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■■「ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ」004 ■■ 「ジェームス・ブラウンとチキンを食べ

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■■「ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ」004 ■■ 「ジェームス・ブラウンとチキンを食べた」 (ジェームス・ブラウン・パート2)

 

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(本作・本文は約7000字。黙読ゆっくり1分500字、早い人で1分1000字換算すると、14分から7分。いわゆる「音読」(アナウンサーは1分300字くらい)だと24分くらいの至福のひと時です。お楽しみください)

 

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ジェームス・ブラウンは2002年に続いて2003年にも来日した。僕と勝本さん(全国ディスコ協会会長、ジェームス・ブラウンの盟友、1996年にともにブラウン邸を訪問している。2007年5月逝去)はライヴを見た後、ミスター・ブラウンの滞在先のホテル(ニュー・オータニ)でご一行を待っていた。

 

ロビー入口あたりで待っていると、ご一行が戻り、なんと「一緒に飲もう」ということになった。

 

そのときのことを2003年10月6日付けと10月7日付けブログに書いた。これも個人的にはすごく好きなストーリーなので、2本に若干加筆してまとめてお送りする。

 

なお、この前に、1996年1月のジェームス・ブラウン邸訪問の記事、2006年最後のライヴとその周辺の記事、訃報ブログなど、ミスター・ブラウンからの電話などもあるので、ジェームス・ブラウン関連記事はほかにもまとめたい。

 

本作のタイトルは、「アイ・エイト・チッキン・ウィズ・ジェームス・ブラウン(パート1)&(パート2)」(I Ate Chicken With James Brown (Part 1) & (Part 2)」。エンジョイ、グッゴー。

 

 

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I Ate Chicken With James Brown (Part 1)

 

30年。

 

2003年10月2日(木曜)のライヴが終わった後、勝本氏と「どうする?」という話になり、「まあ、とりあえず、ホテル(ニューオータニ)行きましょうか」ということになった。一足先にホテルに向かい、入口近辺のコーヒーハウス(サツキ)でお茶しながら、ミスター・ブラウンの帰りを待つことにした。しばらくすると、ご一行が戻ってきた。するとブラウンがこちらを見つけ、近寄ってきた。ひとことふたことあり、なんとそのコーヒーハウスで軽く飲もうということになった。まあ、予想外の展開というか。かなり焦った。

 

こちらサイド(勝本氏、僕、勝本氏の友人たちで数名)、ブラウン・サイド(ミスター・ブラウン、トミー・ブラウン=奥さん、社長、マネージャー)で12人くらいのグループでお茶をする。席は大きな丸いテーブルに全員が座る形で、トミー、ミスター・ブラウン、勝本氏、そして、僕。で、勝本氏の言うことを僕が訳して伝え、その返りをまた日本語に訳すという通訳状態になる。

 

だいたいが、昔話になる。「30年前、君たちはもっと若かったな。オレは君たちが成長していくのを見てるからな。30ロング・イヤーズ・・・」というミスター・ブラウン。トミーやスーパーフランク社長(白人の長髪の人物で、ステージで最後にブラウンと一緒に踊った人)に、「彼とは30年前から知ってるんだ。彼はオレそっくりに踊れるんだよ」などと話している。社長はこの1年くらいで、ブラウンのマネージメントをてがけるようになったので、来日は初めて。(註、勝本氏とミスター・ブラウンは初来日の1973年以来親交を深めた。1970年代にブラウン邸を訪問、1991年に二度目の訪問をした。来日時には必ずライヴなどに同行。ときにはステージにあげられ、一緒に踊りを披露することもあった)

 

ブラウン宅には勝本氏とミスター・ブラウンの30年前(1973年初来日時)のツーショットの写真が飾られている。だから、いつでも、ミスター・ブラウンはその話を持ち出す。「昔は、おまえはこ~~んな大きなアフロヘアーだったよな。ははは」

 

「シャンペーンでも飲むか?」とミスター・ブラウン。「いやいや、おかまいなく」と遠慮する日本サイド。でも、結局頼まれた。(←敬語使い) 少しずつ全員に注がれると、ミスター・ブラウンとトミーが「何に乾杯しましょうか。じゃあ、みんなの健康に」と言い、「かんぱ~~い(cheers)」となった。再び「30ロング・イヤーズ!」 この日、何度この言葉を聞いたことか。

 

ミスター・ブラウンは「腹は減ってるか? なんでも頼んでくれ。オレのおごりだから」と言う。昔、なぜかその一行にまぎれて一緒になった勝新太郎さんに同じことを言われたのを思い出した。なんだか、一瞬、ミスター・ブラウンと勝さんがだぶって見えた。どちらも、親分肌で、超豪快な人物である。そして、どちらも愛すべき人物であり、一緒にいるとその場ですぐに「大ファン」になってしまうようなキャラクターの持ち主だ。

 

ミスター・ブラウンたちは、若干おなかが減ったのかフードをオーダーする。どうやらフライド・チキンをオーダーしたようだ。ミスター・ブラウンが今2歳の息子の写真を見せてくれる。トミーが言う。「2001年6月11日に生まれたの」 「名前は?」 ミスター・ブラウンが答える。「ジェームス・ブラウン・セカンドだ」 「オ~~、イエ~」 それから、また別の写真を見せてくれる。「うちの池で釣れた魚だ」とミスター・ブラウン。どうやら、バスらしい。「釣りはなさるのですか?」「う~~ん、習っているところかな。池に、どんどん(魚を)放ってるんだ」(註、ということは、この二世はジェームス・ブラウンが68歳のときの子供ということになる。上の兄とは40歳から50歳近く年齢が離れている。第一子は1954年生まれのテディ―。ただ1973年に交通事故で死去。もちろん、すでに孫もいる) 

 

~~~

 

神。

 

僕は誰もが思う疑問を尋ねた。「今日のステージを見て、とても70歳には見えませんでした。本当にお若いですねえ。その若さの秘密はなんなんですか」 ミスター・ブラウンは僕の目を見て、黙って人差し指で天井を指した。そして、いつものように訛りの強い英語で答えた。「神だよ。神がオレに力を与えてくれるんだ」 

 

横に座っていたトミーが、「先日、日本で一番長寿の女性が亡くなったんですって」と話をふってきた。「ああ、そういうニュースがありましたね」「日本人はみな長寿なんでしょう?」 「え~確かに」

 

そこで、僕はミスター・ブラウンが昔、自分は200歳まで生きると言っていた発言を思い出した。「ミスター・ブラウン、その調子だったら、本当にあと何十年もライヴができますね。僕はあなたが昔おっしゃっていた200歳まで生きるという言葉が大好きなんですよ」 (正確には、ジェームス・ブラウンは、「オレは200歳マイナス1日まで生きるんだ」と発言していた。それだけ長くファンクの伝道師を続ける意欲を示したものとして受け取られていた。僕はそれを単純に「あなたは200歳まで生きると言っていた」ということを持ち出した)  「よ~く覚えてるな。(笑) すばらしい記憶の持ち主だな。だがな、オレは君たちに200歳まで生きて欲しいと思っている。それで、オレは200歳マイナス1日だけ生きるんだ。そうすれば、君たちのようなすばらしいフレンド(友達)の死を見ずにすむからな」 「オオ、イエ~」 ほとんど、ゴスペルの説教の相槌みたいになる! (こんな会話、テープに取りたかった!) ミスター・ブラウンのその言葉を日本語に訳すと、座っていたみんなから思わず拍手が巻き起こった。

 

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チキン。

 

しばらくしてフライド・チキンが何皿かやってきた。僕たちは遠慮して、フードはオーダーしなかった。というか、とてもミスター・ブラウンの前で何かを食べるという余裕がなかったのだ。(笑) ミスター・ブラウンはかなりの量の塩と胡椒をチキンの上に振りまく。すると、そのチキンの乗ったプレートをさして、「どうだ?」という。「だいじょうぶです、ありがとうございます」と答えるが、ミスター・ブラウンがフォークにチキンを刺し、こちらに手渡してくれるので食べないわけにはいかなくなる。

 

まず勝本氏が食べる。「あちっち」と勝本氏、落としそうになる。次に僕に手渡される。ミスター・ブラウンじきじき手渡しのチキンをじっくり味わう。しかも、テーブルの一番向こう側までミスター・ブラウンはわざわざ歩いてチキンを持っていったのだ。もちろん、その彼は大感激だ。

 

「どうだ?」 「ありがとうございます。とてもおいしいです」 「そうか、じゃあ、君はこんな曲が書けるんじゃないか。 I ate chicken with James Brown(オレはジェームス・ブラウンとチキンを食べた)」 「オオ、イエ~。アイ・エイト・チッキン・ウィズ・ジェームス・ブラウン。いいタイトルですね」 僕がそのタイトルを2-3度繰り返して言う。 「う~む、I ate chicken with James Brown, Papa's got a brand new bag, おおお、メイクセンスするな」とミスター・ブラウン、ご満悦。この並びがなんでメイクセンス(理に適う)なのか、どうも英語力の乏しい僕にはよくわからないのだが・・・。(おそらく英語ができてもわからないのだろう) でも、きっとミスター・ブラウンの中ではメイクセンスしているのだ。

 

ジェームス・ブラウンの曲のタイトルは、ちょっと日本人にはわかりにくいタイトルが多い。直訳しても意味不明な作品もある。おそらくアフリカン・アメリカンにとってはよく使われるスラングなどで直感的にわかるのだろうが、われわれ外国人には意味が辞書にでていないために理解不能なものもあるのだ。またミスター・ブラウンがストリートの言葉をたくさん使っているためにわれわれにはなかなかわからないものもあるのだと思う。それはさておきミスター・ブラウンが曲のタイトルを決める時ってこんな風に決めるのかな、とふと感じた。ミスター・ブラウンも2-3度「I ate chicken with James Brown, Papa's got a brand new bag」と言うと、それだけで、レストランでさえもソウル・ジェネラルがダダダッダと演奏を始めそうな空気になった。

 

「ミスター・ブラウンとディナーを食べたよ」と友人に自慢気に話すと「何、食べたの?」と返ってきた。「僕はミスター・ブラウンとチキンを食べたよ」。彼は一言言った。「それこそ、ほんとのファンキー・チキンだな」

 

ENT>MUSIC>INT>BROWN, JAMES

 

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2003/10/07 (Tue)

I Ate Chicken With James Brown (Part 2)

 

御言葉。

 

ミスター・ブラウンの独演会は続く。しばらく前にサウスキャロライナ州に大きな自宅を購入したという。そこでミスター・ブラウンとトミー・レイの結婚式が行われた。トミーが言う。「大々的に結婚式をやったの。3-400人は招待客が来たかしら。もっとも招待状を持ってない人も、どういうわけか、やってきたみたいなんだけどね(笑)」  2001年12月のことだ。

 

そこで、またまたミスター・ブラウンは勝本氏に「結婚はどうした」と尋ねる。たまたま勝本氏は「3度目の離婚をした」と答える。「おお、そうか。じゃあ、なんだ、前回会ったときのワイフはいないのか」 勝本氏、テレながら「ええ」 そして、勝本氏が僕にこう耳元でささやく。「ブラウンに、あなたの真似をしてるんです、って言ってくれ」 「えええ? どう訳せばいいんだ(笑)  う~~ん、わかった」 

 

僕はミスター・ブラウンにこう伝えた。「彼は3度結婚し、3度離婚した。あなたの後を追ってると言ってます。(He said he follows you)」「なに、He follows me?  (爆笑)」 そして、横のトミーと社長に、その話を伝えて、また、連中が大笑いとなる。そして、ミスター・ブラウンはまじまじと勝本氏の顔を見つめる。

 

そして、ひじをついて左手に持っていたフォークを振りながら、こう言った。ミスター・ブラウンはレフティー(左利き)なのだ。 「オレの母方にはインディアンの血が流れている。そして、父方にはオリエンタルの血が流れている」  

 

実はこの時の「Oriental」という言葉の発音が何度聞いても聞き取れなく苦労した。そして、そこから導かれる結論はこうだ。「いいか、だからなんだ、そういう血筋があるから、オレは頭が全然禿げないんだ」 そういって人差し指で自らの頭を指す。たしかに頭はふさふさだ。「そうかあ、じゃあ、かつらじゃないんだ~~」と心の中でつぶやいた。間違ってもそんなことは口にはだせない。う~~ん、メイクセンスしているといえばしているし、していないかもしれない。だが、ミスター・ブラウンが「オリエンタルは禿げない」と言えば、そうなのである。「神の言葉」だから。(日本人にも髪の毛が薄くなっている人はたくさんいるのだが、そんなことは到底言えない)

 

