーレム」と「ゲットー」というのは、なにかしっかり違うものという意識があるようだ。「ハーレム」はその昔は「ハーレム・ルネッサンス」とも呼ばれるほど、一時期は華やかな場所だった。一方、「ゲットー」は本当にスラム街だ。「ハーレム」は歌うが、「ゲットー」は歌いたくない。それがビルの気持ちなのだろう。

 

「スリー・ナイツ~」として作った曲が、洗練された「ハーレム」となり、その「ハーレム」をベースにいわば二次創作のような形で「コールド・ボローニャ」ができ、それをなんとカーネギー・ホールでメドレーにして披露するという、楽曲としては大変な栄誉、栄光の道を歩んだともいえる。

 

■CD

 

Bill Withers – Greatest Hits (輸入盤)
https://amzn.to/2wzlKNC
なぜか各作品が異様に値上がりしていて困りますね

 

アイズレイ・ブラザース=ギヴィング・イット・アップ

DVD スクショ ビル・ウィザース アイズレー


https://amzn.to/2RuGjSs

 

ビル・ウィザース=ライヴ・アット・カーネギー・ホール
ライヴ(在庫切れ)

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 ライヴ 


https://amzn.to/2XsbgL5

 

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ハーレム
作詞・作曲・歌 ビル・ウィザース

 

ハーレムの夏の夜
本当に暑いぜ
暑すぎて寝られない、この暑さだが心は寒すぎる
俺が死のうが死ぬまいが関係ない

ハーレムの冬の夜
暖房が温かくならない
意地悪な大家は俺が凍え死のうが死ぬまいが、気にしちゃいない

ハーレムの土曜の夜
万事OK
のってのって踊りあかすんだ
すべてOK

ハーレムの日曜の朝
みんなドレスアップする
遊び人たちはパーティーから帰ってくるが、まじめな連中は朝起きたところ
牧師を聖なる地に送るという名目で詐欺師たちが寄付を募る
なあ、ハニー、君の金をそんなウソつきのペテン師にやっちゃだめだ

 

(訳詞・ソウル・サーチャー)

 

~~~

 

冷たいボローニャ・ハム
作詞・作曲・歌 ビル・ウィザース
演奏・アイズレイ・ブラザース


コールド・ボローニャ(冷たいボローニャ・ハム) 5歳の僕はたった一人でお留守番
外は凍てつく寒さ
ママは金持ち一家のためにステーキを焼いてる

僕は眠い、でもママが帰ってくるまで待っている
そう、金持ち一家がおいしいものを食べ残してくれたら、ママが持ち帰ってきてくれるから

そう、食べ残しの冷たいボローニャを
それにマヨネーズとパン
その冷たいボローニャ・ハムがないと僕は死んじゃうんだ

ママはクタクタだ
ママは言う「お前、何食べてるんだい?」
「ボローニャ・サンドイッチだよ、おいしそうでしょう。ママにも作ってあげようか?」

そう、食べ残しの冷たいボローニャを
それにマヨネーズとパン
その冷たいボローニャ・ハムがないと僕は死んじゃうんだ

 

(訳詞・ソウル・サーチャー)

 

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Harlem
Written and sung by Bill Withers

Summer night in Harlem
Man it's a really hot
Well it's too hot to sleep, and I'm too cold to heat
I don't care if I die or not

Winter night in Harlem
Radiator won't get hot
Well the mean old landlord, he don't care
If I freeze to death or not

Saturday night in Harlem, everything's alright
You can really swing and shake you're pretty thing
Everything's alright

Sunday morning here in Harlem, everybody's all dressed up
While the hip folks gettin' a home from the party
And the good folks just got up
Crooked delegation wants a donation
To send the preacher to the holy land
Hey, hey lawd, honey don't give your money to that lying, cheatin' man

Saturday night in Harlem, everything's alright
You can really swing and shake you're pretty thing
Everything's alright

Sunday morning here in Harlem, now everybody's all dressed up
While the hip folks gettin' a home from the party
And the good folks just got up
Crooked delegation wants a donation
To send the preacher to the holy land
Hey, hey lawd, honey don't give your money to that lying, cheatin' man


~~~

 

Cold Bologna
Written by Bill Withers
By Isley Brothers


[Verse 1]
Cold bologna, and I'm home by myself
Well, I'm 5 years old, and it sho' is cold
Mama's out cookin' steak for someone else

Sure am sleepy, but I'm gonna wait 'til my mama comes
Well, if the rich folks don't eat up
All that good meat, y'all, mama's gonna bring me some

[Chorus]
Talkin' bout that
Cold bolonga and mayonnaise and bread
If it wasn't for cold bologna by now (Cold bologna)
Y'all know I would've been dead

[Verse 2]
Mama sure looks tired
She said, "what's that you eatin', son?"
"That bologna sandwich sure looks good --
Won't you Ahh, Owww, fix your mama one?"

[Chorus]
Talkin' bout that
Cold bolonga and mayonnaise and bread (Cold bologna)
If it wasn't for cold bologna by now (Cold bologna)
Y'all know I would've been dead


ストーリーテラーとしてのビル・ウィザースの魅力が存分に出たライヴ盤としても傑作となった。

 

石炭の炭で薄汚れたスラブ・フォークの田舎街を出てレコード・デビューしてからわずか2年ほどで、カーネギー・ホールへ。誰も想像だにしない出世ぶりだった。

 

サセックスではこの後3枚のアルバムを出す。この間に、1971年、デビュー作から「グランドマズ・ハンズ」、1972年2作目から「リーン・オン・ミー」、「ユーズ・ミー」、1973年「キッシング・マイ・ラヴ」、1974年「ザ・セイム・ラヴ・ザット・メイド・ミー・ラフ」、1977年「ラヴリー・デイ」などが大ヒットし、押しも押されぬスターとなった。

 

この間、いい仕事もはいってきて、1974年10月にはアフリカのザイールで行われたモハメド・アリとジョージ・フォアマンのボクシングの試合のイヴェントにジェームス・ブラウン、スピナーズらと出演。この模様は2008年に映画『ソウル・パワー』として日本でも公開された。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース 映画 ソウルパワー ザイール ビルが映ってるところ

(映画『ソウル・パワー』から、左・モハメド・アリ、真ん中・ビル・ウィザース、右・ドン・キング)

 

すべては順風満帆のようだった。だが、好事魔多し…。

 

(後半パート3へ続く)

 

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■ビル・ウィザース物語(パート3)~炭鉱の町からハリウッド・ヒルまで

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■ビル・ウィザース物語(パート3)~炭鉱の町からハリウッド・ヒルまで 2

 

前回パート1まで。

 

ウェスト・ヴァージニア州の炭鉱の街スラブ・フォークに生まれたビル・ウィザースは、黒人で喘息持ちで吃音(どもり)の問題があるという三重苦の少年だった。しかし、その極貧の街から出るために海軍に入隊。そこで培った人生を生きる術をもとに、西海岸に出る。ジャンボ機のトイレを取り付ける仕事をしながら、日々の生活を送っているときに、ひょんなことから見たルー・ロウルズのライヴ会場でルーのギャラがはんぱなく大きいことを知り、音楽業界入りを目指す。起業家クラレンス・エイヴォントと出会い彼のサセックスと契約。見事にヒットを出し、グラミー賞を獲得。ニューヨークの名門カーネギー・ホールでのコンサートも成功させた。すべては順風満帆のキャリアに見えたが… 

 

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 シンガー・ソングライター、ビル・ウィザースが2020年3月30日に81歳で死去しました。その訃報などを当初はツイッターなどで連投し、さらに4月5日付けブログから8回にわたっていろいろと投稿しました。それらのビル・ウィザース関連原稿を大幅に加筆修正しまとめて、このノートに『ビル・ウィザース物語~炭鉱の街からハリウッド・ヒルまで』として2回に分けて掲載します。これはその2回目の前半です。

 

1回目(パート1)は、こちらです→https://note.com/ebs/n/nfada9bf816d2

 

ビルの訃報は日本時間の2020年4月3日(金)夜に流れました。僕のツイッターでは3日の23時43分に一報を流し以後いくつも情報を出し、4日以降、日本でも、また世界でも一斉に追悼モードとなりました。「ソウル・サーチン・ブログ」5日付けのブログで少しまとめ、以後、ビル関連の記事を結局トータル8本紹介したのでひとつにまとめました。特に評伝はかなり加筆しました。ゆっくりお楽しみください。 

 

また、本物語と同時に2020年6月、東京FM系のJFN系24局ネットで放送される『アイ・ガット・リズム I Got Rhythm』(基本25分or30分x5回)で吉岡正晴が『ビル・ウィザース物語』を担当することになりました。

 

6月2日FM新潟を皮切りに全国24局のFM局で放送されます。放送日・日時など一覧にまとめました。 番組ホームページ『I Got Rhythm 音楽が生まれる時』(#62~#66) 

 

https://park.gsj.mobi/program/show/43952

 (5日前後に更新の予定です) 

 

ラジオ番組は、いずれもラジコ(ラジオのインターネット配信サーヴィス。パソコン、スマートホンなどで聴取ができる)のタイムフリー、エリアフリー(有料)で全国どこからでも聴取可能です。 

ラジコ http://radiko.jp/

(エリアフリーなどの契約もこちらでできます。

 

月額350円+税で全国の地上波FM局が聴取可能になります) 

 

この他に、ウィズ・レイディオというアプリで全国のFM局が無料で聴けます。詳細はこちらへ

https://www.wizradio.jp/

 

初回放送は、2020年6月2日(火)午前11時半からのFM新潟でした。その後6月5日から7日の週末に初回がオンエアされています。 皆様お住まいの各地のFM局をお探しの上、お聞きいただければ幸いです。また、お住まいの地域に放送される局がなくてもいずれのラジコ・エリアフリー、タイムフリー(お住まいの地区以外のFMを聴くにはラジコの会員になる必要があります)のサーヴィスで聴取可能です。 