~~~~~

 

ID。

 

食事が一段落したところで、僕はミスター・ブラウンに尋ねた。「ミスター・ブラウン、実はお願いがあるんですが。ラジオ番組用のIDをいただきたいんですが」 「もちろん、いいとも」 「ありがとうございます」 すぐに僕はしゃべってもらう言葉を紙に大きい字で書いた。それでも字は見づらいらしく、番組名などをもう一度口頭で伝えた。ミスター・ブラウンはいくつかヴァリエーションを作ってやってくれた。感激だ。それだけでなく、横のトミー・レイにも同じことをやらせた。さらにちょうどそこにやってきていたミスター・ブラウンの息子ダリル・ブラウン(ギター)とドラムスのロバート・マウシー(Robert “Mousey” Thompson)にも同じようにやれ、と指示を出す。このIDには、コーヒーハウスの喧騒の音も入っている。まあ、これも雰囲気ものだ。「ソウル・ブレンズ」用、「フィールン・ソウル」用などをとった。

 

周りの連中がミスター・ブラウンと写真をとり始めた。機嫌よくカメラに収まる。最近はみな携帯電話でも写真をとれるようになったので、携帯を取り出す者も多い。かく言う僕も携帯でしっかりツーショットをとってもらった。だが、この時とったモードでは待ち受けにできない。まだ使い方をしっかり把握していないのだ。残念。

 

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2日連続。

 

さて10月2日に続いて、3日もまったく同じように同じカフェでほぼ同じ時間に同じようなメンバーで食事とあいなった。4人の席次も同じだ。トミー、ブラウン、勝本、僕。

 

前日にデジカメで写真をとった勝本氏の友人がいて、その人がはやくもプリントアウトした写真を持ってきていた。1枚はミスター・ブラウンと勝本氏、もう1枚はミスター・ブラウンと僕の写真だ。きれいにとれている。ミスター・ブラウンが言う。「これと同じ写真を2枚ずつ大きく引き伸ばしてくれないか。うちに飾るんだ」といいながら、これくらい、と腕で大きさを示す。

 

そして、思わぬ展開となった。その普通サイズの2枚の写真をまざまざと見てミスター・ブラウンは、僕たちに言った。「この写真に、君たちのサインをくれ」 「おおおおっ」 思わず、勝本氏と顔を見合わせる。「マジカヨ」という表情。サインをくれ、と言われて、サインをしないわけにはいかない。なぜなら神の言葉だからだ。マジックでさらさらとサインをした。「To Mr. Brown...」 えらいこっちゃ。

 

この日のミスター・ブラウンのメニューはビールとチーズ盛り合わせと魚介のフリッターのようなものだった。ミスター・ブラウンは塩胡椒が大好きということが判明した。ビールにまで胡椒をばんばん振っていた。ビールにまで!

 

「ミスター・ブラウン、前回の来日よりおやせになったようですが」と僕は尋ねた。トミー・ブラウンが答える。「数ヶ月前とても体調が悪くてね。バリウムで浣腸をしたの。ただちに20ポンド(約9キロ)体重が減り、それ以来非常に健康になったの」と言う。プログラムに映っている昔の写真と比べて、「この頃よりあごのところがやせているだろ」とミスター・ブラウンは言う。なるほど、そうだったのか。やはり、今回の来日は前回よりやせた印象があった。しかし、動きなどを見る限り非常に健康のようだ。

 

ちょうど、プログラムがでたところで、映画 『ゲロッパ』 の話になった。「ミスター・ブラウン、映画 『ゲロッパ』 (Get Up)はごらんになりましたか?」 「いいや。なんだ、それ?」 「ミスター・ブラウンにまつわる映画なんですが。あなたが『ミソッパ』と言ってCMをやられていた映画です」 「わからんなあ」 僕と勝本氏は小さな声で言う。「どうなってんだろう。知らないのかなあ」 そこで、僕はプログラムに印刷されている映画のCMページを見せて少し説明した。

 

(註:『ゲロッパ!』は2003年8月に公開された井筒和幸監督による映画。やくざの親分(西田敏行)が収監前になんとかジェームス・ブラウンのコンサートに行くという夢をかなえようとするコメディー映画。勝本氏は西田さんらに踊りの指導などをした)

 

「・・・そして、俳優の西田敏行が『セックス・マシーン』を歌うんです・・・」 「おお、そうか? 彼はシンガーか?」 「いいえ、俳優です」 勝本氏「最初は西田さんで撮影したんですが、どうしても足の部分をミスター・ブラウンのように動かせないんで、結局、僕が吹き替えでやったんです」 「おお、そうか」とミスター・ブラウン、満面の笑み。ジェームス・ブラウンといえば、あの華麗な足さばきを見ずして語るなかれ、である。

 

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アポロ。

 

しばし雑談があり、ミスター・ブラウンが来る11月にアポロに登場する話を聞きたかった。「ミスター・ブラウン、あなたは来る11月にニューヨークのアポロ劇場に登場しますね。アポロでやるということはあなたにとって、特別な意味があることですか」 「もちろんだ。アポロがあるところは、かつては貧しい人たちが住んでいた。オレはそこに行って演奏した。彼ら、貧しい人々のためにな。だから特別(な場所)だ。今、オレがこうしていられるのも、神のご加護があったからだ」

 

なんだか、アポロのジェームス・ブラウンが無性に見たくなってきた。ミスター・ブラウンは、依然日本列島縦断中である。

 

(このときはこのあと、名古屋と札幌でのライヴを敢行した。そして、これに続いて2006年3月、ミスター・ブラウンは来日するが、それが最後の来日となってしまう)

 

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追記:

 

このアポロでのライヴは、2003年11月21日と22日に行われた。ジェームス・ブラウンが初めてアポロでのライヴを録音したのが1962年、これは紆余曲折あり1963年全米リリースされ、アメリカ・ソウル・ミュージック史上未曽有のベスト・セラーとなった。ソウルのライヴ・アルバムがここまでベスト・セラーになったことはのちのソウル関係のアルバム、ライヴ・アルバムのリリースへ大きな影響を与えることになった。ちょうど2003年はその『ライヴ・アット・ジ・アポロ』がリリースされてちょうど40周年にあたった。ミスター・ブラウンはアポロでのライヴを1963年以降、1968年、1971年、1995年と計4回録音している。

 

ENT>MUSIC>INT>BROWN, JAME

 

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■■「ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ」005 ■■ ジェームス・ブラウン自宅訪問記 

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■■「ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ」005 ■■ ジェームス・ブラウン自宅訪問記 (ジェームス・ブラウン・パート3)

 

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ドン勝本さん。

 

1972年頃から六本木のソウル・ディスコ「エンバシー」のマスターとして活躍し、その後、ジェームス・ブラウンに刺激を受けて「全国ディスコ協会」を設立した勝本謙次さん(愛称ドン勝本)とは、そのエンバシー以来の30年を超える付き合いとなった。その勝本さんが、ミスター・ブラウンが2006年12月25日に亡くなって半年もしない2007年4月19日がんのため57歳の若さで亡くなった。まさにHe follows him. 彼はミスター・ブラウンの後を追っていってしまった。彼が亡くなったときに、思い出話をブログに書いた。それがこれ。1996年1月、勝本さんと二人でミスター・ブラウンの故郷で行われる奥さんの葬儀に出向いたのだ。