 

~~~~~ 

 

放送日、各放送局は次の通りです。いずれも2020年。例えば6/7は6月7日。放送日の早い順に並べました。番組名は『I Got Rhythm』。25分番組として放送する局と30分番組として放送する局があります。できれば、30分番組をお聞きいただけると澤岩居です。30分局に★をつけました。 

 

【2020年6月2日火曜・初回放送(基本は以降同曜日同時間に放送】 

 

FM新潟 11:30~11:55(火)6/2~再放送6/6(土)21:30~55 https://www.fmniigata.com/

(以降毎週火曜午前11時30分~、再放送毎週土曜21時30分~) 

 

【2020年6月5日金曜・初回放送】 

 

福島エフエム 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金) https://www.fmf.co.jp/pc2/

FM群馬 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金) https://www.fmgunma.com/fmg863/

FM熊本 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)※6/5~ https://fmk.fm/

 

【2020年6月6日土曜・初回放送】 

 

★FM長野 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 5:00~5:30(土) http://www.fmnagano.co.jp/

★FM大分 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 7:30~8:00(土) http://www.fmoita.co.jp/

FM山口 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土) http://www.fmy.co.jp/

FM佐賀 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土) http://www.fmsaga.co.jp/

★FM福井 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 12:25~12:55(土) https://www.fmfukui.jp/docs/

FM高知 (Hisix) 6/6 12:30~12:55(土)※第1週のみ    6/25 20:30~20:55(木)最終週のみ?

http://www.fmkochi.com/

FM広島 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土) http://hfm.jp/

仙台 Date FM 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土) http://771.fm/smp/

★FM長崎 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:00~20:30(土) https://www.fmnagasaki.co.jp/

★FM香川 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:25~20:55(土) https://www.fmkagawa.co.jp/ 

★FM宮崎(JOY FM) 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 27:30~28:00(土) http://www.joyfm.co.jp/

 

【2020年6月7日日曜・初回放送】 

 

★FM徳島 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 6:00~6:30(日) https://fm807.jp/ 

★FM岩手 6/7、6/21、7/5 8:00~8:30(日)※第1、3、5週 のみ放送 http://www.fmii.co.jp/

★FM石川 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 8:00~8:30(日) https://hellofive.jp/ 

★FM山形 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 9:00~9:30(日) http://www.rfm.co.jp/ 

FM鹿児島 6/7、6/21 9:30~9:55(日)※第1、3週のみ放送 https://www.myufm.jp/

三重(レディオ・キューブ) 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 18:30~18:55(日)

 http://fmmie.jp/

★栃木 Radio Berry 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 19:00~19:30(日) http://www.berry.co.jp/

★FM山陰 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 24:00~24:30(日) http://www.fm-sanin.co.jp/

★FM大阪 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 27:30~28:00(日) http://www.fmosaka.net/

 

全24局ネット。各局のエリアフリー、タイムフリーで何度でも聴取可能です。 ちなみに、一番最初に放送されたFM新潟(6月2日11時半~)のものは、エリアフリー、タイムフリーですでに聴取可能です。契約者の方は、こちらで聴取可。 http://radiko.jp/#!/ts/FMNIIGATA/20200602113000

 

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 冒頭にニュース、リンク、そして、本編『ビル・ウィザース物語~炭鉱の街からハリウッド・ヒルまで』(パート2) ~~~~ 

 

(前回パート1まで。ウェスト・ヴァージニア州の炭鉱の街スラブ・フォークに生まれたビル・ウィザースは、黒人で喘息持ちで吃音(どもり)の問題があるという三重苦の少年だった。しかし、その極貧の街から出るために海軍に入隊。そこで培った人生を生きる術をもとに、西海岸に出る。ジャンボ機のトイレを取り付ける仕事をしながら、日々の生活を送っているときに、ひょんなことから見たルー・ロウルズのライヴ会場でルーのギャラがはんぱなく大きいことを知り、音楽業界入りを目指す。起業家クラレンス・エイヴォントと出会い彼のサセックスと契約。見事にヒットを出し、ニューヨークの名門カーネギー・ホールでのコンサートも成功させた。すべては順風満帆のキャリアに見えたが…) 

 

■ビル・ウィザース物語(パート2の前半)~炭鉱の町からハリウッド・ヒルまで

 

 12.サセックスが倒産~CBSへ移籍 

 

倒産。

 

ビル・ウィザースのキャリアは順風満帆だった。シングルもヒット、アルバムもベストセラーに。ライヴも好調。だが、好事魔多し。なんと所属レーベル、サセックスが1974年からそれまでのブッダ・レコーズの配給から独立し、自身で配給するようになってから資金繰りがうまくいかなくなってしまった。そして、1975年7月には倒産してしまう。 

 

同社の最大のベスト・セラー・アーティストだったビル・ウィザースはサセックスに3枚のスタジオ・アルバム、1枚のライヴ・アルバム計4枚のアルバム(このほかにベストが1枚)を残し、同年、CBSコロンビアに移籍。 

 

1975年10月、移籍第一弾『メイキング・ミュージック』をリリース。ソウル・アルバム・チャートで7位、ポップ・アルバム・チャートで81位とそこそこの成績を収めた。続く1976年の『ネイキッド&ウォーム』は不発だったが、1977年発売の『メナジェリー』は、それまでの最大のヒット・アルバムだった2作目『スティル・ビル』以来初めて50万枚を超えるゴールド・ディスクに輝く。コロンビア時代では最大のヒット作だ。ここからは、「ラヴリー・デイ」が大ヒットし、これがアルバムのベスト・セラーに結びついた。 

 

ビル・ウィザース ジャケ写 メイキングミュージック 

 

ビル・ウィザース ジャケ写 ネイキッド 

 

ビル・ウィザース ジャケ写 マネジェリー 

 

そして、1978年『‘バウト・ラヴ』を出したあたりで担当のA&Rディレクターの人事異動があったようだ。移籍から約3年半でゴールド・ディスク1枚を含む4枚のリリース成績はまずまずだったとは言えるだろう。 

 

ビル・ウィザース ジャケ写 バウトラヴ 

 

移籍後4年ほどは順調だった。

 

 しかし、この担当替えがビル・ウィザースにとって大きな転機になるとは誰しも思わなかった。 

 

13.変わったA&Rディレクター

 

悪夢。 

 

この時期コロンビア・レコーズのソウル部門はマンハッタンズやジョニー・テイラー、さらにはアース・ウィンド&ファイアーの大成功でかなり勢いに乗っていた。また、音楽的には、ディスコが大ブームでダンス曲が主流になっていた。しかし、ウィザースはそうしたものにはまったく見向きもせずマイペースで自身の作品を歌っていた。いちおうグルーヴのあるアップテンポの曲はそれでも録音はしている。

 

担当替えは、アーティストにとっても、その担当者にとってもリスキーだ。A&Rマンが変わり、成功することもあれば、逆にヒットが出なくなることもある。基本的には成功しているときには、「物事を動かすな」がセオリーだが、『メナジェリー』の次の『‘バウト・ラヴ』の成績が芳しくなかったので、担当替えになったのだろう。 

 

そのコロンビアで新しく担当となったA&Rディレクターはミッキー・アイクナー(白人)という人物だった。 

 

ミッキーアイクナー (ミッキー・アイクナー) 

 

ミッキーの正確な生年はわからないのだが、おそらくビル(1938年生まれ)と同じ年か少し上かもしれない。おそらく1930年代中期くらいの生まれだろうか。1960年代初期には、すでにインディのジュビリー・レコードでヒット曲に携わってきた。フォー・エイセス、ボビー・フリーマンなどの作品をてがけてきた。1970年ごろにはセプター・レコードでシングル盤などにプロデューサーとして名前が残されている。その後1970年代初期になってコロンビアに移籍し、以後、十数年コロンビアで制作、宣伝ディレクターとして活躍した。1970年代には、マンハッタンズなどを担当していた。1990年代に入り、現在では、「ジ・アイクナー・エンタテインメント・カンパニー」という会社を運営している。元々ラジオDJになることが夢だったそうで、ラジオ局のDJともコネがあり、いかにシングル・ヒットを生み出すかに長けた人物のようだ。 

 

そんなアイクナーは、ウィザースの担当になり初ミーティングの席で「私はあなたの音楽に興味はないし、いいとも思わない」と言い放ったというのだ。そのときウィザースは「彼のことを殴らなかった自分を誇りに思う」と振り返る。 

 

自分の担当アーティストにそんなことを言うディレクターもディレクターだが、おそらく、昔ながらの古参ディレクターだったのだろう。以来、彼らはことあるごとにぶつかり合う。彼にとって、悪夢の始まりだった。 

 

コロンビア時代のアルバムは、当時のLAのトップ・セッション・ミュージシャンを起用することが多く、ウィザースの昔からの仲間であるメンバーがあまり重用されていない。盟友ジェームス・ギャドソン(ドラムス)は、調べてみると5枚のアルバムに一曲も入っていないのだ。 

 

そのあたりもウィザースは若干不満を持っていた。 

 

14. 敵対(アンタゴニスティック)。 

 

A&R。 

 

A&Rとは、アーティスト&レパートリー(レパトワー)の略。直訳すると「アーティストと楽曲」。アーティストにどんな曲を歌ってもらうかを考え、その辺の事務・スタジオ作業を一切取り仕切る。レコード会社でA&Rといえば、そのの中枢であり、作品を作る司令塔でもある。 

 

しかし、このA&Rをビルは、「antagonistic and redundant」(敵対と冗長、不必要、余剰)だと言ってはばからない。 

 

■ビル・ウィザースが2015年、ロック殿堂入りを果たした時の受賞スピーチ(約13分) 

 

Bill Withers Acceptance Speech at the 2015 Rock & Roll Hall of Fame Induction Ceremony 

https://www.youtube.com/watch?v=Ir3JDyQ7yZE&fbclid=IwAR3p4H8hlg9XBNdKb9hs9HyTUEQryoXlgPnUCjWBfi7K7pA73AqwrkNFmMA

 

(キャプションをオンにすると、ある程度の英語字幕がでます。固有名詞は間違いが多いですがw) 

 

13分にもおよぶスピーチはなかなか楽しく素晴らしいので全文の起こしがほしいほどだが、この1分02秒くらいのところで、「アンタゴニスティック&リダンダント」という表現がでてくる。 

 

この授賞式ではこの前にジョーン・ジェットがA&R問題についてちょっと語ったようで、それを受けて、A&Rについて少し語る。そして、この授賞式自体を最大のA&R(敵対と冗長な)ミーティングだと言い、観客から笑いを取る。 

 

15.「イン・ザ・ゲットー」問題。 

 

ゲットー。 

 

このアイクナーとはとにかく衝突した。ウィザースがしばしば語るのが、アイクナーがウィザースにエルヴィス・プレスリーの1969年の大ヒット「イン・ザ・ゲットー」をカヴァーさせようとしたことだ。 

 

エルヴィスの「イン・ザ・ゲットー」はとてもいい歌詞で、またメロディーも抒情的で、一見(一聴)ウィザースに向いているかとも思わせられる。しかし、ウィザースはきっぱりと言う。 

 

エルヴィス イン・ザ・ゲットー ジャケ写 

 

「そんなゲットーに住んだこともないし、ほとんど行ったこともない。だいたいエルヴィスについても何も知らないんでね。なんで、そんな曲をカヴァーしなきゃならないんだ」とけんもほろろだ。自分自身がその歌詞に共感できなければ、彼は絶対にその歌を歌わない。ビル・ウィザースは、サセックス以降、誰かのヒットをほとんどカヴァーしていない。 

 

A&Rマンとして、そのアーティストに歌わせたい曲と、そのアーティストが歌いたい曲の心意気を知るのは重要な仕事だ。あるときは、その狭間を埋めるのもA&Rマンの大きな仕事のひとつだ。 

 

■「イン・ザ・ゲットー」について 

 

キャンディ・ステイトンが歌った「イン・ザ・ゲットー」 

2012年07月03日(火) 

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11292423452.html

 

「イン・ザ・ゲットー」はこんな歌だ。 

 

イン・ザ・ゲットー (マック・デイヴィス作) 

 

粉雪落ち行く 寒く暗いシカゴの朝 

ひとりのかわいそうなベイビーが生まれた 

ゲットーの片隅に 

 

母親は泣いている 

 

ろくに食事も与えられないベイビーなど欲しくないからだ 

 

ゲットーで生きていくには 

どうして子供に愛ある手助けが必要だと 

みなわからないのだろう 

手助けがなければ、その子はいつか怒れる心荒む若者になってしまう

顔をそむけ、目をそらし、 

あなたと私、見て見ぬ振りをするの?

 

世界は遷ろう 鼻水たらし、飢えた小さな子が、北風すさむストリートで遊んでいる 

ゲットーのストリートで 

 

空腹も限界に達し、街をうろつき始め 

盗みを知り、喧嘩を覚える 

ゲットーの片隅で 

 

自暴自棄になったある夜 

若き男はキレた 銃を買い、車を盗み 逃げようとしたが、逃げ切れなかった そして、母親は泣く 

 

怒れる心荒んだ若者の周りに人垣ができた 

地に横たわった彼の手には銃が 

ゲットーのストリートの一風景 

 

こうして母親の息子は、シカゴの冷たく暗い朝、死んでいった 

だが一方で、ゲットーでは、また小さなベイビーが生まれてくる 

そして、涙にくれる母親がまたひとり 

 

(訳詞・大意・ザ・ソウル・サーチャー) 

 

ウィザースは不満をぶちまける。

 

 「彼らは僕に、(バックに)かわいい女の子のコーラスをいれて、ブラス・セクションもいれろ」と言ったり、「イントロは何秒だ? 曲にイントロをつけろ」と言ったりしてきたという。「冗談じゃない。そんなのは僕の音楽じゃない。イントロなんて、僕の曲には別に必要ない。『エイント・ノー・サンシャイン』なんて、歌いだして始めるんだから」 

 

1970年代後期は、映画『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』(1977年)の世界的大ヒットによって、音楽業界が「ディスコ一色」になっていた時期でもある。レコード会社はアップテンポでダンサブルな曲をアーティストに録音させようと躍起になった。バック・コーラスをいれ、ブラス・セクションをいれる派手なディスコ曲、そうしたものをレコード会社は求めた。しかし、ウィザースの作る曲は、歌詞が重要であり、ダンス・ミュージック、ディスコではなかった。彼自身「ディスコ的な作品」を作るつもりは毛頭なかった。 

 

「僕はエンタテイナーになりたいなんて思わない。ステージにあがって拍手をもらいたいとも思わないんだよ。もっとも避けたかったことがステージでダンスをすることだ(苦笑)。 僕は、なによりもソングライターだと思っている。僕の収入のほとんどは楽曲の使用料(印税)からでライヴ・ツアーをしてのものではない。毎晩、全米中を旅してまわっていたら、子供をきちんと育てられないとも思っていた。そして、ソングライターの仕事と言うのは家のトイレで、トイレット・ペーパーにでも書き散らしてもできることなんだ」 

 

ウィザースが歌う歌は、自分自身の生活半径5メートルくらいのものだ。5メートルが極端であれば、彼の身近な人々に起こることを彼のヴォキャブラリー(語彙)で歌詞・物語にしていく。 

 

たしかに、「イン・ザ・ゲットー」はすばらしい曲だが、ウィザースの生活とはあまりに接点はなかった。ウィザースは貧しい田舎街の生まれ育ちで、都会のゲットーのような所で生活はしていなかった。貧しくても、お互い助け合う(lean on everybody)、そんな温かい土地に住んでいたのだ。 

 

16.衝突。 

 

没連絡。 

 

A&Rディレクターとアーティストは、通常は連絡を密に取り、次の作品をどのようなものにしようか、どんな楽曲をどのミュージシャンと録音しようか、アルバムのコンセプトはどうすrか、ツアーはどうするか、宣伝をどのようにするかなど話し合う。小説の世界で言えば、作家と編集者という立場に相当する。 

 

しかし、あるとき、ウィザースからアイクナーに電話をすると、まったく折り返しの電話がなかった。何度かかけても、電話に出ることもなくなり、返事はまったく来ないで、結局2年以上電話で話すことさえできなかったという。 

 

こんな調子だったら、ビルでなくても激怒し、どんなシンガーもコロンビアではもうアルバムは作るまい、と思うことだろう。それにしても、2年も自分の担当と電話でさえ話せないのに、ウィザースはよく我慢したものだ。 

 

実際、ビルは1975年から78年まで4枚のアルバムを出したが、アイクナーの担当になり、アルバムが出なくなる。その間、7年の長きにおよぶ。

 

ウィザースが振り返る。「もう(契約だけに)縛られているような、閉じ込められている感じになってね。『もうたくさんだ』と思った。彼(アイクナー)は何もブラック・ミュージックのことなどわからずに僕を葬り去ろうとしていたからね。とても不愉快だった。だから、以来レコード会社とはどことも契約していない」 

 

ビル・ウィザースはそんな彼にいいように振り回されてしまったわけだ。

 

アイクナーにビル・ウィザースが生きてきた人生の歩みなどは、到底わかろうはずもない。1980年代にレコード会社が、「産業ロック」「産業ジャズ」など数を売る巨大産業になり、「売れること至上主義」となった弊害が如実にここにでたのかもしれない。また、単に本当にビルの音楽に興味がなかったのかもしれない。レコード会社はなぜ担当を変えたりしなかったのだろう。ちょっと不思議だ。 

 

17. 空白のとき。 

 

音楽仲間。 

 

1978年の『‘バウト・ラヴ』以降、ディレクターと連絡が取れなくなったビル・ウィザースだったが、ミュージシャン仲間の間では十分にリスペクトされていた。 

 

1980年、彼のもとにジャズ界のアーティスト2人から声がかかる。1人がクルセイダーズのジョー・サンプル、もう1人がラルフ・マクドナルドだ。 

 

 (ジョー・サンプル) 

 

ちょうどジョー・サンプルがクルセイダーズの次のアルバム用に作った「ソウル・シャドウズ」という曲のヴォーカルを探していて、ビル・ウィザースに白羽の矢が立った。 

 

「ソウル・シャドウズ」の歌詞は1978年以来ジョーと一緒に仕事をしている職業作詞家のウィル・ジェニングスが書いている。ジョーとウィルはB.B.キングの『ミッドナイト・ビリーヴァ―』(1978年)のアルバムを一緒に作り、その後、クルセイダーズの「ストリート・ライフ」(1979年)を共作し、さらに、ランディー・クロフォードなどが歌う「ワン・デイ・ウィル・フライ・アウェイ」(1980年)を作る。そして、ウィルはのちに映画『タイタニック』のテーマ「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」ではアカデミー賞を獲得。また、エリック・クラプトンの「ティアーズ・イン・ヘヴン」も彼の作詞だ。

 

ジョーからこんな曲をレコーディングしないかと誘われて、ビルがスタジオに行き、録音した。ジョーによれば、「ファースト・テイクで文句なしだったよ。だけど、ビルが『もう一度やらせてくれ』ってせがむんで、もう一度やらせた。そうしたら、『もう一回』と。何度かやったんだよね。2時間ほどでビルは帰っていったが、翌日プレイバックを電話越しに聴いたビルは、『なんであんなに何度もやらせたんだ』って言うんだ。(笑) 『いや、私たちはファースト・テイクで十分だって何度も言ったよ』って言い返したよ」と笑う。 

 

この曲のコンセプトは、ジョー・サンプルが偉大な先達に敬意を表明するというもの。そうしたコンセプトをウィルに話し、ウィルが歌詞を書き、ジョーが曲を書いた。クルセイダーズの1980年6月発売のアルバム『ラプソディー・アンド・ブルーズ』に収録されている。「ソウル・シャドウズ」は1980年8月からソウル・チャート入りし、最高位41位を記録する。

 

クルセイダーズ ラプソディー&ブルーズ 

 

ちなみに、この中にでてくる「スーパー・チーフ」はシカゴからロスまで行く大陸横断列車のことだ。ジョーの父親は、この「スーパー・チーフ」ではないかもしれないが、こうした大陸横断列車のシェフだった。ジョーの父はニューオーリンズからロスアンジェルスに向かう「サンセット・ルート」だったかもしれない。いずれにせよ、ここにも、ジョー・サンプルの思いが込められていた。 

 

この「ソウル・シャドウズ」はアルバム『ラプソディー・アンド・ブルーズ』に収録される。 

 

Rhapsody And Blues 

クルセイダーズ 

https://amzn.to/2xlOMR3

 

Soul Shadows – Crusaders ftg Bill Withers (1980) 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=x_ShHW5iKlY

 

18.ソウルの面影。 

 

面影。 

 

「ソウル・シャドウズ」(ジョー・サンプル作曲、ウィル・ジェニングス作詞) 演奏=クルセイダーズ・歌=ビル・ウィザース 

 

サンフランシスコにきーんとした冷たい朝が訪れる 

目覚めているのか、夢うつつかぼんやりしている 

シカゴからロスへ向かう「スーパー・チーフ」(*)で車窓をともにしたファッツ・ウォーラーが言った 

「俺の音楽は本物だ。それ以外はまがいものだ」 

彼がプレイすると、彼のソウルは残り香を漂わせた 彼は僕の心の奥深くソウルの面影(Soul Shadows)を残していった 

 

霧が忍び込む窓辺に佇むと、はるかかなたの音楽が聞こえてくる

ジェリー・ロール・モートン(*)がルイジアナのストーリーヴィルでピアノを奏でている 

サッチモ(*)がシカゴでむせび泣いている 

コルトレーン(*)は心の叫びを音に託していた 

彼らのソウルはこの空気の中に漂っていく 

彼らは僕の心の奥深くソウルの面影を残していった、ソウル・シャドウズを 

 

【註】 

 

スーパー・チーフ Super Chief は、1936年から1971年までアチソン・トピカ&サンタフェ鉄道(AT&SF)がシカゴとロスアンジェルス間に運行していた大陸横断の旅客列車。 

 

(スーパーチーフ) 

 

ファッツ・ウォーラー (1904年5月21日~1943年12月15日)。ニューヨーク出身のジャズ・ピアニスト、オルガン、キーボード奏者、作曲家。代表曲に「エイント・ミスビヘイヴィン」、「ハニーサックル・ローズ」など。 

 

 (ファッツ・ウォーラー) 

 

ジェリー・ロール・モートン (1890年10月20日~1941年7月10日) ニューオーリンズ出身のラグタイムのピアニストとしてよく知られる。1915年の「ジェリー・ロール・ブルーズ」、「キング・ポーター・ストンプ」などが知られる。 

 

 (ジェリー・ロール・モートン) 

 

サッチモ=ルイス・アームストロング(日本ではルイ・アームストロングの表記が一般的)(1901年8月4日~1971年7月6日) ニューオーリンズ出身のトランペット奏者、作曲家、ヴォーカル。愛称、サッチモ。「ホワット・ア・ワンダフル・ワールド」が1967年に大ヒット。 

 

 (ルイ[ス]・アームストロング) 

 

コルトレーン=ジョン・コルトレーン (1926年9月23日~1967年7月17日)ノース・キャロライナ州出身のジャズ・サックス奏者。ビバップ、ハードバップ、モードなどからフリー・ジャズまで常に新しい波をクリエイトしてきた。マイルス・デイヴィス、セロニアス・モンクらとの共演も。 

 

 (ジョン・コルトレーン) 

 

SOUL SHADOWS Music Written by Joe Sample Lyrics by Will Jennings Performed by Crusaders Sung by Bill Withers 

 

San Francisco morning coming clear and cold 

Don't know if I'm waking or I'm dreaming 

Riding with Fats Waller on the Super Chief 

He said, musics real, the rest is seeming 

 

Oh, deep pain 

Feeling that won't go away 

There's the sound of his soul in the air 

I can hear it up there And I know he left those soul shadows On my mind, on my mind, on my mind 

 

Soul shadows on my mind On my mind, on my mind,

 Soul shadows on my mind On my mind, on my mind 

 

Standing by the window as a fog rolls in 

I swear I can hear a far-off music 

Jelly Roll is playing down in Storyville 

And Satchmo is wailing in Chicago 

You ought to heard 'em play 

Feelings that won't go away 

Left the sound of their souls in the air I hear out there and I know 

 

They left them soul shadows all on my mind On my mind, on my mind They left them soul shadows all on my mind On my mind, on my mind 

They left soul shadows on my mind They left them shadows on my mind They left them soul shadows on my mind ~~~~ 

 

19. 一枚のポスター。 

 

ポスター。 

 

パーカッション奏者として日々レコーディング・スタジオで仕事をしていたラルフ・マクドナルドがニューヨークのとあるスタジオでセッションをしていた時、その壁に一枚のポスターが貼ってあったのを見かけた。それは、カリブ海のふたつの島の観光宣伝ポスターだった。二島はそれほど経済的に裕福ではなく各島は観光宣伝予算もなかった。そこで地理的な関係から両島は手を組んで観光客を誘致しなければならなかったために、一枚のポスターで二つの島の宣伝をしていたのだ。 

 

 (トリニダッドとトバゴの環境客誘致ポスター) 

 

そして、そのポスターのコピーがしゃれていた。それが「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス・・・アンド・ユー」(我々二島だけで、あなたと)という言葉だった。このキャッチコピーにぴんと来たマクドナルドはすぐに1曲書き始めた。カリブ調の音を使い、「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」を男女の恋人たちに変えて、ラヴソングに仕立て上げようとした。いつも一緒にやっているベース奏者、ウィリアム・ソルターと曲の骨格を作った。歌詞の部分はざっと作り、タイトルは「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」にした。 

 

 (ラルフ・マクドナルド) 

 

さっそく、ラルフは親友のビル・ウィザースに連絡し、「こんど書いた曲をグローヴァー・ワシントンにやってもらおうと思ってるんだが、歌ってくれないか」と誘った。 

 

(グローヴァ―・ワシントン・ジュニア) 

 

ラフなデモ・テープを聴いたビルは、「わかったいいよ。でも、ちょっと歌詞を『ドレスアップ』してもいいかな」と答えた。どうやらビルの言葉使いのセンスとこの歌詞が少しばかり趣味が違ったようなのだ。

 

 ビルは「僕は言葉使いには『スノッブ』(気取ってる)なんでね。で、少し歌詞を変えた。たしか、『クリスタル・レインドロップス』のあたりは、僕が変えた。最初のワード(歌詞)がなんだったか覚えてないんだが、そこは変えたことを覚えている」と振り返る。 

 

「ただ、ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス(私たち二人)~~~」なんて歌は歌いたくなかったんだ」とビル。 

 

歌詞カードの中で、この「クリスタル・レインドロップス」はものすごく人を引き付けるキャッチ―なワードだ。これをビル・ウィザース本人のアイデアだったとは。ほかの歌詞はだいたい出来上がっていたというから、ひじょうにいいワード(単語)をここにいれたことになる。 

 

トラックは、カリブ風の音を出そうと、スチール・ドラムスをロバート・グリニッジに頼んだ。

 

グローヴァーはそれまでほとんどインストゥルメンタルだけでレコードを発表していたが、ここでビル・ウィザースをヴォーカルに起用した作品を録音することになる。 ビルによれば、グローヴァーに会ったのはレコーディングのときが初めてだという。ただし、それまでもちろん、グローヴァーのことは知っていた。ビルの「エイント・ノー・サンシャイン」などをいち早くカヴァーしていたのがグローヴァー・ワシントンその人だったからだ。 こうして、この曲は1980年10月にエレクトラ・レコードから発売されたグローヴァー・ワシントンの『ワインライト』というアルバムに7分23秒のヴァージョンが収められた。 

 

 (グローヴァ―・ワシントン・ジュニア『ワインライト』1980年) 

 

(明日に続く)

 

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■ビル・ウィザース物語(パート4)~炭鉱の町からハリウッド・ヒルまで

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■ビル・ウィザース物語(パート4)~炭鉱の町からハリウッド・ヒルまで 

 

シンガー・ソングライター、ビル・ウィザースが2020年3月30日に81歳で死去しました。その訃報などを当初はツイッターなどで連投し、さらに4月5日付けブログから8回にわたっていろいろと投稿しました。それらのビル・ウィザース関連原稿を大幅に加筆修正しまとめて、このノートに『ビル・ウィザース物語~炭鉱の街からハリウッド・ヒルまで』として2回に分けて掲載します。これはその4回目(最終回)です。

 

1回目(パート1)は、こちらです→https://note.com/ebs/n/nfada9bf816d2

 

ビルの訃報は日本時間の2020年4月3日(金)夜に流れました。僕のツイッターでは3日の23時43分に一報を流し以後いくつも情報を出し、4日以降、日本でも、また世界でも一斉に追悼モードとなりました。「ソウル・サーチン・ブログ」5日付けのブログで少しまとめ、以後、ビル関連の記事を結局トータル8本紹介したのでひとつにまとめました。特に評伝はかなり加筆しました。ゆっくりお楽しみください。

 

また、本物語と同時に2020年6月、東京FM系のJFN系24局ネットで放送される『アイ・ガット・リズム I Got Rhythm』(基本25分or30分x5回)で吉岡正晴が『ビル・ウィザース物語』を担当することになりました。6月2日FM新潟を皮切りに全国24局のFM局で放送されています。

 

放送日・日時など一覧にまとめました。

 

番組ホームページ『I Got Rhythm 音楽が生まれる時』(#62~#66)
https://park.gsj.mobi/program/show/43952
(5日前後に更新の予定です)

 

ラジオ番組は、いずれもラジコ(ラジオのインターネット配信サーヴィス。パソコン、スマートホンなどで聴取ができる)のタイムフリー、エリアフリー(有料)で全国どこからでも聴取可能です。

 

ラジコ
http://radiko.jp/
(エリアフリーなどの契約もこちらでできます。月額350円+税で全国の地上波FM局が聴取可能になります)

 

またこのほか、ウィズ・レイディオというアプリを使うと全国の主なFM局の番組を無料で聴けます。これでも聴取可です。ウィズレイディオについてはこちらからどうぞ。

https://www.wizradio.jp/

 

初回放送は、2020年6月2日(火)午前11時半からのFM新潟でした。その後6月5日から7日の週末に初回がオンエアされます。

 

皆様お住まいの各地のFM局をお探しの上、お聞きいただければ幸いです。また、お住まいの地域に放送される局がなくてもいずれのラジコ・エリアフリー、タイムフリー(お住まいの地区以外のFMを聴くにはラジコの会員になる必要があります)のサーヴィスで聴取可能です。

 

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放送日、各放送局は次の通りです。いずれも2020年。例えば6/7は6月7日。放送日の早い順に並べました。番組名は『I Got Rhythm』。25分番組として放送する局と30分番組として放送する局があります。できれば、30分番組をお聞きいただけると幸いです。30分局に★をつけました。

 

【2020年6月2日火曜・初回放送(基本は以降同曜日同時間に放送】

 

FM新潟 11:30~11:55(火)6/2~再放送6/6(土)21:30~55
https://www.fmniigata.com/
(以降毎週火曜午前11時30分~、再放送毎週土曜21時30分~)

 

【2020年6月5日金曜・初回放送】

 

福島エフエム 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)
https://www.fmf.co.jp/pc2/
FM群馬 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)
https://www.fmgunma.com/fmg863/
FM熊本 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)※6/5~
https://fmk.fm/

 

【2020年6月6日土曜・初回放送】

 

★FM長野 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 5:00~5:30(土)
http://www.fmnagano.co.jp/
★FM大分 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 7:30~8:00(土)
http://www.fmoita.co.jp/
FM山口 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)
http://www.fmy.co.jp/
FM佐賀 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)
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★FM福井 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 12:25~12:55(土)
https://www.fmfukui.jp/docs/
FM高知 (Hisix) 6/6 12:30~12:55(土)※第1週のみ
   6/25 20:30~20:55(木)最終週のみ?
http://www.fmkochi.com/
FM広島 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)
http://hfm.jp/
仙台 Date FM 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)
http://771.fm/smp/
★FM長崎 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:00~20:30(土)
https://www.fmnagasaki.co.jp/
★FM香川 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:25~20:55(土)
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★FM宮崎(JOY FM) 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 27:30~28:00(土)
http://www.joyfm.co.jp/

 

【2020年6月7日日曜・初回放送】

 

★FM徳島 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 6:00~6:30(日)
https://fm807.jp/
★FM岩手 6/7、6/21、7/5 8:00~8:30(日)※第1、3、5週 のみ放送
http://www.fmii.co.jp/
★FM石川 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 8:00~8:30(日)
https://hellofive.jp/
★FM山形 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 9:00~9:30(日)
http://www.rfm.co.jp/
FM鹿児島 6/7、6/21 9:30~9:55(日)※第1、3週のみ放送
https://www.myufm.jp/
三重(レディオ・キューブ) 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 18:30~18:55(日)
http://fmmie.jp/
★栃木 Radio Berry 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 19:00~19:30(日)
http://www.berry.co.jp/
★FM山陰 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 24:00~24:30(日)
http://www.fm-sanin.co.jp/
★FM大阪 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 27:30~28:00(日)
http://www.fmosaka.net/

 

全24局ネット。各局のエリアフリー、タイムフリーで何度でも聴取可能です。

 

ちなみに、一番最初に放送されたFM新潟(6月2日11時半~)のものは、エリアフリー、タイムフリーですでに聴取可能です。契約者の方は、こちらで聴取可。
http://radiko.jp/#!/ts/FMNIIGATA/20200602113000

 

~~~~~

 

■ビル・ウィザース物語(パート4)~炭鉱の町からハリウッド・ヒルまで 

 

20. ゲスト・ヴォーカルで大ヒット

 

最大。

 

ジャズ・アーティストはあまりシングル・カットをして、ヒットを狙いに行かない。アルバムで売っていこうとするからだ。ただこのグローヴァー・ワシントンはそれまでも一応アルバムから何かしらのシングルをだしていた。特に「ミスター・マジック」(1975年)はインストながらソウル・チャートでも大ヒットしていた。ちなみに、この「ミスター・マジック」もグローヴァー、ラルフ、ウィリアムのトリオで書いたヒットだった。

 

この『ワインライト』からは、「レット・イット・フロウ」が最初のシングルとしてアルバムとほぼ同時期の1980年10月に出た。このシングルのB面はアルバム・タイトル曲「ワインライト」だった。これは小ヒットにはなるが、アルバムに収録され、ビル・ウィザースが歌う「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」を徐々にラジオDJたちがかけるようになる。

 

そして、これが人気となり、その人気を背景に翌1980年1月にラジオ向けに3分余に短くなったシングル盤が作られカットされた。

 

そしてこれはまたたくまに、ジャズ・フィールドだけでなくあらゆるラジオ・フォーマットでヒット。ソウル、R&Bで3位、はてはポップ部門でも2位を記録するヒットになり、グローヴァーにとっても最大のヒットに、また、ビルにとっても久々の大ヒットとなった。

 

21.邦題。

 

クリスタル。

 

この曲の日本の発売元レコード会社ワーナーパイオニアの担当者、田中さんは、「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」に邦題を付けた。それが、「クリスタルの恋人たち」だ。ちょうど、この頃、1980年、新人作家・田中康夫氏(のちに長野県知事)がデビュー小説「なんとなく、クリスタル」を発表し、1981年にはその単行本を大ヒットさせ、「クリスタル族」などの流行語になっていた。そこで、この「ジャスト…」にも、「クリスタル」という単語がでてくること、ジャケットがおしゃれなワインの写真ということで、「クリスタルの恋人たち」というタイトルになったのだ。1981年のことである。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース 書影 なんとなく、クリスタル

DVD スクショ ビル・ウィザース アー写 グローヴァーワシントン・ジュニア 邦題シングル盤ジャケ

 

カリブ海に浮かぶ小さな島二つが一緒に宣伝をしたポスターからヒントを得て生まれたヒット曲、そして、ビル・ウィザースの言葉のセンスから埋め込まれた「クリスタル・レインドロップス」という単語。その単語を邦題に取り入れキャッチ―な響きを生み出したこと。全米のヒットとともに、日本でも折からのカフェ・バー・ブームなどとともにおしゃれな若者たちの間で人気となった。

 

そして、この「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」は翌1982年のグラミー賞で「ベスト・ジャズ・フュージョン・パフォーマンス・ヴォーカル・オア・インストゥルメンタル」部門を獲得。ビルにとっては、「エイント・ノー・サンシャイン」に続くふたつめのグラミーとなった。

 

その時のパフォーマンスがこれだ。

 

https://www.youtube.com/watch?v=m0MzYc1IZow

 

日本では久保田利伸がイギリスのキャロン・ウィラーとデュエットしヒットさせている。

 

Winelight インポート
グローバー・ワシントンJr.
https://amzn.to/2VnShib
 

「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」(クリスタルの恋人たち)

「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」
サックス・グローヴァー・ワシントン・ジュニア
歌・ビル・ウィザース、

 

瞼(まぶた)に映る天から降り注ぐクリスタルの雨粒
日差しのかなたから見える煌めく その雨粒の美しいことよ
時に君に想いを寄せれば、心に広がる七色の虹
君とともに時を過ごしたい

君と二人だけで
君が望めば、二人きりになれる
君と二人きりに
僕たちが望めば、天空に夢の城を作ることだってできる
君と僕と、二人きりで

 

僕たちが愛を求めれば、涙はいらない
涙とは命なき水
命なき水から花は育たない

待ち望む者には訪れる幸運
だが、待ちすぎる者には傍らを過ぎ去る幸運
だから、僕たちは全力で幸運をつかみに行かなければならない

 

君と二人だけで
君が望めば、二人きりになれる
君と二人きりに
僕たちが望めば、天空に夢の城を作ることだってできる
君と僕と、二人きりで

かすかに聞こえる回廊の窓に落ちるクリスタルの雨粒の調べ
雨粒が朝露に変わり、夜が明け、太陽が微笑む時、
君と一緒にいたい
君と二人きりで

 

(大意・訳詞・ザ・ソウル・サーチャー)

 

Just The Two Of Us
By Grover Washington, Junior
(Written By Ralph MacDonald, William Salter, Bill Withers)

 

I see the crystal raindrops fall
And see the beauty of it all
Is when the sun comes shining through
To make those rainbows in my mind
When I think of you some time
And I want to spend some time with you

Just the two of us
We can make it if we try
Just the two of us
Just the two of us
Building castles in the sky
Just the two of us
You and I

We look for love, no time for tears
Wasted waters’s all that is
And it don’t make no flowers grow
Good things might come to those who wait
Not to those who wait too late
We got to go for all we know

Just the two of us
We can make it if we try
Just the two of us
Just the two of us
Building castles in the sky
Just the two of us
You and I

I hear the crystal raindrops fall
On the window down the hall
And it becomes the morning dew
Darling, when the morning comes
And I see the morning sun
I want to be the one with you

Just the two of us
We can make it if we try
Just the two of us
Just the two of us
Building big castles way on high
Just the two of us
You and I