 

 

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自宅訪問

2007年04月22日(日) 付けブログ

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10031674956.html

 

【勝本さんとミスター・ブラウンの思い出~パート1】

 

【Visiting Mr. Brown’s House (Part 1)】

 

速攻。

 

勝本さんとは、ジェームス・ブラウンが来ると必ずブラウンを追っかけて、あちこちに行った。東京はもちろんのこと、横浜、神戸などなど。だが、「勝本・ブラウン話」で僕にとって一番思い出深いのは、日本ではない。1996年1月、ジェームス・ブラウンの当時の奥さんだったエイドリアンさんが亡くなった時に、勝本さんと二人で葬儀に出席するためにはるばるオーガスタまで行った時のことだ。ミスター・ブラウン死去の時に書こうと思っていたが、この機会に記憶を整理して書いてみることにする。

 

奥さんが亡くなってすぐに勝本さんが「吉岡くん、一緒に行こう」と言って、有無を言わさずあっという間に航空券やホテルなどを手配した。たぶん、死去を知って翌日か2日後くらいにオーガスタ行きを決めていた、と思う。あの時、葬儀の日程などどうやって調べたんだろう。僕がダニー・レイかなんかに国際電話でもしたのかな。よく覚えていない。

 

成田→ロスアンジェルス→アトランタ→オーガスタ。けっこう時間がかかる。オーガスタと言えば、ゴルフのマスターズが有名だが、東京からは遠いのだ。

 

アトランタからオーガスタは、20人も乗れないようなすごく小さな飛行機だったと記憶する。オーガスタの飛行場はとても小さく、着陸した地点からメインビルまで普通に歩いた。LAには朝に着いたが、オーガスタに着いたのは時差がLAとは3時間あるので、夜遅くなっていた。夜11時近かった記憶だ。

 

そこからシェラトン・ホテルにチェックインするが、ここはミスター・ブラウンのオフィースのすぐ隣で、ブラウン関係者もよく打ちあわせなどで訪れる。(註:その後映画『ゲット・オン・アップ(邦題、ジェームス・ブラウン~最高の魂(ソウル)を持つ男)』の冒頭で出てくる事務所のすぐ隣にある) そして、メインのレストランの一角には、ジェームス・ブラウン専用の席があった。いつも彼はこのレストランに来ると、必ずここに座るという。他の人は座れないらしい。

 

メニューにはジェームス・ブラウンの大好物のサラダ(たぶん、シーザー・サラダみたいなものだったと思う)があった。メニューに「ジェームス・ブラウン・サラダ」と書いてあったかどうかは、ちょっとはっきりしない。メニューには「シーザー・サラダ」と書いてあり、通称が「ジェームス・ブラウン・サラダ」だったか、はっきりしない。その日は、ぐったり疲れたので、即就寝した。

 

~~~

 

葬儀。

 

葬儀は到着した翌日に、市の公会堂のようなところで行われたが、ずっとダニー・レイが僕たちふたりの面倒を見てくれた。葬儀会場に行くのも、ダニーがホテルまで迎えに来てくれ、連れていってくれた。この会場には一般の人も入れた。ゴスペルのシンガーたちが何曲も歌ったり、ミスター・ブラウンをよく知る人のスピーチがされたりしていた。ミスター・ブラウンはずっと棺のそばに立っていた。僕たちも順に従って献花した。この模様は地元のテレビ局では生中継されていたと思う。

 

この会場で、ハリー・ワインガー(ジェームス・ブラウンのボックスセット『スタータイム』を作ったポリグラム・レコードのディレクター)とばったり会い、このためにわざわざ日本から来たというと彼はあきれたように驚いていた。(註、ハリーとはこれより前にニューヨークで会って知り合い、ニュージャージーのポリグラムの大きな倉庫に案内してくれていた。そこでたくさんのジェームス・ブラウンのマスターテープを見た。そのときの模様は、雑誌[レコードコレクター誌]に寄稿。また、僕が主宰している「ソウル・サーチン・ラウンジ」の2017年5月回にも登壇してくれた)

 

約1時間半だろうか、その儀式が終わると遺体の入ったカスケット(棺)が外の車に乗せられ、墓地に向かった。その車列は何十台も連なっていた。その連なり方が映画のよう(まるで『ゴッドファーザー』)で壮観だった。墓地につくと、また儀式があって、お祈りや歌があった。そして、牧師の声とともにその棺がゆっくりと地中に下ろされた。アメリカでは荼毘(だび)にふすということをしないらしい。

 

このあたりで、ボビー・バードや、マーヴァ・ホイットニー、マーサ・ハイ、フレッド・トーマスらJBズの面々に会った。みな、カラフルなスーツを着ていてドレスアップしている。

 

僕はアメリカでの葬儀というのに初めて出席したが、日本のように黒一色ではないのが自然らしい。お別れというより、神の元への旅立ち、セレブレーションだという認識のほうが強いからという説明を受けた。

 

~~~

 

自宅。

 

その後、シェラトンに戻り、ミスター・ブラウンが関係者に食事を振舞った。70-100人くらいはいたのではないだろうか。広いレストランがブラウン関係者で埋め尽くされた。このレストランに戻ってきた頃にはブラウンもかなり元気になっていた。おそらく古い仲間と再会できたことがうれしかったのだろう。

 

ミスター・ブラウンは、まめにあちこちのテーブルに出向き、挨拶をしていた。そして、勝本さんと僕のところに来て、ブラウンが「今日はごたごたしてゆっくり話せない。明日、時間はあるのか。私のうちに来なさい」というようなことを言った。勝本さんは、その前年、一度ブラウンの自宅に招かれていたので、今度が二度目になるが、僕はまったくの初めて。恐れ多かった。

 

そして、その翌日、勝本さんと僕がミスター・ブラウンの自宅に招かれたのだ。ホテルに迎えに来てくれたのは、もちろんダニー・レイだった。

 

ホテルからミスター・ブラウンのうちまでは、約20分。シェラトンから広い国道か州道を走っていく。まもなく、大きな川(サヴァンナ川)があり、そこの大きな橋を渡ると、ジョージア州がサウス・キャロライナ州になった。川が州境だったのだ。サウス・キャロライナはこんなに近かったんだ、と思った。

 

「そうか、たったこれだけの距離でも、州境を越えたカーチェースをすれば、管轄は地元警察ではなく、FBI(連邦警察)になるんだ。きっとミスター・ブラウンは、この橋でも渡ったんじゃないだろうか」などと考えてしまった。(映画『ゲット・オン・アップ』での冒頭のカーチェースのシーンは、このサウス・キャロライナ州とジョージア州の州境をまたいでいた)

 

ほとんど対向車もなく、しばらく行くと、ダニーが横道に入っていった。横道といっても、狭くない。そして、ちょっとした一角に車を進めた。ちょうど、扉のない大きな門柱のようなものの横を通って中に入ったのだ。そこからジェームス・ブラウン邸の敷地内にはいったのだ。

 

(この項続く)

 

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)

ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25 (73)

 

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豪邸

2007年04月24日(火) 付けブログ

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10031674721.html

 

【勝本さんとミスター・ブラウンの思い出~パート2】

 

【Remembering Mr. Katsumoto: Visiting Mr. James Brown’s House Part 2】

 

(勝本氏と僕は、ミスター・ブラウンの奥さんの葬儀に出席するために1996年1月オーガスタに旅立った。そこでわれわれを迎えてくれたのはダニー・レイ、そして、ミスター・ブラウンだった)(2007年4月22日付日記の続き)

 

 

豪邸。

 

門は特別閉まっていたわけでもなく、すんなり、中に入った。するとすぐに道の横に立て看板が見えた。よく道路などにある標識だ。そこには、こう書かれていた。James Brown Boulevard(ジェームス・ブラウン大通り)。 それを見た瞬間は度肝を抜かれたが、後になってオーガスタにジェームス・ブラウン・ブルヴァードができたと聞いて納得した。

 

ゆるやかなカーヴになり若干坂を下がる感じで車が進むと右手に小さな池が見えた。そしてさらに進むと大きな母屋(おもや)があり、その左側に車庫が見えた。そこには、たくさんの高級車が止まっていた。正確には覚えていないが、ロールス・ロイス、何台かのメルセデス、ジャグワーもあったような気がする。楽に10台以上あっただろう。

 

僕はダニー・レイに尋ねた。「あれ、今日はパーティーでもやってるの?」 勝本さんや僕が呼ばれたのは、パーティーでもやってて、それで呼ばれたのかと思ったのだ。ダニーは答えた。「ノー、ノー、あれはみんなミスター・ブラウンの車だ」 「ひえ~~、まじで」 ダニーが続けた。「ミスター・ブラウンはとても気前がいいんだ。たくさん車を持っているので、スタッフなどにも時々、車をあげてしまうんだよ」

 

ダニーは勝手知ったる家と言う感じで、母屋の前に車を止めると、われわれを家のほうに案内した。玄関のようなところでしばらく待っていると、お手伝いさんのような人がでてきて、居間に通された。

 

~~~

 

ヘアメイク。

 

そこにはミスター・ブラウンが大きな椅子に座ってヘアメイクの人に、髪の毛をいろいろやってもらっていた。

 

「おお、ようこそ、座ってくれ。何を飲む? 何でも言ってくれ」と聞かれた。勝本さんと目を合わせ、何にしようか迷っているとミスター・ブラウンに言われた。

 

「コーヒー、オア、コーク?(コーヒーかコーラか?)」 なんで、コーヒーかコーラなんだろう、と思いつつも、コーラと答えた。ミスター・ブラウンから飲み物を訊かれるのはこのときだけではなく、それがわりといつも「コーヒー・オア・コーク?」なので、おもしろいなあ、と思っている。「ティー」ではないのだ。ひょっとすると、「氷もいるか」と聞かれたかもしれないが、記憶は定かではない。

 

しばらくして、お手伝いさんがコーラを二人分持ってきた。乾杯したか、ありがとうと言ったのか、いずれにせよ、僕も勝本さんもそのコーラに口をつけた。僕はかなり興奮していて、どんな話をしたかよく覚えていない。たぶん、時候の挨拶でもして、昨日の葬儀はお疲れ様といったような話を少ししたのだと思う。ミスター・ブラウンは、奥さんの死について、医学的な説明を少ししてくれたような記憶があるが、さすがに医学用語の単語はわからなかった。(註、テープ、カメラなどないのだが、今だったら、アイフォンできっと録音したか、撮影しただろう)

 

それからちょっとビジネスっぽい話になった。確か、その頃、ミスター・ブラウンは娘のヤンマ・ブラウン(註、1972年頃生まれ。1999年8月に結婚。医学部を卒業し、医師になった)を売り出そうとしていた。ミスター・ブラウンは僕と勝本さんの両方の目を交互に見て話す。目線があっているときは、やはり緊張する。これはいつものことだ。

 

~~~

 

売り込み。

 

はっきりは覚えていないのだが、ヤンマ・ブラウンは自分の娘で今売り出そうとしている、CDシングルかなにかがあって、アルバムを作る(あるいはすでにアルバムはできていたかも)、それをアメリカでは自分のレーベルから出すが、日本でリリースしてくれるところを探してくれ、といった話だったと思う。とりあえず、CDを受け取って、聞いて日本のレコード会社に聞いてみるといった感じだった。

 

そのとき、ミスター・ブラウンは、勝本さんに向かって「君のためなら、なんでもするから、何でも言ってくれ」と言った。これは、ヤンマのリリースのためなら何でも協力する、という意味と、文字通り、勝本さんが必要なことがあればなんでも力になる、ということを意味していた。(註、ちなみに、ヤンマ Yanmaは日本語の山から取っている。日本やオリエンタルに親しみを感じているのだ)

 

「俺たちは知り合って何年だ? 20年以上だな。初めて日本に行った時にとった写真を飾ってるんだ」 以後、この話は彼が日本に来て会った時など幾度となく繰り返された。(笑) まさに話題のループ状態だ。そして、ミスター・ブラウンは「お前は俺の日本の息子のようなものだ」とも言う。

 

ミスター・ブラウンは、ファミリー、親しい者、仲間をひじょうに大切にする。仲間のために最大級の気遣いと施しをする。もっともヤンマ・ブラウンのレコードに関しては、日本に帰って聞いたところ、日本のレコード会社でのリリースはむずかしく、立ち消えになった。その後、ヤンマはドクター(医師)になったのは、ファンの方ならご存知かもしれない。

 

~~~

 

釣り。

 

僕はミスター・ブラウンに行きがけに見た敷地内の池について尋ねた。「ミスター・ブラウン、あなたは釣りがお好きなのですか」 「いやあ、釣りをする暇はほとんどないんだ。今は、池にどんどん鱒(マス=だったと思う)を放ってるところだな」 釣るんじゃなくて、池にどんどん放し飼いにするんだ、と思って、またまた度肝を抜かれた。

 

ブラウン邸には小一時間いたのだろうか。外までミスター・ブラウンは見送ってくれた。そして再び、ダニー・レイの車に乗って僕たちはホテルに戻った。ダニーは、僕たちが邸内にいる間は、車で待っていてくれた。そのとき、僕はブラウン邸の全貌を見たわけではないが、ダニー・レイがその敷地がものすごく広く、かなり大きな豪邸だと教えてくれた。

 

ブラウンが昨年(2006年)亡くなり、その遺体が敷地内に埋葬されるかもしれない、というニュースを見たとき、なるほど、あれだけ広い敷地だったら、どこにでもお墓は作れると思ったものだ。

 

(この項続く)

 

 

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)

ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25(73)

 

~~~~~

 

供養

2007年04月21日(土)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10031675046.html

 

【ファンク・マスターズのライヴを勝本氏とミスター・ブラウンに見せる】

 

【Showing Funk Masters Live To Don Katsumoto & James Brown】

 

供養。

 

前日(4月19日)の勝本氏死去の衝撃からまださめやらず、それ以前からライヴ鑑賞予定だったファンク・マスターズに行った。彼らは1960年代後期から1970年代初期にかけて、ジェームス・ブラウンのバックバンドのメンバーだったクライド、ジャボが始めたファンク・バンド。そこに同じくブラウンのバックバンドだったJBズのリーダー、フレッド・ウェスリーをいれた編成になった。(註、ジョン・ジャボ・スタークス=1938年10月26日~2018年5月1日、79歳、クライド・スタブルフィールド=1943年4月18日~2017年2月18日、73歳)

 

セットリストは、主として彼らの最新作『カム・ゲット・サム・ディス』からのものとジェームス・ブラウンのヒット、JBズのヒット。

 

同行ソウルメートであるハセヤンが昼間電話してきて、「勝本さんとジェームス・ブラウンが一緒に映ってる写真とかないの? それ持ってきなよ」と言う。そこで、古い写真ファイルをひっぱりだして、いろいろ探したところ、1995年4月に撮影した写真がでてきた。ミスター・ブラウンと勝本さんとその横に僕が3人で映っている写真だ。二人ともいい表情をしていたので、近くの写真屋さんに行って僕の部分をトリミングして、ツーショットの写真をA4サイズに引き伸ばし、簡単な額装を施した。

 

ちょっとばかり恥ずかしかったが、テーブルの上にミスター・ブラウン&勝本氏のその額をステージに向けて置いた。ジェームス・ブラウンの曲、JBズの曲、たっぷり聴いてください、勝本さん、そして、ミスター・ブラウン、ご一緒に。

 

ライヴのほうは、年齢が行ってるだけあってか、かなりゆるいが。(笑) やはり、ミスター・ブラウンのバンドマスターとしての統率力みたいなものを改めて感じさせられた。あたかも、両親が外出している間に子供たちが留守の家で好き勝手にやっている、といった感じだ。

 

ハセヤンがライヴが終わった後言った。「俺たち(ハセヤンと僕)が高校生の頃から通っていたディスコ(六本木のエンバシー)のマスターだった勝本さんがいて、勝本さんが大好きだったジェームス・ブラウンがいた。もちろん、俺たちもJB大好きだった。勝本さんとJBはマブダチになった。それでジェームス・ブラウンが去年逝ってしまって、その後を追うように勝本さんも逝った。しかも、ちょうどフレッド・ウェスリーやこのクライドたちが来てる週に亡くなってしまうっていうのも、何かの縁だよ。だから、これは俺たちの自己満足かもしれないけど、ジェームス・ブラウンと勝本さんが一緒に映ってる写真を持って、彼らふたりにこのJBズの演奏を聴かせるってことで、俺たち二人の勝本さんに対する供養みたいなものができると思うんだ。さっき、昼間、電話して、まさか吉岡がこんなに額装までしてくると思わなかった。俺は病院には行けなかったけど、みなそれぞれのやり方で供養できるんだと思う。これでね、これを一緒にやったことで、別の意味で俺たちの30年以上の絆っていうのも、より強くなったと思うよ」

 

僕はうなずくしかなかった。ハセヤンが最後に勝本氏を見たのは、昨年のジェームス・ブラウンのライヴ・ステージでのことだったという。

 

ライヴ中、ハセヤンがこの額持って二人で写真を撮ろうと言い出した。ライヴ終わってからにしようよ、と言ったが撮ろう撮ろうというので、結局写真を撮っていたら、案の定、お店の人がやってきて止められた。(笑) 

 

勝本&ブラウンの写真は、後でダンステリア(勝本氏の店)や三宿のソウルナッツ(マイケル鶴岡氏がいる店)にも持って行こうと思う。

 

■過去関連記事

 

クライド・スタッブルフィールドが別のトリオで来日

August 02, 2006

Masters Of Groove Live

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200608/2006_08_02.html

 

■Funk Masters 最新CD

Come Get Summa This

http://cdbaby.com/cd/funkmasters2

 

■Setlist : Funk Masters featuring JAB’O STARKS, CLYDE STUBBLEFIELD & FRED WESLEY @ Cotton Club, April 20, 2007

セットリスト : ファンクマスターズ・フィーチャリング・ジャボ・スタークス、クライド・スタブルフィールド、フレッド・ウェスリー

(transcribed by yoshioka.masaharu)

 

show started 21:34

01. Intro - Pass The Peas

02. Cold Sweat

03. House Party (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")

04. I Feel Good

05. Papa’s Got A Brand New Bag

06. Never Make Your Move Too Soon  (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")

07. Mustang Sally (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")

08. Breakin’ Bread

09. Come Get Summa This (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")

Enc1. Let’s Stay Together (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")

Enc2. Doing It To Death

show ended 22:53

 

(2007年4月20日金曜、丸の内コットンクラブ=ファンクマスターズ・フィーチャリング・ジャボ・スタークス、クライド・スタブルフィールド、フレッド・ウェスリー・ライヴ)

 

ENT>MUSIC>LIVE>Funk Masters Featuring Jabo Starks, Clyde Stubblefield, Fred Wesley

2007-50

 

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■■「ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ」006 ■■ 「12時45分の男」~スピナーズの最

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■■「ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ」006 ■■ 「12時45分の男」~スピナーズの最低音男パーヴィス・ジャクソン

 

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(本作・本文は約6000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、12分から6分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと20分くらいの至福のひと時です。お楽しみください)

 

 

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デトロイトのソウル・ヴォーカル・グループ、スピナーズは1970年代から1980年代にかけてたくさんのヒットを放った。一番有名なところは、その後多くのサンプリングなどで使われる「イッツ・ア・シェーム」あたりだが、ほかにも、実にいい曲がたくさんある。「アイル・ビー・アラウンド」、「クド・イット・ビー・アイム・フォーリング・イン・ラヴ」、「ワン・オブ・ア・カインド」、「ゲトー・チャイルド」、「セイディー」、「ラバーバンド・マン」、日本のゴスペラーズもカヴァーした「ウォーキング・マイ・ウェイ・バック・トゥ・ユー」、サム・クックのカヴァー「キュービッド」などなど。そんな中でヴォーカル・グループとして様々な声を万華鏡のようにだす「ゲームス・ピープル・プレイ」はひときわ輝く名曲だ。その曲にスポットをあてた記事がこれだ。