 

~~~~~


スタジオ仕事。

 

そして、ビル・ウィザースは1982年、こんな珍しいプロジェクトにもかかわっていた。フランスのフランソワ・アルディーやジョニー・ハリデイなどに曲を提供してきた有名プロデューサー、ソングライター、ミシェル・ベルジェが、鳴り物入りでアメリカ進出を狙ったミュージカル、ロック・オペラといえる『ドリームズ・イン・ストーン』のサントラで1曲歌うことになった。これはLAの一流どころのミュージシャンを起用し、アメリカで興行しその後、フランスにもっていこうというものだったが、企画が途中で頓挫、サントラがなんとかリリースされただけに終わってしまう。その中に、ビルが歌った曲がある。

 

今となっては珍しい一曲なのでご紹介しておこう。あまり、ビル・ウィザースっぽくない曲調だが。

 

Apple Pie – Michel Berger


https://www.youtube.com/watch?v=LrMiiskeTqU

 

なお、ミッシェル・ベルジェは1992年8月2日、心臓発作で44歳の若さで急死している。
 

22.  最後のアルバム

 

引退。

 

ビル・ウィザースは、前作『‘バウト・ラヴ』(1978年)のあと、1980年にクルセイダーズとグローヴァー・ワシントンの作品に客演し、その存在感をアピールしたが、それでも所属レコード会社ではアルバムを作れないでいた。

 

結局、それから5年、ウィザースはなんとか1985年にコロンビアでアルバム『ウォッチング・ユー・ウォッチング・ミー』を出すが、契約を打ち切り、音楽業界から引退してしまう。これが彼の最後のアルバムになった。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 ウォッチング・ユー

 

アルバムは全曲ラヴ・ソングで、ウィザースらしさというのがそれほど顕著ではないのだが、さまざまな問題がこのアルバム制作中に降り注いでいたのかもしれない。このアルバム・クレジットに、しかし、ウィザースは「スペシャル・サンクス・トゥ:」として何人かの人々と並列して天敵ミッキー・アイクナーの名前もいれてある。

 

このアルバムは7年ぶりのアルバムということで若干話題にはなったが、ポップ・アルバム・チャートで143位、ソウル・アルバム・チャートで42位と振るわなかった。

 

ウィザースの実質的引退は大きなニュースになることもなく、いつのまにか「彼の新譜がでなくなったね」「ビル・ウィザースはどこへ行った?」程度の認識しか残さなかった。

 

それにしても、たった一人のA&Rマンのために、一人の才能あふれるシンガー・ソングライターが筆を折る、いやギターを折る、とでもいうのか、音楽業界を辞めてしまうというのは、今から考えると本当に残念であり、悔しくもある。

 

彼のベストアルバム『ザ・ベスト・オブ・ビル・ウィザース~リーン・オン・ミー』(ソニー、SRCS 9814、2000年9月日本発売)にデイヴィッド・リッツが書いたひじょうに素晴らしいライナーノーツがあり、そこに彼がなぜ歌うのを止めたかが書かれている。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 ベスト 2000年

 

一言で言えば、「クレイジーな音楽業界にすっかり嫌気がさした。嘘で固められた業界から足を洗いたい」ということだった。彼は1970年から1977年までの激動の8年余を、「時代を映した小さな窓」と呼ぶ。

 

ビルは、ウェスト・ヴァージニア州スラブ・フォークという素朴な田舎街に生まれ、純情に育ったひじょうに繊細な男だ。大都会の空気にはなじめなかったのだろう。また、彼はデビューする前に克服しているが吃音(きつおん=どもりのこと)が常に心の悩みだった。そのことを馬鹿にされ、引きこもりぎみになったこともある。しかし、「自分を馬鹿にするような連中よりも、自分には言葉の使い方に才能があることを悟った」のだ。

 

ウィザースはそれまでに出した作品の印税である程度の安定した生活は送れるようになっていた。時間があれば、DIY(ドゥ・イット・ユアセルフ)で、家庭大工に没頭した。家庭内で「歌うカーペンター(大工さん)」になった。

 

ただ、彼は自宅に豪華な録音スタジオを構え、いつでも曲を書き、録音できるようにしている。音楽業界からは引退したが、音楽を辞めたわけでは決してなかった。

 

そして、アーティスト・ビル・ウィザースはまた予期せぬところから復活するのだ。

 

23. クラブ・ヌーヴォーのカヴァー

 

カヴァー。

 

1986年、サンフランシスコのディスコ・プロデューサー、ジェイ・キングがビル・ウィザースの「リーン・オン・ミー」をディスコ調にアレンジしてカヴァーするのだ。グループ名はクラブ・ヌーヴォー。そして、これが1987年2月から見事に大ヒット。ビルボード・ホット100では1位、ダンス・チャート1位、ブラック・チャート2位というオリジナルをしのぐゴールド・シングルになるほどのベスト・セラーになり、さらに、これで3つ目のグラミーを獲得。その作者ビル・ウィザースにも脚光が再度浴びることになったのである。業界を引退した身にとって嬉しくもあり、歯がゆくもあった。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 クラブヌーヴォー リーンオンミー

 

オリジナルが出た直後もカヴァーはあったが、このクラブ・ヌーヴォーの大ヒットでさらにカヴァーが増え、ビル・ウィザースにとっては印税生活が潤うことになった。

 

それにしても、ビルが嫌ったディスコ・サウンドで自身の曲がアレンジされ、それが大ヒットし彼に再注目が集まる。まさに歴史の皮肉だ。

 

ビル・ウィザースの楽曲は多くの映画、テレビなどにも使われているが、1989年には『リーン・オン・ミー(邦題、ワイルド・チェンジ)』と題された映画のテーマ曲となった。モーガン・フリーマンが都市の荒廃した学校を校長となって立て直す物語だ。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース ポスター 映画 リーンオンミー

https://www.youtube.com/watch?v=8VmRNr9QbxQ&feature=youtu.be

 

ほかに1992年のホイットニー・ヒューストン、ケヴィン・コスナー主演の『ボディーガード』では、「ラヴリー・デイ」(ソウル・システム)がカヴァーされた。

 

そしてなにより多くのヒップ・ホップ系アーティストたちが、ウィザースの作品をさかんにサンプリングするようになり、彼の作品が若い世代に新たに浸透するようになった。

 

たとえば、「グランドマズ・ハンズ」は、ブラックストリート・フィーチャリング・ドクター・ドレ&クイーン・ペンの「ノー・ディギティ」(1996年)ほか30曲以上で、「ユーズ・ミー」は、ケンドリック・ラマ―の「シング・アバウト・ミー、アイム・ダイング・オブ・サースト」(2012年)ほか70曲以上で、「キッシング・マイ・ラヴ」はドクター・ドレ・フィーチャリング・スヌープ・ドッグらの「レット・ミー・ライド」(1992年)ほか170曲以上で、「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス」はエミネムやウィル・スミスのカヴァー/サンプリングほか80以上の曲で使われている。もっとも多く使われているのは、「エイント・ノー・サンシャイン」で200曲以上に使われているほどだ。

 

またドキュメンタリー映画にもいくつか顔をだしている。先に述べたが、2008年公開の『ソウル・パワー』(1974年のザイール・キンシャサでのモハメド・アリの戦いのドキュメンタリー)、2009年公開の『スティル・ビル』、古いものでは1972年の『セイヴ・ザ・チルドレン』などにも出ている。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース 映画ソウルパワー ジャケ写

 

ビルを描いたドキュメンタリー『スティル・ビル』の中では、なんとラウル・ミドンを招いて2人で新曲を録音している。また娘のコーキーともコラボしている。音楽の制作意欲は旺盛だ。

 

2009年のドキュメンタリー『スティル・ビル』(76分)ではほんとに朴訥としたナイスガイが映し出される。ラウル・ミドンとも共演。


DVD(リージョン1=リージョン・フリー再生機が必要です)

 

DVD スクショ ビル・ウィザース ジャケ写 DVD スティルビル

https://amzn.to/2X4HAmZ 

ユーチューブで見られます

 

Still Bill - The Bill Withers Story (BBC)Still Bill is a 2009 documentary film about musician Bill Witwww.youtube.com


https://www.youtube.com/watch?time_continue=463&v=S0thRH4qucU&feature=emb_logo

 

 

 

盟友ジェームス・ギャドソンはデビュー前からの友人。2枚目のアルバムからのつきあい。ライヴもだいたい彼がたたく。この映像にもジェームスの姿が映る。

 

また、この『スティル・ビル』の公開とときを同じくして、ビル・ウィザース作品がCD化され、それにともないウィザースのインタヴューが各媒体に掲載されるようになった。

 

24. ロックンロール・ホール・オブ・フェイム(ロック殿堂)

 

殿堂。

 

2015年4月18日、オハイオ州クリーヴランドのロック殿堂ホール。この日、ビル・ウィザースはポール・バターフィールド・ブルーズ・バンド、グリーン・デイ、ジョーン・ジェット、ルー・リード、スティーヴィー・レイ・ヴォーンらと並んでロック殿堂入りを果たした。ビル・ウィザースはこの年初めてノミネートされいきなりの殿堂入りだ。

 

ウィザースはスティーヴィー・ワンダーの紹介でその殿堂入りを紹介され、壇上でスピーチを行った。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース ロック殿堂2 スティーヴィーと

(ロック殿堂授与式で、左・スティーヴィー・ワンダー、右・ビル・ウィザース)

 

ビル・ウィザースは改めて予定されていた原稿がテレプロンプター(スピーチなどの原稿が映し出される装置。演者がそれを声に出して読む)に映し出されると、「ちょっとプロンプターを止めてくれ。台本と違うことをしゃべるから」と言った。すると、スティーヴィーが「僕は使わなかったよ」とつっこみをいれ、会場の爆笑を誘った。終始ウイットとユーモアに富んだスピーチを繰り広げた。

 

この13分弱のスピーチで、ウィザースは自分自身のお世話になった人を何人かあげて感謝。アル・ベル、クラレンス・エイヴォント、スキップ・スカーボロー、レイ・ジャクソン、ジェームス・ギャドソン、ブッカーTなど。

 

「エイント・ノー・サンシャイン」が最初はシングルのB面だったことも話している。また、プリンスのバンドに在籍したこともあるウェンディー&リサ・メルヴォインが客席にいて、彼女たちのベイビーシッターをしたという逸話も披露。これは父親マイク・メルヴォインがジャズ・ピアニストでウィザースと友人だったためのようだ。1960年代半ばのこととみられる。

 

その後スティーヴィーがビルを横に従えて「エイント・ノー・サンシャイン」を歌い、さらにジョン・レジェンドが加わり「ユーズ・ミー」に。スティーヴィー、ジョン、そして、ビルで「リーン・オン・ミー」が歌われた。

 

Ain’t No Sunshine – Stevie Wonder side by Bill Withers
Use Me – John Legend & Stevie Wonder
Lean On Me – John Legend & Stevie Wonder

 

一度、スティーヴィーが小さなキーボードで歌い始めるがバックバンドとのキーが違い、「キーが違う」と言ってやり直す。「僕は楽譜を使わないんで」と言って、また会場の笑いを誘った。

 

そして、「リーン・オン・ミー」で横で見ていたビルをジョンがステージセンターに引っ張り出し、一緒に歌った。いずれの曲も観客席が一緒に歌っているようで、アメリカに愛されている作品だということがわかる。

ビル・ウィザースが公式の席上、人前で歌うのは30数年ぶりとみられる。

 

ビル・ウィザースのシーンは12時05分くらいまで続いたので、約30分登場していたことになる。

 

彼が2015年ロック殿堂入りしたニュース。10分余のスピーチ動画も→
https://amba.to/3bI6CfE

 

23.43年ぶりのカーネギー・ホール

 

カーネギー・ホール。

 

2015年7月4日、ビル・ウィザースは77歳になった。そしてこの2015年はいつになくビル・ウィザースにとって輝かしい年になった。4月にロック殿堂入り、そして、10月1日に1973年に自身がステージに立ち2枚組となったアルバムがその後高く評価されたニューヨークのカーネギー・ホールで、若手ミュージシャンたちがビルを称えるトリビュート・コンサートをするというのだ。ビル本人も顔を出したが、ビルがここに立つのはまさに43年ぶり。

 

 

今回のセットリストは、途中の5曲目から18曲目までの「プログラム」が、1972年10月6日にこの同じカーネギー・ホールで行われたライヴ盤のセットリストをそのまま再現。そして、オープニングとアンコールに、そこで歌われていないビル・ウィザースの名曲、主として、1972年、73年以降のウィザースのヒット作品などを配した。

 

このコンサートには、ディアンジェロが登場する予定だったが、急遽体調不良のためドクター・ストップがかかり、出演をキャンセル。Dが歌うとされていた2曲のうち1曲はドクター・ジョンが歌い、もう1曲はカットされた。

 

バンドは、グレッグ・フィリンゲインズが音楽ディレクターとなり、ドラムスにスティーヴ・ジョーダン、ベースにウィリー・ウィークス、ギターにフェリシア・コリンズ、パーカッションにバシリ・ジョンソン、バック・コーラスにシンディー・マイゼル、ビルの娘でありシンガーでもあるコーリー・ウィザースらニューヨーク・ベースの一流ミュージシャンたちが参加。

 

オープニングでは南アフリカ出身のギタリスト/ヴォーカリスト、ジョナサン・バトラーが1977年のウィザースのヒット「ラヴリー・デイ」で登場。

『ライヴ』アルバム再現の冒頭は予定されたディアンジェロに変わりドクター・ジョンがニューオーリンズ風リズムで再現。エド・シーランはギター片手にアコースティック的なサウンドで「エイント・ノー・サンシャイン」を披露した。

 

 

この日もっとも拍手喝采を浴びたのは、アロー・ブラックの「ホープ・シール・ビー・ハピアー」。約7-8割を占める白人のオーディエンスは足を踏み鳴らし、スタンディング・オヴェーションを送った。次のシンガーは相当やりにくかったようだ。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース ポスター カーネギーホールでのトリビュート

 

 

主人公ビル・ウィザースは最後のアンコール部分で登場。さすがに歌わなかったが、簡単にコメント。「今夜5万ドルほど集まったそうだが、私が以前ここでやったときは、その半分ももらえなかった」。「こうした若いアーティストたちが私の名前を知っていることに驚いている」とも付け加えた。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース ライヴ カーネギー グレッグ・フィリンゲインズ

(この日の音楽ディレクター、グレッグ・フィリンゲインズ)

 

ライヴ評、セットリストなど。最後にビル本人もステージにあがった→
https://amba.to/3dRTCpF 

 

このライヴについて→
https://amba.to/39LW8L7

 

ビル語る
◎ビル・ウィザース語る
2014年07月03日(木)→

https://amba.to/2X34dbr

 

24.追悼

 

追悼。

 

ビル・ウィザースの訃報が日本時間金曜(2020年4月3日)深夜に流れてから、SNSのタイムラインは、ウィザースであふれかえった。特にアメリカのファンのウィザースに関するコメントは胸を打つものが多い。

 

僕はウィザースには直接会ったことはないのだが、ドキュメンタリー『スティル・ビル』やその他のインタヴュー、彼を知る人からのいろいろな話で垣間見られる彼の人柄、人となりを見ていると、ウィザースと似たタイプの人たちを何人か思い浮かべた。

 

まずはクルセイダーズのキーボード奏者、ジョー・サンプルだ。話し方や、考え方、哲学、生き方などがとても似たものを感じる。ウィザースはサンプルが書いた「ソウル・シャドウズ」を歌っているが、きっと、二人は意気投合したことだろう。

 

もう一組が同じアパラチア山脈の炭鉱夫を父親に持つウーマック兄弟たちだ。ボビー・ウーマックやセシル・ウーマックらだ。

 

彼らの共通点は、普段は地道に仕事をし、浮かれたことはあまりしないということだ。しっかり地に足をつけ、生きている。

 

ウーマックたちも、ウィザースも、サンプルも、みな1980年代のメジャー・レコード会社で、かなり厳しい扱いを受けていた。そして、それに耐えて、結果、インディに生きる道を求めることなる。ウィザースの場合は、白人A&Rマンと対立し、引退してしまう。レコード会社と対立した大きなアーティストといえば、プリンスもいる。プリンスもウィザースの曲をカヴァーしている。

 

自分の気持ちを音楽に乗せて人々に発表したいという欲求と、その音楽を「商品」としてたくさん売らなければならないメジャーのレコード会社ではどうしても、意識や方法がずれていく。

 

これは、今でもある程度同じだ。今はかなりアーティスト側が主導権を取って、クリエイティヴ・コントロールを獲得することはあっても、衝突は避けられない。

 

ウィザースは引退という道を選んだが、その後、ロック殿堂入りや、若手からのリスペクトでトリビュート・コンサートが行われ、再度注目を集めるようになった。

 

ドキュメンタリー『スティル・ビル』の中で、ラウル・ミドンを自宅スタジオに招いて曲を作っているシーンがあった。あの曲は結局、発表されたのだろうか。同じくそのドキュメンタリーの中で、娘のコーキーとも曲を作っていた。そのあたりも、未発表作品として御蔵入りになるのだろうか。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース アー写 ラウル・ミドン

(ラウル・ミドン)

 

では、ウィザースは、音楽業界の中で意地悪なA&Rディレクターのために引退して「負けて」しまったのか。僕はそうは思わない。クレイジーで、数字だけ見るようになった音楽業界に、逆にウィザースから「さよなら」を言って身を引いたのだ。言ってみれば、音楽業界と僕らリスナーのほうが、ビル・ウィザースの新作を30年以上聞かせてもらえなくなったという意味で、我々の方が「負けた」のである。

 

「ユーズ・ミー」(俺を利用しろ)と歌った彼は、音楽業界に使われてしまったのか。

 

音楽業界は引退したが、音楽の世界にはずっといて、制作意欲は持ち続けた。ミュージック・ビジネスとミュージック・ワールドという二つの世界。ウィザースは、ミュージック・ビジネスの住人にはなれなかっただけだ。

 

25. エピローグ

 

ご褒美。

 

彼が綴れ織る素朴ながら普遍的なメッセージは、今では見られなくなったアメリカの良心だった。そして、この音楽は、ビル・ウィザースというひとりの人間の性格を見事に映し出している。「音楽とは人を映し出す小さな窓」。ビル・ウィザースの作品群はまさに彼と言う人間性を映し出す小さな窓である。

 

芳醇な物語を多く持っているビル・ウィザースの物語は、そのまま一冊の本になるだろう。ライナーノーツを書いていたのが稀代のバイオグラファー(伝記作家)、デイヴィッド・リッツだったので、ビル死去後、彼とは本を書く予定はなかったか、尋ねた。

 

そうしたら、やはりデイヴィッドも何度もその話を誘ったが、ずっと断られてきたという。何か思うことでもあったのだろうか。

 

実はデイヴィッドも、ビル同様吃音の悩みを持つ。二人は吃音仲間としても意気投合できたはずで、デイヴィッドが書けばその伝記はまちがいなくおもしろいものになっただろう。

 

彼の描く小さな窓を、一冊の著作か、映像カメラの小窓で見てみたかった。

 

デビュー時期からの盟友でもあるドラマーのジェームス・ギャドソンは、自身のキャリアの中でビルとの時間を「まちがいなく、私にとって最高の時代だったよ」と称賛を惜しまない。

 

1971年のレコード・デビューから約50年。半世紀。その間に残したアルバムはスタジオ録音が8枚、ライヴ盤が1枚、わずか9枚、その数は100曲ほどだ。その素晴らしい楽曲打率はかなりのものだ。

 

彼の作品はどれも普遍的なものが多く、シンプルでオネスティー(誠実)、いつの時代でも、そしてどのような人種にも、どのような年齢層にも受け入れられる。ついに日本の土を踏むことはなかったウィザースだが、それにしても、果たして未発表曲はどれくらいあるのだろうか。

 

1971年に「エイント・ノー・サンシャイン」が初ヒットとなってから、1985年までわずか14年が実働期間のビル・ウィザース。しかし、それから30年経ってロック殿堂入りを果たし、トリビュート・コンサートがカーネギー・ホールで行われた。

 

殿堂入りのスピーチで、ビル・ウィザースはこう言った。

 

「私の奇妙な人目につかない長い旅には、いいこともあれば、ひどく気分の悪いこともありました。でもいつでもいいことを思い出すようにしています。そう、何がよかったかって? これです。スティーヴィー・ワンダーが私の名前を知ってくれていて、彼が私をロック殿堂入りさせてくれたことです!」

 

こう言って、ビル・ウィザースは「さあ、どうだい」といった面持ちで両手を広げ、スティーヴィーの元に歩み寄った。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース ロック殿堂 さあどうだい

(さあ、どうだい? スティーヴィーが僕に賞をくれるんだよ)

 

埃にまみれ、どんよりとした雲が多い太陽が見えない廃れたスラブ・フォークに生まれ育った黒人で、吃音(どもり)と喘息があり、「障碍者」と呼ばれ、なんの希望もないような一人の男が、詩と歌の才能を開花させ、世界に躍り出て、ヒットを出すようになりスターになった。しかし音楽業界の中で衝突し引退、しかしその後復活し、遂にはスティーヴィー・ワンダーによって殿堂入りをさせてもらう。音楽界にいてこれ以上のアップ・ダウンを経た劇的な名誉はない。これだけでビル・ウィザースの実働14年間、30年におよぶ実質引退は報われたといっていい。見事な真実の瞬間だった。

 

911テロ、大災害、コロナ禍、有事のときに人々を奮い立たせ勇気を与える曲、「リーン・オン・ミー」。あるいは、前向きさを象徴するような「ラヴリー・デイ」。さまざまなヴァリエーションのカヴァーが生まれ、世界各地で歌われる。

 

お互いに寛容となり、自分に頼っていいんだよとやさしさを見せる普遍的な「リーン・オン・ミー」。ビル・ウィザースが亡くなったこの2020年、コロナ禍に覆われた地球という名の惑星に悲しみと絶望にくれる人々に歌いかける作品としてはこれほどのもの、これほどのタイミングはない。

 

Lean On Me - AritstsCan (Official Video)


https://www.youtube.com/watch?v=athd5_CW_z0

 

今回のコロナ禍を受け、カナダのミュージシャン有志が「リーン・オン・ミー」をリモート録音。

 

~~~

 

スラブ・フォークの街を走る線路の果てには、ビル・ウィザースにとっては大きな虹だけでなく、希望に満ち溢れた世界が広がった。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース スラブフォーク列車

 

そしていま、ビル・ウィザースは、ロスアンジェルスの名門墓地、マイケル・ジャクソンやエリザベス・テイラーなど多くのセレブたちも埋葬されているフォーレスト・ローン墓地に静かに眠っている。ハリウッド・ヒルズにある道もきっちり整備され、美しい芝生が太陽の光を受けまぶしい立派な高級墓地だ。もちろん雑草などは生えておらず、墓石も定期的に磨かれている。それは、かつてビルが訪ねたスラブ・フォークの雑草と木が猛然と茂る中にあった兄弟や父親の墓とは格段の差があった。おそらく、フォーレスト・ローンのビル・ウィザースの墓には、毎年命日には多くの家族・親類、そして世界中のファンが訪れることになるだろう。それはビル・ウィザースがスラブ・フォークの線路から無限の世界に羽ばたいた大きなご褒美だ。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース フォーレストローン入口看板

(ハリウッド・ヒルにある広大なフォーレスト・ローン墓地)


(おわり)

 

ENT>MUSIC>ARTIST>Withers, Bill
OBITUARY>Wither, Bill (July 4, 1938 – March 30, 2020 – 81 year old)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

資料:

 

+ビル・ウィザースの各種CDとそのライナーノーツ

+DVD『スティル・ビル』

+ワックスポエティックス(日本版)第3号2009年3月発売号

+ビル・ウィザース:アズ・アイ・アム(2005)ショート・ドキュメンタリー

 

オリジナルCDリスト

(アルバム・タイトル、レーベル、ナンバー、全米発売年月)

 

①   Just As I Am (Sussex 7006, 1971/5)
https://amzn.to/3csrBmR

②   Still Bill (Sussex 7014, 1972/5)
https://amzn.to/3eOUCuw

③  Live At Carnegie Hall (Sussex 7025, 1973/4)
https://amzn.to/305tByL

④  +Justments (Sussex 8032, 1974/3)
https://amzn.to/3gTYewU
(ちなみにタイトルは、アッド・ジャストメンツの表記で、アジャスメンツと読みます)

⑤  Making Music (Columbia 33704, 1975/10)
https://amzn.to/2Xx1gjb

⑥  Naked & Warm (Columbia 34327, 1976/10)
https://amzn.to/2A2xgTc

⑦  Menagerie (Columbia 34903, 1977/10)
https://amzn.to/36ZO2P4

⑧  'Bout Love (Columbia 35596, 1979/2)

⑨  Watching You, Watching Me (Columbia 39887, 1985/5)
https://amzn.to/2MsZdXe

上記9枚をまとめてボックスにしたCD新発売、なんと9枚で5000円少々で入手可。詳細ライナーも。
Complete Sussex and Columbia Album Masters CD, インポート
ビル・ウィザース
https://amzn.to/2MokYaq
(全部持ってるが、ライナー読むためにぽちってしまった)

 

個人的には、最初の2枚が圧倒的にいい出来だと感じている。ライヴも今から思えばなかなかすごいアルバムだ。しかし、5千円少々で9枚手に入るなら、これが手っ取り早い。(笑) ただこれだと、客演の何曲か(「ジャスト・ザ・トゥ・オブ・アス」「ソウル・シャドウズ」などが手に入らないので、そのあたりは、うまくベスト・アルバムで手に入れるしかない。いずれにせよ、ゆっくりビル・ウィザースの旅をお楽しみください。

 

~~~~~~

 

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ビル・ウィザース物語『炭鉱の街からハリウッド・ヒルまで』①→
https://bit.ly/3eNcB4l 
ビル・ウィザース物語『炭鉱の街からハリウッド・ヒルまで』②→
https://note.com/ebs/n/n6fcea949dbcd

 

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ENT>ARTISTS>Wither, Bill

ENT>RADIO>I Got Rhythm>Withers, Bill

 

 

 

『ビル・ウィザース物語』執筆して3つの発見

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『ビル・ウィザース物語』執筆して3つの発見

【Writing “Bill Withers Story” And 3 New Discovery】

発見。

2020年6月2日からJFN系列で放送が始まった『アイ・ガット・リズム 音楽が生まれる時』~ビル・ウィザース物語。今月いっぱい5回にわたって各地のFM局で放送される。

ちょうどビル・ウィザースが死去してブログにいろいろ書いていたら8本くらい記事がでて、その後、これらをベースにまとめた『ビル・ウィザース物語』にしたらおもしろいのではないかと思って書き始め、9割ぐらいできたところで、『アイ・ガット・リズム』のお話が来て、まさに渡りに船とはこういうことかと思った。5月中旬のことだ。

そこでオンエアが6月になるということで6月の初回放送に向けてこの『物語』をアップすることにした。通常のアメブロは使い勝手が悪く、1万字程度しか入らないので、ちょうど5月から試しに始めた「ノート」にアップすることにした。そして無事2回、6月3日と4日にアップ。さすがに各2万字計4万字はちょっとした量なので、読了するにも時間がかかりそうだ。

途中まで書いていて、拙著『ソウル・サーチン』の一章にできるなと思い始めた。『ソウル・サーチン』の書籍が出たのが2000年7月のこと。来月で20周年である。まったく時が経つのは早い。『ソウル・サーチン』が来年でたとしても21年ぶりになるから、スティーヴィー・ワンダーが10年アルバムを出さないことを揶揄できない。(笑)

~~~

3つ。

ビル・ウィザースに関しては2010年頃だったか、ベスト・アルバムが出るときにデイヴィッド・リッツが書いたライナーを訳した。同じころ、ワックスポエティックス誌のインタヴューが出てそれも訳した。そのときにかなりいろいろと情報を知っておもしろかったが、それが骨格にはなっている。

それとDVDの『スティル・ビル』は何度も見て参考にした。

何度も彼の半生を振り返ると、その実働期間の短さが異様に思える。1971年から1985年の14年間。1985年に引退だ。それから今年(2020年)まで35年間はほとんど表舞台に出てこない。しいていえば、2015年の『ロック殿堂』と同年のカーネギー・ホールでのトリビュート・コンサートに顔を出した程度だ。

今回は文字数の関係でビル・ウィザースがヒップホップシーンに与えた影響にあまりフォーカスできなかったが、サンプリングもいろいろとされている。

この2か月ほどビルについていろいろ調べていて大きな発見が3つあった。

一つは番組で紹介し、ブログ/ノートでもユーチューブ映像(音源のみ)をご紹介した彼名義の「スリー・ナイツ&ア・モーニング」だ。1967年にシングル盤がでていることを発見したときも驚いたが、その音源を聞いてたまげた。あの「ハーレム」と同じではないか。
タイトルが違っていたが、歌詞も同じ曲も同じ。ただテンポが違い、ミュージシャン、スタジオのせいか、かなりラフな音作りだった。


Three Nights And A Morning Bill Withers 1967

 


https://www.youtube.com/watch?v=3CyTNBUFJCM

たぶん、1967年だったらせいぜい4チャンネルで録音したのではないだろうか。8チャンネルまであるかどうか。

ミュージシャンが誰か気になるところだが、ジェームス・ギャドソンがこれを叩いているのか彼に直接聞いた。するとかなり驚いた様子で「これは知らなかった。自分ではない」と即答された。まだ彼とビルが知り合う前の曲ということになる。これは番組でも、『物語』でも紹介していないウラネタである。(笑)

そして、もうひとつ驚いたのが、例の「ジャスト・ザ・トゥ・オブ・アス」が生まれたきっかけとなったニューヨークのスタジオに貼られていたというポスターだ。

 



つい先日、第二部をアップするときにいろいろと写真を見繕っているときに、ひょっとして出るかと思って、Just the two of us, poster
で検索したら、かなり下のほうにこれがでてきて、これまたぶったまげた。

おそらく、「そうか、これを見て、ラルフ・マクドナルドはピンときたのか」と感慨深かった。

もちろん、100%同じポスターかどうかまではわからない。なにせ40年も昔のことだ。同じキャッチコピーを使いながら、絵柄だけヴァージョンアップしてるかもしれないし。