 

そして、その後にスピナーズのリード・シンガー、ボビー・スミスの訃報と評伝も掲載した。

 

スピナーズはこれで、オリジナル・メンバーはヘンリー・ファンブロウだけになってしまった。いちおう途中参加のジョン・エドワーズも車椅子ながら健在だが。

 

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2003/01/18 (Sat)

Games People Play – Spinners : Mr. 12:45

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200301/diary20030118.html

 

バーバーショップ。

 

(註、2003年1月、元スピナーズのリード・シンガーでその後ソロに転じ、のちにボーイズ・トゥ・メンのカヴァーでもヒットする「イッツ・ソー・ハード・トゥ・セイ・グッドバイ」を歌ったGCキャメロンがコンサートで初来日。ライヴを行った)

 

12時45分。

 

GCキャメロンのライヴについての書き込み(ソウル・サーチン・ウェッブのBBS=掲示板、現在は廃止)をたくさんいただきました。ありがとうございます。というわけで、埼玉のウッチーさんが(アーティストの歌にあわせて)一緒に歌ったという「ゲームス・ピープル・プレイ(ゼイ・ジャスト・キャント・ストップ・イット)」を、1月26日放送分の「バーバーショップ」(DJ鈴木雅之:インターFM 76.1Mhz=午後4時から)でかけます。

 

1975年7月にリリースされ大ヒット、10月にソウル・チャート・ナンバーワン・ソングになりました。ゆったりしたミディアム調の佳曲です。この4分37秒の作品、ヴォーカル・グループらしくなかなか聞かせどころがあります。

 

Games People Play – The Spinners (1975)

https://www.youtube.com/watch?v=plrsE-1dVxg

 

 

 

イントロからは通常どおり、リード・シンガーのひとりボビー・スミスが歌い始めますが、54秒あたりで珍しく女性シンガーがはいってきます。ほんの3行ほどの歌詞を歌います。これは、フィラデルフィアの名門スタジオ、シグマ・サウンド・スタジオのスタジオ・セッション・シンガーとして超有名なバーバラ・イングラムです。

 

バーバラは、カーラ・ベンソン、イヴェット・ベントンと3人で、フィラデルフィアのレコーディングの多くでバックコーラスを担当します。プロデューサーからは必ず3人まとまって呼ばれるので、彼女たちにはいつしか「スイートハーツ・オブ・シグマ」(シグマの恋人たち)というニックネームがつきます。ちょうど、このころ、「シグマ・スイートハーツ」などの愛称で呼ばれるようになったようです。(註、1975年リリースのブルー・マジックの『サーティーン・ブルー・マジック・レーン』ではこの名前があり、1975年くらいからこの名前が一気に広まったようだ)

 

このパートは、当初はスピナーズのメンバーのヘンリー・ファンブロウが歌う予定もあったらしいのですが、グループがイギリスにツアーに行ってしまったためか、あるいは、ここは女性の声が欲しかったためか、プロデューサーのトム・ベルはシグマのセッション・シンガー、バーバラに歌わせました。

 

そして、サビに進み、二番の冒頭(2分12秒あたり)で超低音の声が「トゥエルヴ・フォーティーファイヴ・・・」と歌います。これが、スピナーズの最低音男パーヴィス・ジャクソンです。この声があまりに印象的なために、パーヴィスには、「ミスター・トゥエルヴ・フォーティファイヴ(12:45)」というニックネームがつきました。そして、コーラスで別のリード、フィリッペ・ウィンが加わります。

 

パーヴィス・ジャクソン

 

おそらく日曜か休日に、気になる彼女とデートの約束をしていたのでしょう。しかし、彼は遅刻。待ち合わせ場所には彼女の姿はありませんでした。そして、12時45分。

 

「12時45分、僕は地下鉄の駅に向かった。とてもさびしかったので、ぶらぶらしていた。近くでおかしな声が聞こえた。見まわすと、彼女の顔がそこにあった。微笑みながら、僕の名前を呼んで、彼女が近づいてきた。行くべきところがその瞬間にわかった。この日を人生最良の日と呼ぼう」(「ゲームス・ピープル・プレイ」)

 

好きになった人をあきらめようかと思っていた男が、ついに12時45分に地下鉄の駅でその彼女から声をかけられるというストーリーです。パーヴィスの人生はこの「トゥエルヴ・フォーティーファイヴ」の一言で劇的に変わったそうです。縁の下の力持ちから、いきなり、脚光を浴びるフロントマンになったからです。

 

ボビー、バーバラ、パーヴィス、フィリッペ、そして、グループのコーラス。プロデューサーのトム・ベルはこう語っています。「(この曲では)各メンバーにいろいろなパートを少しずつ歌ってもらいたかったんだ。特にベースはなかなかスポットがあたらないだろう。つまり、僕はこの曲で古いバーバーショップ・スタイルのハーモニーを作りたかったんだ」

 

「バーバーショップ」でかけるには完璧な一曲です。

 

~~~~~

 

追記:

 

ここで歌っていた女性シンガー、バーバラ・イングラムはこの記事を最初に書いた時点で亡くなっていました。1994年10月20日、全身性エリテマトーデスと癌のため。46歳という若さで死去。

 

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その後、スピナーズのメンバーもビリー・ヘンダーソン(1939年8月9日生まれ)が2007年2月2日、パーヴィス・ジャクソン(1938年5月17日生まれ)が2008年8月18日、フィリッペ・ウィン(1941年4月3日生まれ)はスピナーズを脱退後、ジョージ・クリントンのバンドに参加、ソロ・アルバムもだすが大きなヒットには恵まれず1984年7月14日、43歳で死去している。そして、ボビー・スミス(1936年4月10日生まれ)が2013年3月16日76歳で死去、オリジナル・メンバーでは、ヘンリー・ファンブロー(1938年5月10日生まれ)だけが健在だ。

 

パーヴィス・ジャクソン訃報

Pervis Jackson

Bass singer with the Detroit Spinners for more than 50 years (Tue 16 Sep 2008 BST)

https://www.theguardian.com/music/2008/sep/16/1

 

ニュースは1か月ほど経ってやっと出たほど。

 

~~~~~

 

また、この曲は当初は「Games People Play」だったが、ジョー・サウスのヒットに同名のものがあり、著作権料の分配のときにわかりにくいので、スピナーズのものは「(They Just Can’t Stop) Games People Play」と表記されるようになった。

 

また、グループ名表記は世界的に一般的にはスピナーズだが、イギリスだけは同名の白人グループが先にいたために、「デトロイト・スピナーズ」と表記されている。

 

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●ボビー・スミス(スピナーズ・リード・シンガー)76歳で死去

2013年03月19日(火) 00時01分00秒

 

【Bobby Smith Dies At 76】

 

訃報。

 

デトロイトの高校時代の同級生で結成したR&Bヴォーカル・グループ、スピナーズのリード・シンガーだったボビー・スミスが2013年3月16日、フロリダ州オーランドーで死去した。76歳。しばらくN1H1ウィルス(インフルエンザ)に感染しており、肺炎を併発した。また、スミスは昨年11月、肺がんになっていた。死去は16日午後1時55分のこと。家族が確認した。死去に関してはニューヨークのブラック専門放送局WBLSやデトロイトのMix92.3局が報じた。ボビー・スミスのスペルは Bobby Smith, Bobbie Smith どちらもある。

 

スピナーズの主要メンバーでは、ビリー・ヘンダーソン(1939年8月9日生まれ)が2007年2月2日、パーヴィス・ジャクソン(1938年5月17日生まれ)が2008年8月18日、フィリッペ・ウィン(1941年4月3日生まれ)が1984年7月14日、43歳で死去している。オリジナル・メンバーでは、ヘンリー・ファンブロー(1938年5月10日生まれ)が健在だ。またフィリッペの後任として参加し30年以上スピナーズの一員だったジョン・エドワーズも車椅子ながら健在。

 

スピナーズはデトロイトのグループで当初モータウンで「イッツ・ア・シェーム」などをヒットさせたが、その後1972年にアトランティックに移籍。フィラデルフィアでトム・ベルのプロデュースの元「アイル・ビー・アラウンド」「クド・イット・ビー・アイム・フォーリング・イン・ラヴ」などの「フィラデルフィア・ソウル」で大ヒットを多数放ち人気ヴォーカル・グループとなった。

 

ボビーは多くのヒットのリードを取ったいわばスピナーズの顔ともいうべき存在。1970年代の一時期、ソフトなヴォーカルを聴かせるフィリッペ・ウィンとともにツー・トップのリード・シンガーとなった。

 

彼らはデトロイトのグループだが、大ヒットした作品の多くがいわゆる「フィリー・サウンド」だったために、フィラデルフィアのグループと思われることもあったが、ソウル史上に残る名ヴォーカル・グループであることはまちがいない。

 

(なお、Philippéは、eの上に「´」アキュート・アクセント・マークがついているが、これによりフィリップではなくフィリッペと発音・表記する)

 

評伝。

 

ボビー・スミスは1936年4月10日デトロイト生まれ。高校時代に学校の仲間とR&Bヴォーカル・グループ、ドミンゴスを結成。当初は遊び半分でパーティーや街角でドゥーワップを歌っていたが、徐々に本気になり、1960年、ベリー・ゴーディーの姉グエンを通じて当時人気のドゥーワップ・グループ、ムーングロウズのリーダー、ハーヴィー・フークワと出会う。ハーヴィーが彼らのことを気に入り、彼のレーベル、トライファイと契約。それまでドミンゴスと名乗っていたが、このときにスピナーズと改名。「ザッツ・ホワット・ア・ガールズ・アー・メイド・フォー」を1961年にリリース。リード・シンガーはボビー・スミス。以後、基本的にはずっとリードはボビーとなった。これが見事にヒット。またこの曲では当時新生ムーングロウズの一員となっていたハーヴィーにあこがれていたマーヴィン・ゲイがドラムスを叩いている。この当時のメンバーは、ボビー・スミス、ビリー・ヘンダーソン、ヘンリー・ファンブロウ、パーヴィス・ジャクソン、エドガー・チコ・エドワーズ。