だが、この二つの島が一緒に観光客を誘致していたことはまちがいなかった。そして、「ジャスト・ザ・トゥ・オブ・アス」のヒットの原点となったポスターだ。

実際はJust The Two Of Us…And Youというコピーだったが、こんなのがまさか出てくるとは夢にも思わなかったので、とても嬉しかった。

そして3つ目がデイヴィッド・リッツが、やはりビルに自伝・伝記本を書かないかと誘っていて、それが断られていたという話だ。これもデイヴィッドに直接聞いた。ライナーノーツに文章も寄せていたから、伝記を書くなら、彼が最適だと思ったので、ビル本人がまったく出す気がなかったのか、断られたのがひじょうに残念だ。

 


(デイヴィッド・リッツ)


とは言え、伝記ということであれば、デイヴィッドはかなりの素材を持っているので、奥さん、娘さんたちの了解を得れば、マーヴィン・ゲイやアリーサの2冊目のときのように、デイヴィッド・リッツ著で伝記が書かれるかもしれない。そのときは大いに楽しみたい。

~~~

それにしても、このミネアポリス暴動となったジョージ・フロイドさん殺害をきっかけに巻き起こり、再度浮上してきた「ブラック・ライヴズ・マター」の運動の中で、この「リーン・オン・ミー」があちこちで、本当に普通の人たちに歌われている映像がSNSに盛んに投稿されるのは感無量だ。

~~~~~

JFN系列24局ネット『アイ・ガット・リズム 音楽が生まれる時』~ビル・ウィザースの世界、放送日時・放送局は次の通りです。

いずれも2020年。例えば6/7は6月7日。放送日の早い順に並べました。番組名は『I Got Rhythm 音楽が生まれる時』。なお25分番組として放送する局と30分番組として放送する局があります。できれば、30分番組をお聞きいただけると幸いです。30分局に★をつけました。お住まいの地区の放送局があればそちらでお聞きください。すでに放送されたものは、ラジコのタイムフリーで1週間以内聴取可能です。

【2020年6月2日火曜・初回放送(特記ない限り基本は以降同曜日同時間に放送】

FM新潟 11:30~11:55(火)6/2~再放送6/6(土)21:30~55
https://www.fmniigata.com/
(以降毎週火曜午前11時30分~、再放送毎週土曜21時30分~)

【2020年6月5日金曜・初回放送】

福島エフエム 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)
https://www.fmf.co.jp/pc2/
FM群馬 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)
https://www.fmgunma.com/fmg863/
FM熊本 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)※6/5~
https://fmk.fm/

【2020年6月6日土曜・初回放送】

★FM長野 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 5:00~5:30(土)
http://www.fmnagano.co.jp/
★FM大分 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 7:30~8:00(土)
http://www.fmoita.co.jp/
FM山口 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)
http://www.fmy.co.jp/
FM佐賀 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)
http://www.fmsaga.co.jp/
★FM福井 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 12:25~12:55(土)
https://www.fmfukui.jp/docs/
FM高知 (Hisix) 6/6 12:30~12:55(土)※第1週のみ
   6/25 20:30~20:55(木)最終週のみ?
http://www.fmkochi.com/
FM広島 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)
http://hfm.jp/
仙台 Date FM 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)
http://771.fm/smp/
★FM長崎 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:00~20:30(土)
https://www.fmnagasaki.co.jp/
★FM香川 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:25~20:55(土)
https://www.fmkagawa.co.jp/
★FM宮崎(JOY FM) 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 27:30~28:00(土)
http://www.joyfm.co.jp/

【2020年6月7日日曜・初回放送】

★FM徳島 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 6:00~6:30(日)
https://fm807.jp/
★FM岩手 6/7、6/21、7/5 8:00~8:30(日)※第1、3、5週 のみ放送
http://www.fmii.co.jp/
★FM石川 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 8:00~8:30(日)
https://hellofive.jp/
★FM山形 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 9:00~9:30(日)
http://www.rfm.co.jp/
FM鹿児島 6/7、6/21 9:30~9:55(日)※第1、3週のみ放送
https://www.myufm.jp/
三重(レディオ・キューブ) 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 18:30~18:55(日)
http://fmmie.jp/
★栃木 Radio Berry 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 19:00~19:30(日)
http://www.berry.co.jp/
★FM山陰 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 24:00~24:30(日)
http://www.fm-sanin.co.jp/
★FM大阪 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 27:30~28:00(日)
http://www.fmosaka.net/

全24局ネット。各局のエリアフリー、タイムフリーで何度でも聴取可能です。


~~~~~

■5回のテーマ

ここでは、その5回のテーマなどを簡単に紹介しましょう。

1回 ビル・ウィザース『炭鉱の街、スラブ・フォークに生まれて』(6月2日、6月5日~7日放送)(番組通算第62回)
2回 ビル・ウィザース『遅咲きの新人、ブレイクへ』(6月9日、6月12日~14日放送)
3回 ビル・ウィザース『ソングライターとしての匠』(6月16日、6月19日~21日放送)
4回 ビル・ウィザース『客演で光り輝くパフォーマンス』(6月23日、6月26日~28日放送)
5回 ビル・ウィザース『頑固一徹:音楽業界への決別』(6月30日、7月3日~5日放送)

1回目は、主としてビル・ウィザースの簡単なキャリア、出生からデビューまで。
2回目は、「エイント・ノー・サンシャイン」以降、ヒットを連発しブレイクしていく様子を。
3回目は、ビル・ウィザースのソングライターとしての魅力にフォーカスして。
4回目は、ビルが客演した作品のいくつかを。
5回目は、レコード会社と対立し、契約終了とともに音楽業界自体を引退するあたりを描きます。

DVD スクショ ビル・ウィザース スラブフォーク看板 jpeg

いちおう各回単体として独立し、いわゆる「一話完結」方式になっています。

セットリスト(かけた曲リスト)は、全回終了後、BGMも含めてお知らせします。

第一回(通算62回)『炭鉱の街、スラブ・フォークに生まれて』でかけた曲、お話した内容がほぼすべてこちらの番組ホームページに掲載されています。

#62『I got rhythm 音楽が生まれる時』 概要と選曲リスト
2020/6/5 (金)16:30

I Got Rhythm~音楽が生まれる時|#62『I got rhythm 音楽が生まれる時』 概要と選曲リスト |JFN PARK
<番組のトーク・パート(概要)と選曲リスト>  今月は、「ビル・ウィザースの世界」と題して、このコロナ禍でも強力なメッセ
park.gsj.mobi

https://park.gsj.mobi/news/show/67193


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〇 世界に広がる人種差別への平和的抗議運動

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世界に広がる人種差別への平和的抗議運動

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世界に広がる人種差別への平和的抗議運動

本記事は有料設定ですが、このnoteで最後まで無料で読めます。読後、お気に召せば「記事を購入する(今回は100円)」、あるいは、「サポートをする」(金額は自由に設定可)なども可能です。クレジットカード払いか、携帯電話支払いがお選びいただけます。アカウントを作らなくても支払い可能。アカウントを作ると、次回以降手続きが簡略化できます。

 

(本作・本文は約4800字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、10分から5分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと16分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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◎ 世界に広がる人種差別への平和的抗議運動

 

平和的抗議(Peaceful Protestant)。

 

平和的な抗議運動の波が全米の主要都市(160以上)だけでなく、なんと世界中に広がっている。こんなに大きなうねりになるとは、1週間前には予想だにしなかった。そして日々最新情報があふれ出る。まだ頭の中がうまく整理できないが、現時点でのちょっとした感想を記しておきたい。

 

2020年5月25日、アメリカ中西部ミネソタ州ミネアポリスで白人警官デレク・ショーヴィンが黒人の一般市民ジョージ・フロイドさんの首をしめて殺害したことで全米各地、さらに世界各地へ抗議運動、デモ、いくつかの場所では暴動、略奪が起きる事態になった。連日CNNなどは全米各地、世界各地のデモ、抗議運動を放映している。今回の事件で印象的なことは平和的デモ行進が多いこと。警察官の中にも膝まづきの姿勢を取り、抗議に同調するものさえいたりする。

ブログ ミネアポリス暴動1 ジョージ・フロイドと警官

(左ジョージ・フロイド、右殺害したデレク・ショーヴィン元警官)

 

そもそもその根底にあるものは何か。それは根強い人種差別だ。人権を無視した正義のなさだ。人々は「ブラック・ライヴズ・マター(黒人の命も大事だ)」と「正義を」を掲げて連日デモ行進を続けている。コロナ禍で自宅待機を強制されていた彼らがそのうっぷんを晴らす意味も含めてストリートにでている側面もある。下記の「ブラック・ライヴズ・マター」の事件一覧でもわかるように、本当に同じことが繰り返されている。ここまでくると黒人白人にかかわらず警察の暴力沙汰に市民の怒りが爆発して当然だ。

 

~~~

 

人種差別。

 

人種差別も千差万別だが、その代表的なものは白人による黒人憎悪だ。今回のきっかけとなった事件が起きたミネアポリスは黒人比率が低い街で白人が8割を超える。黒人はかつては10%に満たなかったが最近では16%程度まで増えているという。しかし、その16%に満たない黒人が警察官の暴行を受けた数字は6割に上るという。

 

こうした人種問題を発端とした暴動は40年以上も前からある。

 

映画『デトロイト』(2017年)は1967年のデトロイト暴動を描いたもの。(内容は下記リンク参照)

 

1968年4月メンフィスでマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺され各地で暴動が起こりそうになったとき、ボストンでライヴを行う予定だったジェームス・ブラウンは公演中止を要請されたが、逆に公演をしそれをテレビ中継させ、黒人同胞に暴動に加わらないよう説得しそれが功を奏した。

 

1989年のスパイク・リー映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』は、フィクションだがニューヨークのピザ店で起こる暴動から黒人が首を絞められ警官に殺されるシーンがある。これは2014年にエリック・ガーナーが殺されたときに、映画と同じことが起こった、と言われた。

 

ブログ ミネアポリス暴動10 映画ドウザライト・シング ポスター

ブログ ミネアポリス暴動10 映画ドウザライト・シング ラヒーム首しめ

1991年のロスでのロドニー・キング事件が1992年に暴動に発展した。

今年(2020年)だけでもジョージア州のアモード・オーブリーが白人3人組に殺されたり、ケンタッキーでは自宅に犯人宅と間違えて押し入った警察官がその住人(犯罪とはまったく関係ない)を射殺するという痛ましい事件も起きている。警官の暴力からのそうした事件は枚挙にいとまがない。

 

何よりこうした動きが大きなうねりとなっているのは、実際の暴力行為が動画で簡単に記録され、SNSなどで一挙に拡散するからだ。これはさすがに1960年代や1970年代にはこうはいかなった。機材の発展が人間のおぞましい汚点を映し出すことになった。かつてギル・スコット・ヘーロンは「革命はテレビ中継されない」と歌ったが、時代は移ろい「革命はテレビ中継される」ところまで来たのだ。

 

~~~

 

解決策はあるか。

 

すべて人種差別・偏見などが元になった悲劇だ。ではこの人種差別をどうなくしたらいいのか。僕のような日本に住む外部の人間が何か言えるのか。やはり、人間の根源的な問題がそこにあり、人類共通の普遍的テーマだろうから、何か言明するくらいはいいだろう。

 

では、その人種差別は、やはりすぐにはなくならないだろうが、結局、教育と学習しかないと思う。

 

生まれながらにして差別感情を持っている人間はいない。それは何年か生きていくうちに自然にまわりから教えられ、あるいは、自分で知って、そういう感情が芽生える。

 

そこで、できるだけ早い時期から、「人種差別はいけないこと」だと教える(エデュケートする)。「それはいけないこと」だと学ぶ(ラーニング)ことに尽きると思う。 

 

もちろん生理的に黒人が嫌いな白人もいるだろう。KKKやその他の白人至上主義者などはそうなのだろう。だがそうした生理的にダメなものでも、教育と学習である一定の歯止めをしていかなければならないと考える。

 

そのときに、無知と無関心、そして沈黙は「罪」になる可能性もでてくる。知識がある者が知識がない者をバカにするのではなく丁寧に教え、それがない者はある者から検挙に学ぶしかない。そして感情に任せずに理性に問うしかない。これはすべての行動行為に言える。人をバカにする、最近ではディスるというが、それが偏見のルーツであり、すべての争いの発端となる。

 

これは白人対黒人だけに限らない。あらゆる人種差別問題、差別問題、階級問題は、世界中あらゆるところに存在している。日本人対韓国人・中国人・その他の国の人たちという対立もよく出てくる。中国人の近隣諸国への蹂躙も問題としてよく指摘される。

 

人類が持つ根本的な問題(イシュー)なのだと強く認識するしかない。

そして、もうひとつ人種問題を含む争い(戦争)に対する究極の答えは「愛」だと思う。「憎しみ」ではなく、相手に対する「愛」を持てば相手に暴力をふるおうとは思わない。

 

 

Stevie Wonder : Love's In Need Of Love Today (1976)

「今こそ愛が愛を必要としている」

 

しかし、嫌いな相手を好きになれといわれても無理だ。その場合でも嫌いな相手に暴力は行使しないようにするのは理性であり知性だ。それは教育と学習で得る知性でしかない。それはたとえば他の動物にはない人間特有のものだ。

 

~~~

 

ホワイトハウス。

 

たとえば現アメリカ大統領が今回のジョージ・フロイドさん死去に関連して、少しでも黒人蔑視と取られるような発言をすれば、今年の大統領選で落ちる可能性も高くなる。また、コロナ禍の対処の仕方でもトランプが間違いを犯せば落選する。もしそうなったとすると、コロナ禍の唯一のいい意味での「得点」はトランプを落選させたことになるだろう。

 

ブログ ミネアポリス暴動8 ブラックライヴずまたー、ワシントンDC路面文字

6月5日、首都ワシントンDCの16ス(シックスティーンス)・ストリート(16丁目)の路面に黄色のペイントでBLACK LIVES MATTERと大きく文字が描かれた。この道はホワイトハウスへ一直線に通じる道で、そのコーナーが「ブラック・ライヴズ・マター・プラザ」という名前になった。これは同市市長のミュリエル・バウザーさんの発案で書かれたものだという。

 

上空(宇宙)からの写真でもしっかり文字が読み取れる。

ブログ ミネアポリス暴動 9 BLM文字、上空から

(右がホワイトハウス)

 

この道路名の変更(以前はペンシルヴェニア通り)によって、ホワイトハウスの(トランプの)現住所は、「1600 Black Lives Matter Plaza NW, Washington DC, 20500 USA」になるそうだ。

 

人種差別問題に消極的なトランプ大統領に対して、おひざ元からの強烈な痛快パンチだ。

 

 

 

ブログ ミネアポリス暴動12 リーンオンミーを歌う聴衆

今日も、今も、あちこちでの警官の暴力の映像が映され、一方で平和的にビル・ウィザースの「リーン・オン・ミー」を合唱するシーンも映し出される。解決への糸口を見つけるのは難しいが、一歩でも警官の暴力が減る方向になってもらえればと思う。

(ビル・ウィザース物語は、本noteの前の投稿をごらんください。「リーン・オン・ミー」誕生秘話も紹介しています)

 

パート1

https://note.com/ebs/n/nfada9bf816d2

パート2

https://note.com/ebs/n/n6fcea949dbcd

 

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映画『デトロイト』~2018年1月日本公開~1967年の暴動を50年後に描く衝撃作(1)
2017年11月20日(月)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12329704810.html

 

○映画『デトロイト』(2)~ドラマティックスの栄枯盛衰~新スター誕生、ラリー・リード役アルジー・スミス
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12330293292.html

映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』~アルバムから映画まで27年を経てのブラックムーヴィーの金字塔


2015年09月27日(日)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12077294077.html

 

●ブラック・ライヴズ・マターのきっかけとなった事件群

 

被害者はいずれもアフリカン・アメリカン(黒人)。

 

【ロドニー・キング事件】

 

1991年3月3日、カリフォルニア州ロスアンジェルスでロドニー・キングがLAPDの警官数人に激しく暴行された。その模様が近所に住む市民にビデオ撮影され、これがテレビ局(KTLA)に持ち込まれ放送されたところ、一挙に非難と抗議の運動が巻き起こた。その後、当該の警察官への処分が軽かったために、それに不満が爆発、暴動へ発展した。いわゆる「ロス暴動1992」だ。ロドニー・キングは2012年6月17日47歳で自宅プールで死去。

 

【トレイヴォン・マーティン事件】

 

2012年2月26日、フロリダ州サンフォードでトレイヴォン・マーティン(17歳)が自警団のジョージ・ジマーマン(28歳ヒスパニック系)に射殺された事件。ジマーマンは同州にある「スタンド・ユア・グラウンド法、正当防衛法」のために無罪となり、抗議運動が起こった。

 

黒人を殺した白人が相次いで不起訴となったことで、各地で暴動、抗議行動が起こった。これらすべてを含めてこのころからハッシュタグ #BlackLivesMatter (黒人の命だって大事なんだ)、がSNSを中心に広がり、運動が大きくなった。

 

【エリック・ガーナー事件】

 

2014年7月17日、ニューヨーク・スタッテン・アイランドで起きた事件。路上で煙草を売っていた黒人エリック・ガーナー(43歳)が警官の職務質問に「放っておいてくれ」と言ったが言い争いとなり、白人警官ダニエル・パンテーロ(29歳)がニューヨークでは禁じられている後ろから羽交い絞めにし、殺してしまった事件。ガーナーは羽交い絞めにされているときに、「息ができない I can't breath」と何度も言っているが、警官はそれを無視して羽交い絞めを続け、結果殺してしまった。

 

【マイケル・ブラウン事件】

 

2014年8月9日、ミズーリ州ファーガソンで起こった無防備の黒人青年マイケル・ブラウン(18歳)が白人警官ダレン・ウィルソン(28歳)によって射殺された事件。

 

【ラクアン・マクドナルド Laquan McDonald 事件】

 

2014年10月20日、ラクアン・マクドナルド(17歳)がシカゴの警官ジェイソン・ヴァン・ダイクに射殺された。

 

【フレディー・グレイ Freddie Gray 事件】

 

2015年4月12日、フレディー・グレイ・ジュニア(25歳)がボルティモア警察に逮捕され、移送中のヴァンの中で意識不明となり、4月19日死去。車内での暴行が原因とみられる。これが発覚するとボルティモアで大きな抗議運動が起こり、プリンスもその名も「ボルティモア」という曲を発表、同地でのライヴを敢行した。

 

【アントワン・ローズ・ジュニア事件】

 

2018年6月19日、アントワン・ローズ(17歳)がピッツバーグ警察の警官マイケル・ロズフェルドによって銃により殺害。そのしばらく前に、車から無差別に発砲する事件があり、ローズが乗っていた車と似ていたことから停止命令をしたところ、ローズらがそこから逃げて発砲され死亡した。

 

【アーマッド・オーブリー Ahmaud Arbery 事件】

 

2020年2月23日、アーマッド・オーブリー(25歳)がジョージア州グリンカウンティ―のブランズウィックでジョギング中、車に乗った白人3人がオーブリーを射殺した。

 

【ブレオナ・テイラー Breonna Taylor 事件】

 

2020年3月13日、ケンタッキー州ルイヴィルで看護生ブレオナ・テイラー(26歳)のアパートの部屋に、別の容疑者の自宅捜査令状を持ち入室した際、同室にいたブレオナのボーイフレンドが彼らを強盗と思い発砲、警官と銃撃戦となり、ブレオナが死去した。

 

【ジョージ・フロイド事件】

 

2020年5月25日ミネソタ州ミネアポリスの路上で偽札を所持していた疑いで拘束されたジョージ・フロイド(46歳)が白人警官デレク・ショーヴィンに首を押さえつけられ。「息ができない」と訴え続けたもの押さえ続けられ、結果死去した事件。この一部始終が近くにいた人によって動画撮影され、まもなくSNSに拡散。一挙に抗議運動が巻き起こり、ミネアポリスでけでなく全米、全世界まで警察の暴力、人種差別問題、平等を訴える暴動と抗議活動に発展した。


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2014年12月12日(金)


スティーヴィー・ワンダー、警察官不起訴に曲内でコメント
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11962479104.html


第57回グラミー・モーメント~ファレルの主張とキング牧師への賛歌
2015年02月10日(火)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11987696106.html


グラミー余波~ハンズ・アップ・ドント・シュート~ファレルからビヨンセへ
2015年02月11日(水)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11988131340.html

 


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ソウル・サーチン・ブログ運営・吉岡正晴

 

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 017 ~ メンフィス・ファンクのレジェンド、バーケ

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見出し画像

■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 017 ~ メンフィス・ファンクのレジェンド、バーケイズ・ライヴ ■■

 

2020年6月8日記

 

バーケイズというファンク・グループは、本当にオールド・ファッションなリアル・ファンク・バンドだ。今では、メンバーも年齢が高くなり、こうしたヘヴィー・ファンクなパフォーマンスがしづらくなっているが、それでも、やはり1970年代から1980年代を通じてもっとも生きのよかったバンドのひとつ。日本でも根強いファンが多い。

 

ライヴ評をいくつかまとめて読んでいたら、その時のことがフラッシュバックしてしまったので、ぜひ2020年の読者の方たちとシェアしたくなったので、お送りする。

 

中でも、ジョン・ブラックウェルの飛び入りはすごかった。

 

バーケイズ、コンファンクシャン、レイクサイド、オハイオ・プレイヤーズなどのファンク・バンドはまたぜひ来日して、コロナ禍収束後に密密のところでがんがんにライヴをやって欲しい。

 

(本作・本文は11000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、22分から11分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと37分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

①  2006年10月のライヴ評~その1

October 19, 2006
Bar Kays: Funk Explosion!! Sooooo Dynamite!!

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200610/2006_10_19.html

(若干ネタばれになります。これからショウをご覧になる方は、あなたのリスクにおいてお読みください)

 

【バーケイズ・ライヴ、ダイナマイト・ファンク炸裂】

 

大爆発。

 

まさにファンクが炸裂、大爆発。完璧なファンク、エンタテインメント・ショウ。息つく暇もなく、次々とメドレーになって繰り出されるバーケイズのソウル、ファンクのヒットの数々。結成40周年を向かえる大御所ファンク・グループ、バーケイズの久々のライヴ。この肉感的な、ソウル度、ファンク度超満点のバンドの見事なことよ。Funk To The People!

 

伝説のR&Bシンガー、オーティス・レディングのバックバンドから、成り上がったファンクバンド、バーケイズはこれまで、赤坂ムゲン(1971年6月から7月)、渋谷「ライヴイン」(1986年頃?)、日比谷野外音楽堂で行われたファンク・フェスティヴァル『レッツ・グルーヴ』(1996年、他にコン・ファンク・シャン、エモーションズ、キャメオが来日)などで来日している。

 

ブログ バーケイズ ワッツタックスライヴ写真

 

下記セットリストで1から4まで一気。MCをいれてさらに5から最後までこれまた一気。ミディアムからアップテンポの曲ばかり(1曲だけスロー)による一気は、コットンクラブの気温を5度は上げ、うっすらと湯気が立ち込めた。一気飲みならぬ一気ファンクだ。More Funk To The People!

1970年代から1980年代にかけてのバーケイズのヒット曲、特に「シェイク・ユア・ランプ」から「ドゥ・イット」~「ホーリー・ゴースト」までの流れなどもう最高。つなげてスローの「アティテュード」へ。おどろくほど何の変哲もないこの作品が、超エロエロに変身。ここで若干の宣伝をしつつ、後半はロジャーへのトリビュート。キーボードのエズラが、ヴォコーダーを使いロジャーになりきった。

 

 

リード・シンガーのラリー・ドドソンの衣装は、まさに1970年代オールドスクールのファンク・グループらしい「ど派手」なラメいりのもの。こんな大げさなデザイン今時誰が作るというくらい、徹底してる。まさにソウル・ファッション。飛行機事故(1967年12月10日、オーティス・レディングとともに飛行機に乗ったバーケイズのメンバーが事故で死去)の生き残りメンバー、ジェームス・アレキサンダー(今回も来日しているベース奏者)とベン・コーリーがバーケイズを再結成し、その後何度かのメンバーチェンジ後、1970年にグループに入ったリード・シンガーがラリー・ドドソン。ラリーも36年間バーケイズのメンバーだ。

 

ところで、ラリーが「1987!」とか年代を言って歌い始める曲。かえって調べてみるとそれぞれ、ヒット年号が違っていた。(笑) ま、ファンクだから気にしない、気にしない。Give More Funk To The People!

 

よく動き、同じステップをふみ、観客を巻き込み一体化して、ファンク・エンタテインメントの頂上を極める。40年、ライヴバンドとしてたたき上げてきた連中はさすがに年季が違う。まさに究極のファンクバンドのライヴ・パフォーマンスだ。

 

来年(2007年)12月10日は、グレイト・オーティスを奪った事故からちょうど40年になるのか・・・。事故機に乗らなかったジェームス・アレキサンダーは、まさに究極のソウル・サヴァイヴァー。ここでひょうきんに、そして元気にベースを叩く姿にオーティスの遺影が浮かぶ。まさにソウル・バンドに歴史ありだ。 今週土曜まで、今からでも遅くはない。

 

 

■ライヴ

 

2006年10月21日土曜まで、丸の内コットンクラブ。一日2回。
http://www.cottonclubjapan.co.jp/ccj/top.html
TEL : 03-3215-1555
 

■メンバー

 

Larry Dodson(vo), Darrell Stanley(vo), Archie Love(vo), Kurt Clayton(Key), Ezra Williams(key), Michael Anderson(g), James Alexander(b), Hubert Crawford(ds)

 

Setlist (Bar Kays @ Cotton Club, 10/18/2006)

 

show started 21:30
01. Intro
02. Boogie Body Land (1980)
03. She Talks To Me With Her Body (1983)
04. Hit & Run (1981)
MC
05. Traffic Jammer (1981)
06. Sex-O-Matic (1984)
07. Move Your Boogie Body (1979)
08. Do What U Want 2
09. Shake Your Ramp To The Funk (1976)
10. Do It (Let Me See You Shake) (1982)
11. Holy Ghost (1978)
12. Attitude (Tribute To Roger) (1978)
13. More Bounce To The Ounce (1980-Roger/Zapp)
14. Freakshow On The Dance Floor (1984)
15. Your Place Or Mine (1985)
Enc. The Slide (1995)
show ended 22:48

(2006年10月18日水曜、丸の内コットンクラブ=バーケイズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Bar Kays
2006-194

 

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②  2006年10月のライヴ評~その2

 

October 23, 2006
Bar Kays: Integrity Of The Soul
【ソウルの律儀(りちぎ)~バーケイズ】

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200610/2006_10_23.html

 

律儀。

 

バーケイズ最終日最終公演。いつになく、始まる前から観客が熱くなっている。これまで見たどのアーティストのライヴがよかったなど思い思いに談義が進んでいる。この日来ていた観客はみな、バーケイズやソウル、ファンクが好きでたまらなくて、楽しみにやって来た熱心な音楽ファンばかりのようだった。ライヴハウスを作るのは、結局はこうした観客なのだ。そして、そうした観客を集めるのは、ブッキング(どのアーティストを呼ぶか)に尽きる。ぜひいいアーティストを呼んで、いいお客さんを集めて欲しいと思う。

 

バーケイズの律儀その1。驚くことなかれ、バーケイズのメンバーは開演9時半の2分ほど前から続々とステージに上り、準備を始めた。開演時間より前に準備にのぞむアーティストとは、おそれいった。(笑) そして、ほぼ定刻にライヴ開始。この日は一曲目から半分以上の人たちが立ち上がり、腰を揺らし始めた。

 

ハイエナジー、エンジン全開、ファンク度大爆発のバーケイズのライヴ。音楽も熱いが、観客のファンクへの思いも熱い。会場もほぼ満席。このファンクを律儀に徹底的にやり通すところ、これがバーケイズのファンクの律儀、その2だ。

 

それにしても、ベース奏者のソウル・サヴァイヴァー、ジェームス・アレキサンダーは、舌を出しながら迫力満点のベースを聴かせる。映画『グリーンマイル』の主人公ジョン・コフィーを演じる俳優マイケル・クラーク・ダンカンに似ているように思った。舌を出すという点では、バスケットボールのマイケル・ジョーダンがダンクシュートを打つときに舌を出す、ということをマーヴィンが教えてくれた。

 

 

バーケイズの律儀、その3。ライヴが終わると10分も経たぬうちに、入口でサイン会を始めていた。売ってるグッズは、10年前のどこかのパンフレットや、自分たちで焼いたDVD-Rなどだが、サイン会をしてファンと直接話すというところが、律儀ですばらしい。

 

まさにソウルの律儀であった。毎年とは言わない、2年に1度くらい律儀に来日はいかが? 

 

■メンバー

 

Larry Dodson(vo), Darrell Stanley(vo), Archie Love(vo), Kurt Clayton(Key), Ezra Williams(key), Michael Anderson(g), James Alexander(b), Hubert Crawford(ds)

 

Setlist セットリスト (Bar Kays @ Cotton Club, 10/21/2006)

 

show started 21:31
01. (Medley 01-04)Intro
02. Boogie Body Land (1980)
03. She Talks To Me With Her Body (1983)
04. Hit & Run (1981)
MC
05. (Medley 05-12) Traffic Jammer (1981)
06. Thank You (Sly & Family Stone)
07. I Wanna Take You Higher (Sly & Family Stone)
08. Sex-O-Matic (1984)
09. Move Your Boogie Body (1979)
10. Do What U Want 2
11. Shake Your Ramp To The Funk (1976)
12. Do It (Let Me See You Shake) (1982)
MC
13. (Medley 13-16) Attitude (Tribute To Roger) (1978)
14. Holy Ghost (1978)
15. Freak Show On The Dance Floor (1984)
16. Your Place Or Mine (1985)
Enc. The Slide (1995)
show ended 22:39

(2006年10月21日土曜、丸の内コットンクラブ=バーケイズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Bar Kays
2006-197

 

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③ 2008年7月のライヴ評~その1

 

△バーケイズ・ライヴ(パート1)~ファンク大爆発の夜
2008年07月31日(木)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10121887681.html

 

◎Bar Kays (Part 1) : Funk Party Till Dawn, Too Hot To Stop 


【バーケイズ・ライヴ(パート1)~ファンク大爆発の夜】

 

大増量。

 

暑すぎて、熱すぎてもう止まらない。メンフィス・ファンクの雄、ヴェテラン・ファンク・グループ、バーケイズの2006年10月以来、1年9ヶ月ぶりのライヴ。火曜セカンドは、最後ということもあってか、超大盛り上がりで、それまでの4日の中でもっともエネルギーが爆発したパフォーマンスになった。今回何回も見ているソウルメイト(複数)によると、この火曜セカンドが一番曲数も多く、時間を長くやったようだ。実際、僕が前回来日時に見たときよりも、かなり長くなっていた。(前回セットリストがアンコール含めて16曲だったのに比べ、今回はなんと27曲!)久々に「どファンク」のライヴをエンジョイした。

 

9時半になるかならないかで、バンドの6人がステージに立つ。(前回も1分前にはステージ入りしていたその律儀ぶりを書いていた) そして煽りのMCが「バーケイズ!!」とシャウトすると、オリジナル・ベース・メンバー、飛行機事故からのサヴァイヴァー(正確には事故機に乗らなかった唯一のバーケイズ・メンバー)ことジェームス・アレキサンダーと、1971年以降リード・シンガーとして、現在のバーケイズの顔となっているラリー・ドドソンがステージにかけあがる。こうして8人になったバーケイズはイントロから、そのファンク・エネルギーを大爆発。1曲目からもはや観客はほぼ総立ちだ。アップテンポで、怒涛のファンクに観客もひれ伏し狂態。いやあ、あいかわらずすごい。今回はギターとドラムスが前回メンバーと変わっていたが、そのファンク度合いは、まったく変わらず最高のままだ。しかもこの火曜セカンドは見所たくさんで、書ききれないほどだ。(でも、全部書く。のでパート2までいくと思います)

 

イントロから7曲目までのノンストップ・メドレーで完全に観客を掌握。客は彼らのファンクの手玉にとられる。バーケイズはファンクのコントロール・タワーになった。そしてノンストップで、初のスロー・ジャム「アンティシペーション」。ちょっと箸休めでほっとするのもつかの間、今度はバック・ヴォーカルのひとりダレル・スタンリーが前に出て1曲披露。これがまた実にいい声の持ち主で、リヴァート(父・息子)を彷彿とさせるシンガー。なんと、彼は今回のドラマー、エマニュエル・コールの実兄だそう。歌うはオージェイズの大ヒット「レット・ミー・メイク・ラヴ・トゥ・ユー」。

 

 

さらにマイクを次のコーラス担当アーチー・ラヴに手渡し、彼がレニー・ウィリアムスの「コーズ・アイ・ラヴ・ユー」を熱唱。まさにサザン・フィールたっぷりのディープ・ソウルの喉を聴かせた。このアーチーは、メンフィスのソウル・ヴォーカル・グループ、ソウル・チルドレンらと親交が深く、同グループのリード・シンガー、Jブラックフットのバック・コーラスとしても来日したことがあるという。

 

今回このレニー・ウィリアムスの楽曲を選んだのは、アーチー自身がレニーとJブラックフットのデュエット作品をプロデュースし、その2人でこの曲をレコーディングしたからだという。彼はその昔、ライト・チョイス、さらにメイン・アトラクションに在籍していたヴェテランだった。1990年ごろ、ライト・チョイスのメンバーとして、六本木の「ペペルモコ」という店の箱バンドとして3-4ヶ月来日していたこともある、という。

 

2曲の客演を終えて、再びバーケイズ・ファンクへ。「トラフィック・ジャマー」から、なんと今度来日する予定のスライの曲をメドレーで。そして、おなじみの「セックス・オー・マティック」さらに「ムーヴ・ユア・ボディ」。観客は休むことなく、腕を宙に上げ、振る。フロアは狂乱のダンス・フロアに。

 

 

そして、ギターのトニーGが、前にでて話始めた。「今日、僕の素晴らしい友達がここにきています。こんなドラマーは見たことがありません。たまたま彼とは同じ誕生日でね、9月9日」といってドラマーを招き入れた。彼はそのまま、ドラムスに。流れてきたイントロはおなじみの、いや、プリンスでおなじみの「パープル・レイン」だった。なぜ? 

 

Two Baaaaadest Drummers!! Double Dynamite: John(left) & Emanuel (right)

 

(この項明日につづく)

 

■ 過去関連記事 バーケイズ

 

October 19, 2006
Bar Kays: Funk Explosion!! Sooooo Dynamite!!
http://blog.soulsearchin.com/archives/001339.html

 

October 23, 2006
Bar Kays: Integrity Of The Soul
http://blog.soulsearchin.com/archives/001343.html
前回来日ライヴ評。

 

■メンバー

 

ザ・バーケイズ
Larry Dodson(vo), James Alexander(b), Darrell Stanley(vo), Archie Love(vo), Ezra Williams(key), Kurt Clayton(key), Anthony Gentry(g), Emanuel Cole(ds) 

 

■セットリスト バーケイズ
Setlist Bar Kays @ Cotton Club, July 29, 2008


[ ] indicates original artist ( ) indicate singer, otherwise Larry take all the lead

 

show started 21:30
01. Intro
02. Boogie Body Land (1980)
03. Shake Your Ramp To The Funk (1976)
04. Too Hot To Stop (1976)
05. Do It (Let Me See You Shake) (1982)
06. She Talks To Me With Her Body (1983)
07. Hit & Run (1981)
08. Anticipation (1982)
09. Let Me Make Love To You [O’Jays] (Darrell Stanley)
10. Cause I Love You (I’m Just A Fool) [Lenny Williams] (Archie Love)
11. Traffic Jammer (1981)
12. Thank You [Sly & The Family Stone]
13. I Want To Take You Higher [Sly & The Family Stone]
14. Sex-O-Matic (1984)
15. Move Your Boogie Body (1979)
16. Do What U Want 2
17. Drum Solo – Purple Rain (Drums by John Blackwell) [Prince](Sung by Anthony G)
18. Otis Medley(18-21) : I Can’t Turn You Loose (James Alexander)
19.Try A Little Tenderness (Larry)
20. (I Can’t Get No) Satisfaction (Larry)
21. (Sitting On The) Dock Of The Bay (Larry)
22. True Love (Archie Love)
23. What’s Going On [Marvin Gaye] (Darrell)
24. Holy Ghost (1978) (Jaye Kouyama sung)
25. Freakshow On The Dance Floor (1984)
26. Outro
Enc. Your Place Or Mine (1985) (Drums by John Blackwell)
show ended 23:15

 

(2008年07月29日火曜、丸の内コットンクラブ=バーケイズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Bar Kays
2008-129

 

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4 2008年7月のライヴ評~その2

 

◎バーケイズ・ライヴ(パート2)~ファンク大爆発の夜
2008年08月01日(金)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10122258684.html

 

◎Bar Kays (Part 2) : Funk Party Till Dawn, King Of Old School Soul

(バーケイズ・ライヴ=パート2=昨日からのつづき)

 

【バーケイズ・ライヴ(パート2)~ファンク大爆発の夜】

 

オールドスクール。

 

特別のゲストが来ていて、ドラマーが交代した。そして、流れてきた「パープル・レイン」。すると、そのドラマーを見たソウルメイト、ハセヤンが言った。「おおっ、あれ、ニューヨークで見たプリンスのときのドラマーじゃないか?」「ええっ、なんで日本にいるの?」 よくわからない。

 

 

調べてみると、なんと、メンバーのエマニュエルに代わってドラムスの席についたのは、元プリンスのドラマー、ジョン・ブラックウェルだったのだ。ギターのトニーが、まるでプリンスの如く歌い、プリンス・バンドのジョンがドラムを叩いた「パープル・レイン」はフルサイズ10分以上になり、やんやの大喝采を集めた。それは手馴れたはずだ。いやあ、スローなのに盛り上がった。いいドラマーだ。

 

メンバーが彼を紹介する。「ジョン・ブラックウェル!!」 拍手の中、いったんステージ横に退出。そして、今度は何をするかと思ったら、ベース奏者のジェームス・アレキサンダーが前に進み出た。MCによって、「われわれはグループを結成して40周年になる。(筆者注、初ヒットからはすでに41年、結成からは42年) 以前、オーティス・レディングのバックをつとめていた」と紹介され、怒涛のオーティス・メドレーが始まった。しわがれ声のジェームスの歌声は、オーティスを真似たものか。なんと渋い声。いっきにコットンクラブが1960年代のR&Bワールドにワープした。

 

オーティスのバックを務めたバーケイズが、しかも、実際にオーティスの後ろでベースを弾いたジェームス・アレキサンダーがそのオーティスの曲を歌う。「オーティス・レディング!! ウイ・ミス・ユー!!」とジェームスが叫ぶ。感動だ! 忌野清志郎さんに見せたかったな。「アイ・キャント・ターン・ユー・ルーズ」から始まり、ノンストップで「トライ・ア・リトル・テンダーネス」に。リードはここからいつものラリーに。これは最近は映画『マイ・ブルーベリー・ナイツ』でも、コーヒーショップ、スターバックスでもかかっていて、ちょっとしたブームだ。さらに「サティスファクション」。ストーンズのカヴァーをオーティスがやったヴァージョン。そして、そのまま「ドック・オブ・ザ・ベイ」だ。途中のサビの部分を、ラリーはマイクを観客に向け歌わせようとしたが、ちょっと歌詞部分がわからず、あまり歌えなかった。でも、口笛の部分はみんながなんとかやった。「ドック・オブ・ザ・ベイ」の歌詞は基礎教養として覚えておかないとだめか。(笑) このオーティス・メドレーは前回になかったので、定番にすればいいのにと思った。

 