 

以後、ハーヴィーは彼らをマネージ。トライファイがモータウンに買収されその傘下になったため、彼らもモータウン契約アーティストに。1967年、チコ・エドワーズにかわりGCキャメロンが参加。ここで「イッツ・ア・シェーム」(スティーヴィー・ワンダー作品)などのヒットが生まれた。しかし、モータウンでは他に多くの男性R&Bヴォーカル・グループ(テンプテーションズ、フォートップス、ミラクルズ等)がいたことから、なかなか重要視されず、売れなかった。メンバーは一時期はベリー・ゴーディーの運転手やモータウンの他のアーティストの運転手、雑用などもしていたという。

 

その後1972年、アリーサ・フランクリンの推薦でアトランティックに移籍。このときGCはモータウンとの契約があったこと、またGCがベリー・ゴーディーの姉グエンとつきあっていたことから、アトランティックに移籍せず、GCのいとこフィリッペ・ウィンを推薦、フィリッペがスピナーズ入り。アトランティック移籍後、スピナーズは次々とヒットを放ち、70年代を代表するアメリカのソウル・ヴォーカル・グループとなった。

 

ボビー・スミスがリードを取る「アイル・ビー・アラウンド」がミリオン・セラーとなり、スピナーズは人気グループに。1973年の「クド・イット・ビー・アイム・フォーリング・イン・ラヴ」(ボビー・スミス・リード)、「ワン・オブ・ア・カインド」(フィリッペ・リード)など多数のヒットが生まれる。

 

Spinners - I'll Be Around (1973)

軽快にリードを取るのがボビー・スミス

https://www.youtube.com/watch?v=KOLQNv_BfD0

 

 

 

The spinners - could it be i'm falling in love

http://youtu.be/7DbcOUEgHso

 

 

 

フィリッペのヴォーカルはソフトで甘い感じだが、ボビーはパンチのあるソウルフルな歌声で対照的。とはいうものの、声質はよく似ているので区別をつけ辛い。

 

ゴムバンドを使って遊びながら歌う「ラバーバンド・マン」のリードをフィリッペが初めて全面にでてリードを取り、これが大ヒット。

 

1977年、リードを取り人気が上がってきたフィリッペが自身の名前をグループ名(フィリッペ&スピナーズなど)につけるよう要求、認められず脱退、ジョン・エドワーズに交代。リードはボビーとジョンの二人体制になった。フィリッペはその後、スピナーズ参加以前に知己を得ていたPファンク(ジョージ・クリントン)に戻り、ソロ・アルバムもリリースしたがスピナーズ時代ほどの成功は得られなかった。フィリッペのスピナーズ在籍期間はしたがって1972年から1977年初頭まで約5年ということになる。

 

1977年5月、スピナーズはジョン・エドワーズを含んで初来日。(フィリッペは帯同せず)来日は1990年代にもあるがそのときはボビーは病気のため帯同していなかった。

 

ジョン・エドワーズがスタジオでサム・クックの曲を遊びで歌っていたら、周囲から「すごくいい」と言われ、サム・クックの「キューピッド」を録音。ヒットに。

 

スピナーズは1999年、ヴォーカル・グループ殿堂入り。

 

2000年頃、ジョン・エドワーズが発作のため車椅子状態になったため、2000年から2002年にかけてGCキャメロンが復帰。

 

2004年、ビリー・ヘンダーソンが脱退、ハロルド・ボンハートへ交代。ヘンダーソンは2007年2月2日、糖尿病が元で67歳で死去。初期メンバーのCPスペンサーも2004年10月20日、心臓発作で死去。一時期メンバーになっていたというジョージ・ディクソンも2005年に死去。オリジナル・メンバー、パーヴィス・ジャクソンは2008年8月18日癌のため死去。初期オリジナル・メンバー、エドガー・チコ・エドワーズも2011年12月3日死去。その後はジェシー・ロバート・ペック、マーヴィン・テイラー、ハロルド・スパイク・ボンハート(1961年生まれ)、フランク・ワシントン、チャールトン・ワシントンなどの新メンバーを加え活動を続けていた。

 

2011年9月、スピナーズはロックンロール殿堂にノミネートされた。

 

■ 過去関連記事

 

November 10, 2006

The World Of Linda Creed: Portrays The Blackness

【リンダ・クリードの描くブラックの世界】

スピナーズの「ゲットー・チャイルド」の訳詞

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200611/2006_11_10.html

 

2003/01/18 (Sat)

Games People Play

バーバーショップ。スピナーズの「ゲームス・ピープル・プレイ」における「12:45」と歌うパーヴィスについて

 

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200301/diary20030118.html

 

これを見ると最後にでてくるジョン・エドワーズのコメントに泣けてくる。彼がスピナーズ入りしたときは、それまでにアトランタのアウェアから出していたソロ・アルバムがものすごくよかったので、日本の熱心なソウル・ファンが狂喜乱舞したものだった。しかしそのソロはアメリカではほとんど売れておらず、ジョン本人はスピナーズという大グループの一員であることをずっと誇りに思っていた。1977年にスピナーズに入って以来30年以上、スピナーズの一員なのだから自身の人生はほとんどスピナーズとともにあったと言っていいだろう。

 

■ スピナーズ・アトランティック時代作品、

 

The Very Best of Spinners インポート

スピナーズ

https://amzn.to/3c2ZTNT

 

OBITUARY>Smith, Bobby (April 10, 1936 – March 16, 2013 – 76 year old)

 

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〇ナイト・サーチン68 セットリスト~ビル・ウィザース追悼

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〇ナイト・サーチン68 セットリスト~ビル・ウィザース追悼

 

【Nite Searchin #68 Setlist】

 

月一。

 

毎月第一木曜の夜10時から全国のコミュニティーFM100局以上とインターネット通じて全世界にお送りしている『大西貴文のザ・ナイト』内「ナイト・サーチン」、その68回が2020年5月7日放送されました。

 

今回から吉岡も、リモートで電話出演、それにともない22時半からの30分短縮版に。

 

今回はビル・ウィザース・トリビュート。ちょうど前回放送4月2日の直後、4月3日に訃報が流れ、「ナイト・サーチン」ではタイミング的にほぼ一か月遅れになってしまいました。

 

この間、多数のブログ記事を書いてきましたが、そうしたものをまとめ、さらに大幅に加筆修正した『ビル・ウィザース物語』を近日中にnoteにアップします。約4万字あるので、2部に分けるかもしれません。ビル・ウィザース少年がどのように育ったかなど、これまでになく克明に描いていますので、ご期待ください。

 

ぜんぜんしゃべり足りないですね。(笑) 音も、やはり、電話の声ですね。(笑) 

 

 

期間限定の同録。

https://soundcloud.com/user-369635731/the-nite-nite-searchin-068-2020-05-07

 

 

かけた曲は次の通りです。

 

 

NITE SEARCHIN #068  2020/05/-7

Version 1.0 (2020/05/06)

 

(22;30:00) ( 5 minutes)

TM  What’s Going On 4:53  -  David T. Walker

 

[1]  Bill Withers Tribute

 

M01     Lean On Me – Bill Withers

 

M02      Grandma’s Hands – Bill Withers

 

M03      Lovely Day – Bill Withers

 

 

ENT>RADIO>NITE SEARCHIN>68

 

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-0600

〇「ソウル・サーチン・ラウンジ」5月回(近田春夫さん)、8月へ延期

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〇「ソウル・サーチン・ラウンジ」5月回(近田春夫さん)、8月へ延期

 

【Soul Searchin Lounge May Party Would Postponed To August】

 

延期。

 

2020年5月20日(水)新宿カブキラウンジで行われる予定だったトーク&DJイヴェント「ソウル・サーチン・ラウンジ」(ゲスト近田春夫さん)回を、コロナ禍のために、8月19日(水)に延期することにいたしました。

 

5月ご予約の方はそのまま予約は有効ですが、いったんキャンセルされたい方は、キャンセルも承ります。予約をされている方には、こちらから直接ご連絡いたします。

 

また、6月17日(水)予定の「ラウンジ」(ゲストZOOCOさん回)も現在9月16日(水)へ延期の方向で調整しています。こちらも決まり次第お知らせします。

 

■イヴェント概要 近田春夫さん回・新日程

 

     概要

 

 

タイトル 「吉岡正晴のソウル・サーチン・ラウンジ~No.53~近田春夫さんを迎えて」

 

日時 2020年8月19日(水)18時30分開場、第一部=19時30分~20時30分、第二部=21時~22時 (入れ替えなし、通しでお楽しみいただけます。時間は多少前後します。だいたい伸びます)

場所 カブキラウンジ

住所 東京都新宿区歌舞伎町 1-23-13 TC大滝ビル5階 (1階は出会いカフェ・キラ)

電話 03-6205-5125

入場料 2000円(1ドリンク付き)当日、現地でお支払いください。

 

出演

 

司会 吉岡正晴

ゲスト 近田春夫 (ビブラストーン、週刊文春『考えるヒット』執筆者、コラムニスト)

サポートDJ OSA (さすらいのラーメンサーチャー)

http://kabukilounge.tokyo/

座席数 約30

 

予約方法 下記メールアドレスへ「ソウル・サーチン・ラウンジ53」(近田回)参加希望と書き、参加人数、お名前、連絡先などを明記してお送りください。24時間以内に折り返し、確認メールを差し上げます。なお、携帯メールなどで受信ドメイン指定をされている方はsoul_searchin_lounge@yahoo.co.jp からのメールを受信できるように設定してください。予約なしでも入れますが、予約をいただけば優先的にお席を確保いたします。