そして、アーチー・ラヴが再度登場し、彼の持ち歌「トゥルー・ラヴ」を披露。さらにもう1曲マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オン」をダレルが。この時点で、もう20%増量なんてものではなく、50%増量くらいになっているのではないか。そして、これを終えて、バーケイズ・ショウへ戻る。「ホーリー・ゴースト」だ。なんと、この「ホーリー・ゴースト」では客席にいたジェイ公山さん、ステージに上げられ、熱唱! なんという増量。(笑) グッドジョブ! ジェイさんはバーケイズと一緒にレコーディングもしているわけだし、ステージにあがってもなんら違和感なしだ。そして、ノンストップで「フリーク・ショウ」。これで一度本編を終わり、アンコールに「ユア・プレイス・オア・マイン」。

 

「You Ready Go Home? (家に帰りたいか?)」 「ノ~~~~」

 

なんとこのアンコールでは、キーボード、エズラとカートのソロがあり、その後にジョンがドラム・ソロに再突入。これがすごかった。ドラム・ソロをやっている間、メンバーはドラマーを見つつ、手で仰ぐしぐさ。そして、ジョンのドラム・ソロ。あいた口がふさがらないとはこのこと。元ドラマー、ハセヤンも「これはすごいわ」とえらく感激。

 

そして、ジョンがドラムに入ったことから、バンドの本来のドラマー、エマニュエルがあぶれたと思いきや、ジェームスが彼を手招きし、エマニュエルにベースを手渡すではないか。彼もかなり巨漢なので、ベースが小さく見えるが、いきなりバチバチものすごいソロを叩く。チョッパーだ。ええっ、彼はベースもできるんだ。みな、器用。しかも、ドラムスとベース(実際はドラマー)のインタープレイがまたまたおもしろい。これが結局15分近くになるロング・ヴァージョンで大団円となった。

 

しかし、エネルギッシュですごい。50%大増量のライヴであった。しかも、よくセットリストを見ればわかるように、スライ、マーヴィン、オーティスまで、ある意味「オールド・スクール・ソウル(&ファンク)」のデパートではないか。

 

ライヴが終わると、DJアトムが手招き。すでに目もうつろ状態。相当よっぱらっている様子。聴けばファーストとセカンドを通しで見て、前日も見たという。都合3回見て「僕は1回しか見てない」というと、「(オレは)3回で、吉岡くんに勝ったよ」と自慢げ。ジェイさんに「グッドジョブ」と声をかけると、「今日はただの客ですから」。そして、『ソウル・トレイン』のDJリュウが。「今、ジョン・ブラックウェルのめんどうみてるんですよ、今回だけですけどね」と。あ~~なるほど、それで。「今回のバンマスはキーボードの学史だよ」 ああ、なるほど。それはすごいや。あさって(31日・木曜)ダブルやるから来てくださいと、ということで急遽行くことに。

 

ライヴ後、汗を拭くまもなくメンバーはサイン会にでてくる。何人かと話したことをまとめてみる。

 

ステージ向かって左のスキンヘッドのキーボード、エズラ。右側のキーボードもスキンヘッド。右がカート・クレイトン。これまでにも何度も来ている、愛称KC。ヴォーカル・ダレルとドラムス、エマニュエルは兄弟で、ダレルが兄。エマニュエルは3年ほど前にバーケイズに入ったが、前回来日時(2006年)は別の仕事が先に入っていてバーケイズの一員としては来日できなかった、という。最初3年前にバーケイズ入りしたときは、キーボード奏者として入ったそうだ。ということは彼はドラムス、キーボード、そして、ベースも弾くのか。まさにマルチ・プレイヤーではないか。

 

アーチーは先に述べたとおり、南部メンフィスを中心に活躍するヴェテラン。1958年11月23日シカゴ生まれ。スタックス周辺で活躍し、ソウル・チルドレンらと関係のある仕事をしてきた。最近ではJブラックフットの最新作『イット・エイント・オーヴァー・ティル・イッツ・オーヴァー』やソウル・チルドレンの『スティル・スタディー』などに曲提供したりプロデュースをしていたりする。レニー・ウィリアムスとJブラックフットのデュエットをプロデュースしたのは書いた。

 

キーボードのエズラは3年ほどバーケイズに在籍。Jブラックフットなどとも仕事をしてきた。ワーナーから1995年に出たRAWというグループにもいたという。オリジナル・メンバー、ジェームス・アレキサンダーは「足ががくがくするよ」と言ってぼやく。誕生日はと訊くと「1月19日」。「年号は?」「1950年、58歳だ、もうオールドだよ」との答え。資料によっては1948年生まれ説もあるが、果たして。

 

それにしても、これだけ熱いファンクを聴かせてくれるバーケイズ。おそらく日本のファンのリアクションも十分楽しんでいるようだ。いいミュージシャンといいファンのいい関係ができて、いいライヴが行われる。最高に素敵だ。今回彼らに新たな名前を授けたい。「キング・オブ・オールド・スクール・ソウル」。

 

(セットリスト、メンバー表は昨日付けの日記に)

 

(2008年07月29日火曜、丸の内コットンクラブ=バーケイズ・ライヴ)
ENT>MUSIC>LIVE>Bar Kays
2008-129

 

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⑤ ベン・コーリー訃報2015年9月

 

バーケイズ創立者の一人、ベン・コーリーの訃報。バーケイズの簡単な評伝も

 

●ベン・コーリー(バーケイズ創立者)67歳で死去
2015年09月26日(土)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12076567663.html

 

【Ben Cauley Dies At 67】

 

訃報。

 

メンフィス・ファンクの雄、バーケイズのオリジナル・メンバーの一人、トランぺッター、ベン・コーリー Ben Cauley が2015年9月21日夜メンフィスのメソジスト・サウス病院で死去した。67歳。しばらく体調を崩していた。1989年に心臓発作を起こしていた。

 

http://goo.gl/0Z6ded  

http://www.dailymail.co.uk/tvshowbiz/article-3245684/Trumpeter-Ben-Cauley-dies-age-67-surviving-1967-plane-crash-ended-life-friend-Otis-Redding.html

 

コーリーは、オーティス・レディングとバーケイズのメンバーの命を奪った飛行機に搭乗しながらも事故から唯一生き残った人物。

 

 

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The Bar Kays – Soul Finger (1967)

https://www.youtube.com/watch?v=AfK1IPLpcqs


一番左のトランペットがベン・コーリーと思われる。左からベン・コーリー、ファロン・ジョーンズ(サックス)、ジミー・キング(ギター)、ジェームス・アレキサンダー(ベース)、オルガンがロニー・コールドウェル、ドラムスがカール・カニンガム。アレキサンダーとコーリー以外がオーティスととともに飛行機事故で死去。

 

珍しい映像。コーリーが2015年の「エルヴィス・ウィーク」で「ザ・ドック・オブ・ザ・ベイ」を歌っているシーン。

 

https://www.youtube.com/watch?t=26&v=u8Lic2CmD_A

 

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評伝。

 

ベン・コーリー・ジュニアは1947年10月3日メンフィス生まれ。1960年代初期に学校の仲間とバンドを結成。60年代半ばまでにメンバー変遷などを経て、バーケイズに。バーケイズはメンフィスのスタックス・レコードと契約。同レーベルのハウス・バンドとして活躍していたブッカーT&ザ・MGズのドラマー、アル・ジャクソン・ジュニアが彼らのことを気に入り、MGズに続くスタックス第二のハウス・バンドと育てるべく彼らの面倒をみた。

 

バーケイズのメンバーは多くのスタックス・シンガーたちのバックを、レコーディング・スタジオ、ライヴなどでも担当。オーティス・レディング、カーラ・トーマス、サム&デイヴなどのバックもつけた。

 

1967年夏からスタックスのナンバー・ワンR&Bシンガー、オーティス・レディングが彼らをツアー用バンドとして起用。そんなツアー中の1967年12月10日、オーティスの自家用飛行機で移動中、これが北部ウィスコンシン州マディソン近くの湖に墜落。このベン・コーリーを除くバーケイズのメンバーとオーティス・レディングの命を奪った。コーリーは、安全ベルトをしていなかったため、墜落時に飛行機から機外に投げ出され、湖でクッションにつかまっていた。他のメンバーは、ベルトをしていたために、飛行機から脱出できず機とともに湖に沈んだ。

 

またメンバーのジェームス・アレキサンダーは、飛行機の席がなく別の飛行機で移動したために助かった。

 

コーリーとアレキサンダーはその後、バーケイズを新しいメンバーを集め再結成。ラリー・ドドソンが新たなリード・ヴォーカルになり、ヒットを放つようになる。ただし、コーリーは1971年に2人の娘を育てるためにツアーの多いグループを脱退。地元での音楽活動に専念するようになった。バーケイズは、スタックス倒産後の1976年、メジャーのマーキュリー・レコード(現在はユニヴァーサルが権利を所有)と契約して以降、多数のヒットを放った。

 

代表ヒットは、スタックス時代に「ソウル・フィンガー」、アイザック・ヘイズの『ホット・バタード・ソウル』のバック全般、映画『ワッツタックス』、「ソン・オブ・シャフト」、マーキュリー以降は「シェイク・ユア・ランプ」、「ホーリー・ゴースト」、「ブギー・ボディー・ランド」、「フリーク・ショー・オン・ザ・ダンス・フロア」などなど。

 

バーケイズ自体は、1971年赤坂ムゲンのハコバンドとして初来日後、1986年頃渋谷ライヴ・イン、1996年「ファンク・フェスティヴァル」、最近では2006年10月、2008年7月に来日しているが、前述のように1971年にグループを脱退しているコーリーは帯同していなかった。

 

また、バーケイズは、日本のソウル・シンガー、ジェイ公山が一緒にレコーディングをしている。

 

コーリーの娘たちもバンドを結成、地元メンフィスのライヴハウスなどで活躍している。

 

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■バーケイズ過去記事

 

バーケイズ・ライヴ(パート1)~ファンク大爆発の夜
2008年07月31日
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10121887681.html

 

バーケイズ・ライヴ(パート2)~ファンク大爆発の夜
2008年08月01日(金)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10122258684.html

 

October 19, 2006
Bar Kays: Funk Explosion!! Sooooo Dynamite!!
http://blog.soulsearchin.com/archives/001339.html

 

October 23, 2006
Bar Kays: Integrity Of The Soul
http://blog.soulsearchin.com/archives/001343.html

 

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OBITUARY>Cauley Jr., Ben (October 3, 1947 – September 21, 2015, 67 year old)

 

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⑥ バーケイズ・ライヴに飛び入りしたジョン・ブラックウェル訃報

 

●ジョン・ブラックウェル43歳で死去~プリンスに愛されたドラマー
2017年07月06日(木)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12289966648.html

 

【John Blackwell Dies At 43】

 

訃報。

 

プリンスのニュー・パワー・ジェネレーションのドラマーとして活躍、その後さまざまなアーティストのサポートとして人気となったジョン・ブラックウェルが2017年7月4日フロリダ州の病院で死去した。43歳だった。

 

2016年6月来日時に体調不調を訴え精密検査をしたところ脳腫瘍が2つ発見され、帰国後手術をし、リハビリテーションをしているところだった。

ブログ バーケイズ ジョンブラックウェル 写真

ブラックウェルは日本の宇多田ヒカルなどのバックも担当していたことで、日本にも友人が多く、彼自身日本を愛していた。

 

評伝。

 

ジョン・ブラックウェル・ジュニアは1973年9月9日、サウスキャロライナ州コロンビア生まれ。父親、ジョン・ブラックウェル・シニアは1960年代から70年代にかけて活躍したソウル・アーティスト、メリー・ウェルズ、キング・カーティス、ジョー・サイモン、スピナーズなどのサポートをしていたドラマー。

 

幼少時から音感が鋭く、3歳頃からドラムスを叩き始め、高校時代にはパーフェクトピッチ(絶対音感)があったという。

 

17歳のとき(1990年頃)ビリー・エクスタインのバンドメンバーとなり、その後バークリー音楽院に進学、1995年にバークリーを辞めたあとファンク・グループ、キャメオに3年ほど在籍した。

 

1998年(24-5歳)、本拠をロスアンジェルスに移し、パティー・ラベールのバンドメンバーに。1998年のラベールのライヴ・アルバムにも参加、同作品はグラミー賞「ベスト・トラディショナル・R&Bヴォーカル」部門を獲得。ラベールがミネアポリスでライヴをしたときにプリンスと出会い、プリンスに気に入られた。

 

ブラックウェルは日本のR&Bデュオ、ダブルのツアー、さらに2000年5月には宇多田ヒカルのバンドメンバーともなり、日本にも長期滞在していた。

 

その後、宇多田ツアー終了後の2000年9月からプリンスのニュー・パワー・ジェネレーションのメンバーに。その後2004年後半までプリンス・バンドのメンバー。以来、2012年まで出たり入ったりしてプリンスおきにいりのドラマーとなった。

 

2003年のインスト・アルバム『N.E.W.S.』ほかプリンスのレコーディングにも参加。同作もグラミー「ベスト・ポップ・インスト・アルバム」部門にノミネート。

 

プリンスの他、ジャスティン・ティンバーレイク、メイズ・フィーチャリング・べヴァリー、さらに、ディアンジェロのバックバンド、ヴァンガードのメンバーともなり、売れっ子ドラマーとなった。

 

プリンスの作品では『レインボー・チルドレン』『ワン・ナイト・アローン・ライヴ』、『N.E.W.S.』、『ミュージコロジー』などにも参加している。

 

2016年6月末、ニック・ウェストのサポートで来日時、腕に力が入らず、ドラムスが叩けなくなり、途中からプリンスの思い出話などをした。翌日病院で調べると、脳腫瘍が2か所発見され、帰国後手術。リハビリテーションをしていた。

 

2017年7月4日、妻がフェイスブックなどSNSで死去を伝えた。

 

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■関連記事

 

バーケイズのライヴに飛び入り
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10122258684.html

 

翌日のダブルのライヴ
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10122617748.html

 

ニック・ウェスト2度目の来日~ジョンはプリンスの思い出話を披露
2016年07月04日(月)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12176981902.html

 

ジョン・ブラックウェル、手術無事成功~メディカル・ファウンドを継続
2016年07月24日(日)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12183257183.html

 

ジョン・ブラックウェルの後釜に選ばれたロナルド・ブルーナーについて

ロナルド・ブルーナー・ジュニア、プリンスについて語る (パート1)
2017年06月28日(水)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12287477588.html

 

ロナルド・ブルーナー・ジュニア、プリンスについて語る (パート2)
2017年06月29日(木)
http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12287608803.html

 

OBITUARY>Blakwell, John(September 9, 1973- July 4, 2017, 43 year old)

 

 

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ソウル・サーチン・ブログ運営・吉岡正晴

 

ANNOUNCEMENT>Support

ARTIST>Bar Kays 

 

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■小曽根真さん53日連続自宅からのライヴ完走、最終日はサプライズのオーチャードから

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■小曽根真さん53日連続自宅からのライヴ完走、最終日はサプライズのオーチャードから

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小曽根真さん『ウェルカム・トゥ・アワ・リヴィング・ルーム』、最終回をオーチャード・ホールから 6月20日、21日ブルーノートからも生中継

 

(本作・本文は約5000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、10分から5分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと17分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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■小曽根真さん53日連続自宅からのライヴ完走、最終日はサプライズのオーチャードから

 

【Makoto Ozone’s “Live From Living Room” Final Day Is Live From Orchard Hall】

 

サプライズ。

 

コロナ禍で自宅待機が続き、あらゆるライヴイヴェントなどがキャンセルとなっていた2020年4月9日から自宅リヴィング・ルームから連日生配信を続けていた『ウェルカム・トゥ・アワ・リヴィング・ルーム』の最終回が2020年5月31日(日)配信された。前日、「ちょっとしたサプライズがあります」と紹介されていたが、なんとこの日は渋谷のオーチャード・ホールからの生配信に。ステージ上に普段と同じリヴィング・ルームのセットが配置され、オーチャード・ホールという響きのある会場からの生配信となった。これには毎日配信を楽しみに見ていた視聴者さんも大驚きの大感激。

 

最初、配信が始まって「あれ、まさか、オーチャード?」と思ったのだが、そのまさかのオーチャードからの生中継だった。

 

当日動画はこちら


https://www.youtube.com/watch?v=YNNJdjrZtRg&list=PLzQ4UHvGRpnrZpeu6RderLxVWCnTAELSY

(生配信時は冒頭の音声が不調だったが、ユーチューブなどにアップされる際、音声の不具合は修正されている)

ブログ 小曽根おーちゃーど スクショ1 縦位置客席遠目

さすがにオーチャード・ホールの響きはすばらしく格別だった。ホールの天井の高さを存分に使った音作りがひじょうに効果的でインターネットの配信でもこれほどの音を出せるということに改めて感銘させられた。

オーチャード・ホールは収容人数約2000(椅子の設定で微調整される)だが、視聴者は配信が始まりすぐに1万人を超えた。無料であること、世界各地からの視聴者が集まってはいるのだが、極端な話、「オーチャード5デイズ」に相当するからすごい。終了後、ユーチューブにアーカイヴがのり、それもすでに2万の視聴を超えている。

 

 

音響、カメラ(ほとんどアイフォン)、照明などのスタッフも多く入り、まるでテレビ中継のよう。それにしてもアイフォンでこれだけの映像作れちゃうって、すごい。まあ、最近は映画にもアイフォンの映像がたくさん使われているようだが。

ブログ 小曽根おーちゃーど スクショ2 ピアノ、三鈴位置から

カメラも6台(?=ふだんは2台)入り、会場の照明も使われ、ひときわ贅沢なリヴィング・ルームになった。そしていつものリヴィングでの演奏同様、このオーチャードでも小曽根さんははだしでピアノを弾いていた。

 

そしてナヴィゲーター、ディレクターの奥様三鈴さんの進行もほほえましい。

 

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三条件。

 

そのピアノのすばらしさは上記動画をじっくり何度でも見て聞いていただくとして、このライヴ配信の「アンサング・ヒーロー」のひとり、音響をてがけた伊藤さんが今回の経緯などを書かれていたので、許可をもらいいくつか紹介したいと思う。

 

これまでにも小曽根さんのライヴの音響をてがけていた伊藤さんのもとに4月初旬、「コロナで何かできないか考えて家から配信しようと思う、やるならできるだけよい音でやりたい」と相談を受けたそうだ。

 

ただいくつか条件があった。それがこれ。

 

1) 同居している猫たちのためにピアノの屋根(ふた)は演奏後は閉めたい
2) マイクのセッティングは変えたくない。(エンジニアの伊藤さんが毎日行くわけにはいかないので)
3) 一方でマイクスタンドやミキサーなどの機材を設置したままにはしたくない

 

(写真・伊藤文善さん)

 

マイクに関してはいくつか候補をあげ、ピアノの屋根(ふた)にスモールダイヤフラムのマイクを設置した。これで、ほぼギリギリ屋根は閉められる。なんと最初はミキサーなしで2本のマイクをオーディオ・インターフェスに直接入力し、それをアイフォンにつなぎ配信を始めたという。その後2度アップデートし、最終的には無指向性のマイクにし、小曽根さんのトーク用マイクも設置し、足元でオン・オフをできるようにした。

 

最後の53日目は、オーチャードでそれらのピアノマイクに加え3点吊りマイク、トーク用にワイヤレスのピンマイクを借りた。

ブログ 小曽根 オーチャード1 伊藤写真 ピアノマイク

オーチャードの大きな空間に響く音を見事に拾い、それを整え、いい音で世界に配信した。パフォーマンスもいずれの作品も見事だったが、一度演奏して大好評だったマイケル・ジャクソンの「ヒール・ザ・ワールド」が再演された。オーチャードのヴァージョンも僕にとっては感無量だった。

 

ロス。

 

それにしても、観客のいないオーチャードに響くピアノの音色、しかし、それが配信で世界中に同時に届く。なんという贅沢なことか。

 