 

予約メール送り先 

soul_searchin_lounge@yahoo.co.jp

 

ポイントカードお持ちの方、ポイントしっかり押します。ポイント10個で素敵なプレゼント進呈。

 

~~~~~~

 

感想。

 

それにしても、このコロナ禍、えらいことになってしまいました。なんとか早いうちの収束を願っていますが、みなさんもがんばって生き延びてください。

 

生き延びましょう。Let’s Survive.

 

ENT>EVENT>SOUL SEARCHIN LOUNGE>53>Chikada, Haruo

 

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-2200

●アンドレ・ハレル59歳で急死~ヒップ・ホップとソウル(R&B)を融合し成功

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●アンドレ・ハレル59歳で急死~ヒップ・ホップとソウル(R&B)を融合し成功

 

【Andre Harrell Dies At 59】

 

訃報。

 

ヒップホップとR&Bを融合し成功させたブラック・アントレプレナー、アンドレ・ハレルが2020年5月8日急死した。59歳だった。

 

5月8日、DJのD-ナイスがインスタ・ライヴ中に「死去の第一報」を流した。死因、死去場所など詳細は不明。

 

 

インスタ・ライヴで語った。DJを続けることはできない、という。Dナイスは誰かからのテキスト(メール)で知ったという。

https://www.instagram.com/dnice/?hl=ja

 

ビルボード誌も報じた→

https://bit.ly/35KNPi0

ビルボードは、第一報のD-ナイス以外の情報源にも確認したという。死因にコロナが関係しているかは現時点では不明。

 

ショーン・パフィー・コムス、メアリーJブライジなどを育てた。また、テディー・ライリーのガイを送り出し、「ニュー・ジャック・スウィング」という音楽的ジャンルを開拓、一時期大きなものにした。

 

https://bit.ly/2LhiXfu 

 

BETなども情報を発信。1981年、ラップ・デュオ、ドクター・ジキル(ハレル)&ミスター・ハイド(アロンゾ・ブラウン)で「ジニアス・ラップ」がヒット。1960年9月26日ニューヨーク・ハーレム生まれ。

 

R&B、ヒップホップ誌ザ・ソースも報道。ブロンクスのリーマン大学でビジネスとコミュニケーションを学んだ。ニュースキャスターが夢だったが、ラジオDJに。そこから音楽業界へ。

 

ラッパーとして、「ドクター・ジキル&ミスター・ハイド」(ジキル博士とハイド氏)でデビュー。最大のヒットは、トム・トム・クラブの「ジニアス・オブ・ラヴ」をサンプリングした「ジニアス・ラップ」で1982年にヒット。その後も中ヒットをいくつか出した後、裏方へ。

 

Dr. Jeckyll & Mr. Hyde - Genius Rap

https://bit.ly/3dt7XaZ

 

 

その後、一足先にヒップホップ業界で足場を固めていたラッセル・シモンズのところでインターンとして働き、そのごアップタウン・レコーズを設立。これをMCAに配給させ、ヘヴィーD&ザ・ボーイズ、ジョデシー、メアリーJブライジなどをスターにした。

 

さらに、プロデューサー、ショーン・パフィー・コムスを発掘、パフィーも次々とヒットを放ち一大エンパイアーにした。

 

その後、モータウン・レコーズ社長にも就任した。

 

~~~~~

 

なんといっても、大学でビジネスを学んだだけあって、ビジネス的才覚に優れていた。テレビのアンカーマンを志望していたというあたりも、おもしろい。ちょうど、ヒップホップがオーヴァー・グラウンドに出てきたのが1979年、まさにヒップホップの黎明期に、ヒップホップとR&Bを融合させたところが最大の功績。

 

~~~~~

 

評伝。

 

アンドレ・ハレルは1960年(昭和35年、ねずみ年)9月26日、ニューヨーク・ハーレム生まれ、ブロンクス育ち。ハイスクール時代の友人アロンゾ・ブラウンとともに、ドクター・ジル&ミスター・ハイド(ジキル博士とハイド氏)という二人組ラップチームを結成。1981年から「ジニアス・ラップ」、「ファースト・ライフ」、「AM/PM」などの小ヒットをだした。同時にブロンクスのリーマン大学でコミュニケーションとビジネス・マネージメントを勉強。その頃の夢は、ニュースキャスターになることだった。3年で中退したのち、地元のラジオ局に就職。

 

1983年、一足先にヒップホップ業界で足場を固めていたラッセル・シモンズ(1957年10月4日ニューヨーク生まれ)と出会い、彼が設立するデフ・ジャム・レコーズでインターンとして働くことになる。彼はわずか2年で、同社でヴァイス・プレジデント(副社長、日本では部長クラス)に出世。

 

1986年、自身でアップタウン・レコーズを設立。MCAと配給契約をまとめ、1980年代後期から1990年代にかけてアメリカR&B界をヒップホップ&R&Bで強力にけん引した。

 

テディー・ライリーのガイ、巨漢ラッパー、ヘヴィーD&ザ・ボーイズ、ジェフ・レッド、アル・B・シュアー、ファーザーMC、ノトーリアスB.I.G.、ジョデシー、メアリーJブライジ、ソウル・フォー・リアルなどを世に送り出した。

 

Jodeci - Come & Talk To Me

https://www.youtube.com/watch?v=wAImDL6LF_Q

 

 

 

Teddy Riley Feat Guy - My Fantasy. 1989 (12" Extended version)

https://www.youtube.com/watch?v=TaJQjS_U04w

 

 

 

Heavy D & The Boyz - Now That We Found Love ft. Aaron Hall (Official Video)

https://www.youtube.com/watch?v=NNEgUPKxk7A

 

 

 

Al B. Sure! - Nite and Day

https://www.youtube.com/watch?v=Fckqglxb49s

 

 

 

Mary J blige - Real Love

https://www.youtube.com/watch?v=90c9pEtZquw

 

 

 

1990年、アップタウン・レコーズでショーン・パフィー・コムス(1969年11月4日ニューヨーク生まれ)がインターンとして活動開始。パフィーはその後、1993年にバッド・ボーイ・エンタテインメントを設立。ショーン・パフィー・コムスのデビュー作は700万枚を超えるベストセラーとなった。

 

1992年、MCAはハレルに映画製作、テレビ番組製作を含むマルチメディア契約を申し出て、FOXと共同で製作したテレビドラマ『ニューヨーク・アンダーカヴァー』などがヒットした。

 

New York Undercover (1994) | Missing #AndreHarrellRIP

https://www.youtube.com/watch?v=VK3gGBmgGGo

 

 

 

1995年、ハレルはモータウン・レコーズの社長に就任。これにともないアップタウンの運営を手放したため、その後ヒットがでなくなり、1999年、実質的に運営を停止。現在はユニバーサルに吸収された。

 

モータウンを辞めた後、ハレル・レコーズ(アトランティックが配給)を設立していた。

 

2019年12月、アンドレ・ハレルとアップタウン・レコーズにフォーカスしたドキュメンタリー作品をBETとともに制作中だったという。2020年に3回シリーズで放映予定だった。これはおそらく完成すれば、公開されるものとみられる。

 

~~~

 

ヒップホップ界から音楽業界を席巻した例としては、ラッセル・シモンズ(1957年生まれ)→アンドレ・ハレル(1960年生まれ)→ショーン・パフィー・コムス(1969年生まれ)→ジェイZ(1969年12月4日生まれ)/ビヨンセなどがいるが、ラッセル・シモンズなどがいるが、アンドレは、ラッセル・シモンズに続く第二世代と言える。

 

そして、ショーン・パフィーとメアリー・J・ブライジを世に送り出し、ニュー・ジャック・スウィングやヒップ・ホップ・ソウルを生んだ人物としても十分に後世に名を遺した。

 

~~~~~

 

テディー・ライリーに追悼文(インスタグラム)

 

Another sad day😔🙏🏽 We've lost one of the greatest mentors in my life. I'm so happy I got to tell you 1 hour before the versus Battle, how much I respect and love you, as my big brother and mentor! The pep talk that you've giving me right before, felt like the same pep talks that you've given me the beginning of Uptown records, sleeping on the couch at your office (Brownstone) in BK. You chose me out of all the kids that you could have picked to work with you. I can replay IT in my head, all of the moments that I've taken the train and when I got my first car driving to Brooklyn, skipping school, and becoming that sponge just to learn and get my hands on that mixing board at Chung King Studios. I will never forget, all of these cherished moments and I will never forget you!!! 🙏🏽 🙏🏽 🙏🏽 I salute you...King of New Jack Swing👑👑👑 My condolences to the Harrell family

& to my Uptown family 4life!!! #rip #greatest #legend #legacy

#newjackswing #king

(日本時間、2020年5月9日17時頃の投稿)

 

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ENT>MUSIC>Harrell, Andre

OBITUARY>Harrell, Andre [September 26, 1960 – May 8, 2020, 59 year old]

 

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●リトル・リチャード87歳で死去 (5分でわかるリトル・リチャードの偉業)

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(ブログイントロ)

本記事は、このブログで最後まで読めます。読後、お気に召せば、PayPay あるいはPayPal または(金額は自由に設定可)ことも可能です。アカウントを作らなくても支払い可能です。

 

(本作・本文は約2600字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、5分から3分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと9分くらいの至福のひと時です。お楽しみください)

 

●リトル・リチャード87歳で死去

(5分でわかるリトル・リチャードの偉業)

 

【Little Richard Dies At 87】

 

 

訃報。

 

リトル・リチャード Little Richard [Richard Wayne Penniman] が2020年5月9日テネシー州タラホーマで骨のがんのため死去。87歳。この2か月体調を崩していた。

 

Little Richard, Flamboyant Wild Man of Rock ’n’ Roll, Dies at 87

By Tim Weiner
May 9, 2020

https://nyti.ms/2LrmDf7 

 

ロックンロールのイノヴェーター、オリジネーター、アーキテクト(建築家)などと呼ばれアメリカ音楽界に多大な影響を与えた。

 

チャック・ベリー(1926年~2017年)、ファッツ・ドミノ(1928年~2017年)、ボ・ディドリー(1928年~2008年)などと並び黒人のブルーズとゴスペルの要素を混ぜたR&B、さらにロックンロールの土台を作り、のちにビル・ヘイリー(1925年~1981年)、エルヴィス・プレスリー(1935年~1977年)、ジェリー・リー・ルイス(1935年~)(カントリーの要素も加え、ロカビリーに)、ジーン・ヴィンセント(1935年~1971年)など白人のロックンローラー誕生へ導いた。その後、ビートルズ、ローリング・ストーンズらにも多大な影響を与えたアメリカ音楽史に残る偉大なアーティスト。

 

Musicians and artists pay tribute to rock 'n' roll legend Little Richard

By Alaa Elassar, CNN

Updated 1918 GMT (0318 HKT) May 9, 2020

https://cnn.it/2YN9g0p

 

10 videos that prove Little Richard rocked harder than anyone, ever

By RANDALL ROBERTSSTAFF WRITER

MAY 9, 202010:52 AM

https://www.latimes.com/entertainment-arts/music/story/2020-05-09/little-richard-10-great-video-performances

 