 

これが53日続き、多くのファンにとっては毎晩9時が一日の終わりの癒しのひとときになった。それが終わってしまうと、6月1日からまさに「小曽根ロス」になってしまう。

 

しばらくは、過去53本のアーカイヴを毎晩9時に見ることが習慣になりそうだ。

 

意義。

 

今回のこの53日連続自宅から配信は多くの意味を残したと思う。

 

第一に比較的簡単に誰でも自宅から配信ができるということ。それが大きな配信番組となり人気になったこと。配信でもいい音を拾い整えれば、いい音で配信できること。

 

第二にこの配信映像・音源に世界各地のミュージシャンたちが自由にコラボ映像・音源をアップできたこと。まさにクリエイティヴなコラボレーションが自発的に巻き起こったこと。

 

第三に、SNSのコメント欄などでわかるように、演者と視聴者との間にいい形の双方向性のコミュニケーションが形作られたこと。書き込まれた曲をその場でプレイする小曽根さんの音楽的許容量の広さ。これは生配信の超醍醐味だ。

ブログ 小曽根おーちゃーど スクショ1 縦位置客席遠目

ほんとにいいことづくめではないだろうか。

 

そして、このつらい良くないことばかりが報じられるコロナ禍の中で、唯一よかったことがこの「小曽根真自宅生配信」だったと思う。コロナのおかげでこうした配信が53日間も続いた、ということはまさに伝説を作りあげた。これだけは、「コロナ様様(さまさま)」だ。(笑)

 

なんか、こんごも週一か月一でも『ウェルカム・トゥ・アワ・リヴィング・ルーム』をやっていただけると、楽しいのだが。

 

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■セットリスト

 

May 31st, 2020 21:00 (JST) @オーチャード・ホール、渋谷・東京

 

Set List

Show started 21:00
01 "Gotta Be Happy" by Makoto Ozone 
02 "Triste" by Antônio Carlos Jobim
03 "Do You Know What It Means to Miss New Orleans?" by Eddie DeLange /Louis Alter, album “PURE PLEASURE FOR THE PIANO”(2012)
04 "Heal The World" by Michael Jackson
05 "Mirror Circle" by Makoto Ozone album” DIMENSIONS”(2017)
06 "Home" by Makoto Ozone : “THE TRIO” (1997)”WIZARD OF OZONE” (2000)”ALIVE!”(DVD) (2007)
07 Encore "Reborn" by Makoto Ozone : Album “REBORN”(2003) “BALLADS” (2008)
Show ended 22:15

 

All the song credits are written by Mitsuo Nakanishi (with support of Hiroshi Itsuno)

Recorded at "Orchard Hall" Shibuya, Tokyo, Japan

All the Song credits were written by 中西 光雄 (Mitsuo Nakanishi) (with support of Hiroshi Itsuno)


音響 Sound : 伊藤 文善, 植木 浩司
照明 Lighting: 岡田 勇輔
撮影 Video: 小川 弾
演出 direction: 神野三鈴Misuzu Kanno (Yuriko Ozone)


Special Thanks to Orchard Hall

 

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■ブルーノート東京でライヴ

 

そして、小曽根さん、なんと6月20日(土)、21日(日)東京ブルーノートでライヴ敢行が決定した。しかも、有料でライヴ配信も予定されている。詳細は次の通り。

 

https://bit.ly/2MFVu8x

2020.06.03
【新規公演決定】MAKOTO OZONE "Solo" & "with friends" featuring Issei Igarashi (6.20 sat.), Eijiro Nakagawa (6.21 sun.)
2020 6.20 sat., 6.21 sun.
【MAKOTO OZONE "Solo" & "with friends" featuring Issei Igarashi (6.20 sat.), Eijiro Nakagawa (6.21 sun.)】
 自宅からのライヴ配信が大きな話題に
 世界的ピアニストの最新ステージ

[会場でのご観覧] ¥8,800(税込)
 
Jam Session会員予約受付開始日:6.10 wed.
一般Web先行予約受付開始日:6.11 thu.
一般電話予約受付開始日:6.12 fri.

 

会場・ブルーノート東京
107-0062
東京都港区南青山6-3-16
電話03-5485-0088

 

[配信でのご観覧]


一般:¥3,500(税込)
Jam Session会員:¥2,500(税込)

【BLUE NOTE TOKYO】MAKOTO OZONE自宅からのライヴ配信が大きな話題に!世界的ピアニストの最新ステージ。www.bluenote.co.jp


http://www.bluenote.co.jp/jp/artists/makoto-ozone/

ぴあ、イープラス、ZAIKOなどでオンライン用チケットの購入が可能。海外からは、ZAIKOへ。

ZAIKO

小曽根真 "Solo" & "with friends" featuring 五十嵐一生 (6.20 sat.), 中川英二郎 (6.21 sun.)小曽根真 "Solo" & "with friends" featuring 五十嵐一生 (6.20 sat.),bluenotetokyo.zaiko.io


https://bluenotetokyo.zaiko.io/e/makoto-ozone

ぴあ

 

 


https://t.pia.jp/pia/ticketInformation.do?eventCd=2018811&rlsCd=001

イープラス

小曽根真 ”Solo” & ”with friends” featuring 五十嵐一生 (6.20 sat.) & 中川英二郎 (6.21 sun.)のチケット情報(Streaming+) - イープラスStreaming+で行われる小曽根真 ”Solo” & ”with friends” featuring 五十嵐eplus.jp


https://eplus.jp/sf/detail/3287730001-P0030001

 ※有料配信のチケットご購入は外部チケットサービスからとなり、ブルーノート東京では電話/WEBともにご予約はお受けいたしません。

 

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オリジナルはソウル・サーチン・ブログ
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〇『アイ・ガット・リズム 音楽が生まれる時』~ビル・ウィザース物語(第二回)放送始まる

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〇『アイ・ガット・リズム 音楽が生まれる時』~ビル・ウィザース物語(第二回)放送始まる

 

【Second Episode Of “Bill Withers Story” In “I Got Rhythm” On Air This Week On JFN FM Stations】

 

(本作・本文は約2500字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、5分から3分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと8分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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■『アイ・ガット・リズム 音楽が生まれる時~ビル・ウィザース物語』第二回の放送日・局

 

【I Got Rhythm – When Music Is Born ~ Bill Withers Story Part 2】

 

第二回。

 

JFN系列で毎週放送されている音楽番組『アイ・ガット・リズム 音楽が生まれる時』ビル・ウィザースの世界、の第二回(番組通算第63回)が2020年6月8日の週から始まっている。トップバッターは、6月9日(火)のFM新潟で、その放送分(25分版)がラジコのエリアフリー/タイムフリーで聴取可だ。

 

 

ラジコのタイムフリーでの聴取。一回目は、2020年6月2日、5日~7日にかけて、全国各地のFM局で放送されました。それらが、ラジコのエリアフリー、タイムフリーで放送日から約1週間聴取可能です。こちらに、一覧があります。

 

2020年6月9日FM新潟で放送分第二回『遅咲きの新人、ブレイクへ』のエリアフリー/タイムフリー

http://radiko.jp/#!/ts/FMNIIGATA/20200609113000

 

第2回はビル・ウィザースが「エイント・ノー・サンシャイン」の大ヒットでブレイクしてからの時期にフォーカスします。

 

ちなみに、この番組の前テーマとなっているビル・ウィザースの「ラヴリー・デイ」のカヴァーのインストゥルメンタルは、我らがマサ小浜のヴァージョンです。

 

また第一回は、第二回放送まで、次の局のタイムフリーで聴取可能。

 

その他の放送局、ページ1から4まで。

http://radiko.jp/#!/search/timeshift?key=I%20Got%20Rhythm&filter=&start_day=&end_day=&region_id=all&area_id=JP14&cul_area_id=JP14&page_idx=0

 

今回の放送に連動し、放送で語りきれなかったさまざまなエピソードで記された『ビル・ウィザース物語』のパート1と2がすでに「ソウル・サーチン・ブログ/ノート」に掲載されています。番組のおともにぜひごらんください。

 

ビル・ウィザース物語(パート1)」

https://note.com/ebs/n/nfada9bf816d2

 

 

 

ビル・ウィザース物語(パート2)

https://note.com/ebs/n/n6fcea949dbcd

 

 

 

 

番組ホームページはこちら

https://park.gsj.mobi/news/show/67191

 

 

第一回放送分・選曲リスト・内容・後記
​​​​​​​https://park.gsj.mobi/news/show/67193

 

各局の放送日、放送時刻は次の通り。

 

JFN系列24局ネット『アイ・ガット・リズム 音楽が生まれる時』~ビル・ウィザースの世界、放送日時・放送局は次の通りです。

 

いずれも2020年。例えば6/7は6月7日。放送日の早い順に並べました。番組名は『I Got Rhythm 音楽が生まれる時』。なお25分番組として放送する局と30分番組として放送する局があります。できれば、30分番組をお聞きいただけると幸いです。30分局に★をつけました。お住まいの地区の放送局があればそちらでお聞きください。

 

【2020年6月9日火曜・放送(特記ない限り基本は以降同曜日同時間に放送】

 

FM新潟 11:30~11:55(火)6/2~再放送6/6(土)21:30~55

https://www.fmniigata.com/

(以降毎週火曜午前11時30分~、再放送毎週土曜21時30分~)

 

【2020年6月12日金曜・放送】

 

福島エフエム 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)

https://www.fmf.co.jp/pc2/

FM群馬 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)

https://www.fmgunma.com/fmg863/

FM熊本 6/5、6/12、6/19、6/26、7/3 11:30~11:55(金)※6/5~

https://fmk.fm/

 

【2020年6月13日土曜・放送】

 

★FM長野 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 5:00~5:30(土)

http://www.fmnagano.co.jp/

★FM大分 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 7:30~8:00(土)

http://www.fmoita.co.jp/

FM山口 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)

http://www.fmy.co.jp/

FM佐賀 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 11:30~11:55(土)

http://www.fmsaga.co.jp/

★FM福井 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 12:25~12:55(土)

https://www.fmfukui.jp/docs/

FM高知 (Hisix) 6/6 12:30~12:55(土)※第1週のみ

   6/25 20:30~20:55(木)最終週のみ?

http://www.fmkochi.com/

FM広島 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)

http://hfm.jp/

仙台 Date FM 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 18:30~18:55(土)

http://771.fm/smp/

★FM長崎 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:00~20:30(土)

https://www.fmnagasaki.co.jp/

★FM香川 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 20:25~20:55(土)

https://www.fmkagawa.co.jp/

★FM宮崎(JOY FM) 6/6、6/13、6/20、6/27、7/4 27:30~28:00(土)

http://www.joyfm.co.jp/

 

【2020年6月14日日曜・放送】

 

★FM徳島 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 6:00~6:30(日)

https://fm807.jp/

★FM岩手 6/7、6/21、7/5 8:00~8:30(日)※第1、3、5週 のみ放送

http://www.fmii.co.jp/

★FM石川 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 8:00~8:30(日)

https://hellofive.jp/

★FM山形 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 9:00~9:30(日)

http://www.rfm.co.jp/

FM鹿児島 6/7、6/21 9:30~9:55(日)※第1、3週のみ放送

https://www.myufm.jp/

三重(レディオ・キューブ) 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 18:30~18:55(日)

http://fmmie.jp/

★栃木 Radio Berry 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 19:00~19:30(日)

http://www.berry.co.jp/

★FM山陰 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 24:00~24:30(日)

http://www.fm-sanin.co.jp/

★FM大阪 6/7、6/14、6/21、6/28、7/5 27:30~28:00(日)

http://www.fmosaka.net/

 

全24局ネット。各局のエリアフリー、タイムフリーで何度でも聴取可能です。

 

 

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■5回のテーマ

 

ここでは、その5回のテーマなどを簡単に紹介しましょう。

 

1回 ビル・ウィザース『炭鉱の街、スラブ・フォークに生まれて』(6月2日、6月5日~7日放送)(番組通算第62回)

2回 ビル・ウィザース『遅咲きの新人、ブレイクへ』(6月9日、6月12日~14日放送)

3回 ビル・ウィザース『ソングライターとしての匠』(6月16日、6月19日~21日放送)

4回 ビル・ウィザース『客演で光り輝くパフォーマンス』(6月23日、6月26日~28日放送)

5回 ビル・ウィザース『頑固一徹:音楽業界への決別』(6月30日、7月3日~5日放送)

 

 

1回目は、主としてビル・ウィザースの簡単なキャリア、出生からデビューまで。

2回目は、「エイント・ノー・サンシャイン」以降、ヒットを連発しブレイクしていく様子を。

3回目は、ビル・ウィザースのソングライターとしての魅力にフォーカスして。

4回目は、ビルが客演した作品のいくつかを。

5回目は、レコード会社と対立し、契約終了とともに音楽業界自体を引退するあたりを描きます。

 

DVD スクショ ビル・ウィザース スラブフォーク看板 jpeg

 

いちおう各回単体として独立し、いわゆる「一話完結」方式になっています。

 

セットリスト(かけた曲リスト)は、全回終了後、BGMも含めてお知らせします。

 

第一回(通算62回)『炭鉱の街、スラブ・フォークに生まれて』でかけた曲、お話した内容がほぼすべてこちらの番組ホームページに掲載されています。

 

#62『I got rhythm 音楽が生まれる時』 概要と選曲リスト

2020/6/5 (金)16:30

 

I Got Rhythm~音楽が生まれる時|#62『I got rhythm 音楽が生まれる時』 概要と選曲リスト |JFN PARK

<番組のトーク・パート(概要)と選曲リスト>  今月は、「ビル・ウィザースの世界」と題して、このコロナ禍でも強力なメッセ

park.gsj.mobi

 

https://park.gsj.mobi/news/show/67193

 

 

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◎「自由か死か」究極の選択をし続けるハリエット・タブマン~映画『ハリエット』を見て

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「自由か死か」究極の選択をし続けるハリエット・タブマン~映画『ハリエット』を見て

 

5人。

 

1822年から1913年まで実在した黒人女性、ハリエット・タブマンの壮絶な生涯を描いたドキュメンタリー・タッチの評伝映画『ハリエット』。

 

映画『ハリエット』本予告_6月5(金)全国ロードショーアメリカでは誰もが知る実在の奴隷解放運動家、ハリエット・タブマンの激動の人生! 奴隷として生まれた女性が、たった一人で自由www.youtube.com

 

数日前に、昨年(2019年)僕の『ソウル・サーチン・ラウンジ』にゲストで登壇し、ニューヨークのクラブ/ディスコ事情、ブラック・カルチャー事情などを現地での体験をベースに詳しく語っていただいたドクター小山から久しぶりにメールが来て、「吉岡さん、『ハリエット』見ました? すごいですねえ。暴動が起き、『ハリエット』を見て感じたことが超繋がって感じてます。黒人差別問題の答えと解決策には『ハリエット』を見ることが一番だと思いますが、どう思います? (映画に感動して)久々に映画のパンフレット買ってしまいました」とあった。

 

そこでさっそく六本木ヒルズの映画館に出向いた。昼の回ということもあってか、キャパ(収容人数)300超のところに客は僕を含めて5人。さすがにまだ映画館は人が少ないようだ。これなら何かコロナが移る可能性は低いだろう。

 

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自由。

 

今年のアカデミー賞主演女優賞にノミネートされたシンシア・エリヴォの圧巻な演技がすばらしかったが、なにより映画というよりも、この主人公となったハリエット・タブマン(1822年~1913年)という人物が200年も前に実在し、本当にこのような奴隷解放を手助けしたという事実そのものに感銘を受ける。一体どれほどの信念を持ち、あれほど危険な脱出を実行しようと考えるのか。あんな不屈の精神をもった女性、人間を見たことはない。その意味で、彼女にフォーカスしたという点でこの映画の半分以上は成功だろう。

 

映画オフィシャル https://harriet-movie.jp/

 

映画 ハリエット2 シンシア・エリヴォ

(ミンティ―、のちにハリエット、シンシア・エリヴォ)

 

それにしても、何度も自分の家族を奴隷から解放しようと南部から北部の奴隷制度が終わり自由州となっていたフィラデルフィアに連れて行こうとする。その根性はすごい。

 

奴隷であることと自由であることの、その天と地の差。それは我々の想像を絶する。そもそも人権という概念がそこにはない。奴隷は単純に奴隷主の所有物。

 

それにしても同じ黒人でも「自由黒人」と「奴隷」の差はあまりに大きい。映画は二時間を超えるが、はらはらドキドキが続き、本当に息をつく間もない。

 

映画 ハリエット4 ジョー・アルウィン ギデオン(息子役)

(執拗にハリエットを追う奴隷主ギデオン)

 

「自由黒人」という言葉、概念を知ったのは以前映画『それでも夜は明ける』(2013年)だった。

 

今回の『ハリエット』はどうしても時系列をていねいに追うだけ、起承転結がステレオタイプに陥りそうになる。そのあたりが、アカデミーで「作品賞」に入らなかった要因なのか。

 

しかし、彼女が常に追いつめられると必ず「自由か死か」という究極の選択を迫られるが、その運命の分かれ道で必ず結果的に正しい道を選んできたところは、本当に神の導きがあったといえ奇跡の人物だと言わざるを得ない。

 

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ディープ。

 

この『ハリエット (原題 Harriet)』は2019年9月のトロント映画フェスで初公開され、その後、11月1日から全米で公開された。

 

主演のシンシア・エリヴォ―は歌手としても今年ミュージカルで来日していたが、残念ながら僕は予定があわず見られなかった。この演技を見ていたら予定を変えて見に来ただろう。(笑)

 

予算1700万ドル(約18億7千万円)で制作され、すでに4330万ドル(47億6千万円)の興行収入を獲得している。

 

舞台は1840年代の奴隷が一部の州では廃止されていた時期。

 

ハリエット(ミンティ)が大変な長い距離の逃亡し、自由の国(州)フィラデルフィアに到着するとそこに「自由黒人」の宿主が現れた。それが美しい女主人、マリーだった。これを演じるが、最初一瞬ハル・ベリーかと思ったが、なんとそれはジャネル・モネイだった。登場人物の中でもひときわ美しかった。彼女はハリエットの良き理解者となり、ハリエットがもつ人並みはずれた能力を知る。

 

映画 ハリエット3  シンシアとジャネル・モネイ

(左・エリヴォ、右・ジャネル・モネイ)

 

自分が逃亡を成功させると彼女はもう一度戻って残された家族を連れ戻そうと画策する。果たして家族は自分が体験した過酷な逃亡の旅に耐えられるのか。

 

それにしてもここで描かれる「自由黒人」と「奴隷」の身分の差に慄然とする。そして、彼女が何度か声高に言う「自由か死か」は、あの時代に究極の選択だった。しかし、それはジョージ・フロイド殺害から再度巻き起こった「ブラック・ライヴズ・マター(黒人の命も大事)」に続く。

 

一昨年(2018年)見た『デトロイト』、2014年日本公開の『それでも夜は明ける』、2020年の『黒い司法』などと並んで、黒人が置かれている状況の過去・現在・未来を描いている。そして、ハリエットのような信念を持った人物がいたからこそ、現在ジャネル・モネイが大きなロック・フェスで活躍できるのだとつくづく思う。

 

歴史はずっと何百年も続いている。だからこそ、この映画はその長い時間分重い。

 

■参考資料

 

映画『デトロイト』~2018年1月日本公開~1967年の暴動を50年後に描く衝撃作(1)
2017年11月20日(月)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12329704810.html

 

映画『それでも夜は明ける(12 Years A Slave)』パート1~それでも僕は推薦する
2014年03月07日(金)
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11789200022.html

 

映画『黒い司法』
https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12576845421.html


ENT>MOVIES>Harriet

ENT>ARTISTS>ERIVO, CYNTHIA


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https://note.com/ebs/n/nc7f05be405c9

 

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ENT>MOVIES>Erivo, Cynthia 

 

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