~~~~~

 

評伝。

 

リトル・リチャードは、本名リチャード・ウエイン・ペニマン(Richard Wayne Penniman)は1932年(昭和7年=さる年)12月5日アメリカ南部ジョージア州メイメイコン生まれ。(オーティス・レディングと同郷) 背が低かったことから家族内でも「リトル・リチャード(ちいちゃなリチャード、チビのリチャード)と呼ばれた。父親が教会の聖職者でもあったことから幼い頃から教会でゴスペルに親しみ大きな影響を受けた。ゴスペル界の間へリア・ジャクソン、マリオン・ウィリアムス、シスター・ロゼッタ・サープ、ブラザー・ジョー・メイ等に傾注。

 

地元のコンサート・ホールでコーラなどを売るアルバイトをしているうちに街にやってくるアーティストたちと知り合い、1949年には、ドクター・ハドソンズ・ミンストレル・ショー(様々なエンタテイナーをパッケージにして街から街へと渡り歩く移動芸人軍団ショー)に参加。

 

派手なピアノ演奏と力のある歌声と幼少からの「目立ちたがり屋」が功を奏し、ちょっとした人気者になっていく。

 

そのつてで地元DJのラジオ局で録音した曲が1951年、大手のRCAからリリースされるが大きなヒットには至っていない。

 

■ロックンロール誕生年

 

1955年、ちょうどロックンロール誕生の年に、ロスアンジェルスのスペシャリティー・レコーズのアート・ルーペと契約。ニューオーリンズのミュージシャンたちのレコーディングの合間に歌った鼻歌のようなものにルーペが反応。それが「トゥッティー・フルッティー」となり、1956年、ゴスペル、ブルーズの要素に激しいのりのダンス要素のエネルギーを爆発させ大ヒット。

 

その後、化粧をするロックンローラーとしても知られるようになり、「フレイムボイヤント(Flameboyant)」(派手なけばけばしい)という形容詞がもっともつくアーティストとなり、これはのちにエルトン・ジョン、デイヴィッド・ボウイ、Tレックスのマーク・ボラン、プリンスなどにも継承される。

 

0:03 / 2:25

Little Richard - Tutti Frutti (Official Lyric Video)

https://www.youtube.com/watch?v=ivhauEr3KxU

 

 

1955年11月からヒット、R&Bチャート2位、ポップ・チャート17位。グラミー賞「ホール・オブ・フェイム」、ロック殿堂入り曲。(R&Bチャートは現在のR&Bチャートに相当するチャート、ただし名称がいろいろ違う。以下同じ)

 

さらに「ロング・トール・サリー」も大ヒット。

 

Little Richard - Long Tall Sally - 1956

https://www.youtube.com/watch?v=2OfhmVmhL7s

 

 

1956年4月からヒット、R&Bチャート1位、ポップ・チャート6位。

 

そして、「リップ・イット・アップ」もR&Bチャートで1位に。

 

Little Richard-Rip it up

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=XJW-XQtycmw

 

「トゥッティー・フルッティー」「ロング・トール・サリー」は白人のパット・ブーンが毒気を抜いたクリーンアップ・ヴァージョンのカヴァーを作り、オリジナル以上のヒットに。

 

Pat Boone-Tutti frutti

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=ZFxTvffJqOg

 

1956年1月からヒット、ポップで12位。

 

Pat Boone - Long Tall Sally

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=9uDw-Ebc244

 

1956年4月からヒット、ポップで8位。

 

■黒人曲を白人がカヴァーしヒット

 

黒人のR&B、ブルーズを白人がカヴァーすることはロックンロール黎明期には多数あった。黒人が「自分たちの曲を盗まれた」と考えることも多かったが、徐々にカヴァーされるとソングライターの場合かなりの金額の印税が入ることがあるので、そうした人達は徐々に「それもありか」と思うようなる。ただソングライターではない人たちは、なんの恩恵もないので、白人にカヴァーされることを「よし」とはしなかった。これはその後半世紀にわたってアメリカ音楽業界のひとつのテーマとなる。

 

Little Richard – Lucille - 1957

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=z3-OaNevkfg

 

1957年3月からヒット、R&Bチャートで1位、ポップ・チャートで21位。

 

当時は、特に南部では人種隔離政策が一般的で、ライヴでも黒人と白人の席は分かれていたが、リトル・リチャードのライヴの場合、最後にはごちゃごちゃに一緒になって盛り上がってダンスをしていたという。ロックンロールがある種人種的偏見を統合したという文化的側面もあった。そして白人至上主義者たちは、「音楽は人種を統合して危険だ」と警告を発した。

 

しかし、人気絶頂の1956年、「グッド・ゴーリー・ミス・モリー」のヒット後、啓示を受け、ロックンロールを卒業し、ゴスペルの世界に。以後は、ロックンロールとゴスペル的な世界を行き来するように。休みなくツアーを行い、一時期は無名時代のジミ・ヘンドリックスもバンドメンバーとなり、ギターを弾いていた。多くの映画にも出演。

 

Little Richard, The 'King And Queen' Of Rock And Roll, Dead At 87

May 9, 202011:47 AM ET

https://n.pr/35J16Yw

 

またプライヴェートでは同性愛者であることも公言。音楽的には、ジェームス・ブラウン、エルヴィス、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ボブ・ディラン、プリンスなど多くのアーティストに多大な影響を与えた。

 

「エルヴィスが『キング・オブ・ロック』なら、俺は『クイーン・オブ・ロック』だ」などとも発言した。それが転じて、「リトル・リチャードは『ロックのキングとクイーン』」ともなった。

 

現在でこそ、ゲイなどのカルチャーが一般的になっているが、リトル・リチャードなどはその先駆者的存在だったともいえる。

 

リトル・リチャードは、1955年の「トゥッティー・フルッティー」の初ヒットからR&Bチャートで1973年まで23曲をチャート入り。

 

ロックンロール・ホール・オブ・フェイム(ロック殿堂)の初年度(1986年)に殿堂入り。1988年3月発表の30回グラミー賞新人賞のプレゼンテーターとして登壇したものの、封筒をあけて「ウィナー・イズ・ミー」(勝者はオレ)と3度も言ったりして大受けしたことも。(実際の受賞者はジョディ―・ワトリー) その後1993年に実際にグラミーの功労賞を受賞。

 

 

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Little Richard at Grammy (JP sub)-笑えるリトル・リチャードのグラミー賞 日本語

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=zhlDqrvoTpY

 

2013年、ステージでも2本の杖をつくようになり実質的に引退した。(Little Richard : December 5, 1932 – May 9, 2020, 87 year old),

 

Little Richard: Mick Jagger, Chance the Rapper, Michelle Obama react to singer's death

Rasha Ali

USA TODAY

2:46 pm ET May 9, 2020

https://bit.ly/2YQ5Qdo

 

OBITUARY>Little Richard (December 5, 1932 – May 9, 2020, 87 year old)

 

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●ベティー・ライト66歳で死去~「クリーン・アップ・ウーマン」のマイアミの神童

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(本作・本文は約3100字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、6分から3分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと10分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事、音源などを聴きますと、もう少しさらにお時間楽しめます。お楽しみください)

 

●ベティー・ライト66歳で死去

 

【Betty Wright Dies At 66 : Queen Of Miami Soul】

 

訃報。

 

 

フロリダ州マイアミをベースに1960年代から活躍してきたシンガー、ソングライター、プロデューサーのベティー・ライトが、2020年5月10日、マイアミの自宅で死去した。66歳だった。癌を患っていたという。数日前に、友人のチャカ・カーンが「彼女に祈りを」とツイートしていたが、復活はならなかった。

 

所属のSカーヴ・レコーズのスティーヴ・グリーンバーグ社長によれば、子宮内膜癌が昨秋に発見され闘病中だったという。

 

1971年の大ヒット「クリーン・アップ・ウーマン」で知られるが、これはのちに多くのヒップ・ホップ・アーティストにサンプリングされ親しまれた。日本のシンガー・ソングライター、小沢健二も自身のヒット「ラヴリー」で同曲のリフを引用して日本でも知られるようになった。

 

マイアミをベースに活躍していたが、若いアーティストにとってのメンターとしての存在感を見せていた。最近ではプロデューサーとしてジョス・ストーンのデビュー作にかかわり、彼女のキャリアを開花させた。

 

日本には一度1991年同じマイアミ在住のグローリア・エステファンのコーラスの一員として、また2012年2月に自身名義初のライヴをビルボードライブで行った。

 

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評伝。

 

ベティー・ライトは、本名ベシー・レジーナ・ノリス [Bessie Regina Norris] 1953年(昭和28年=へび年)12月21日マイアミ生まれ。7人兄弟の末っ子。母ローザ・リー・エイキンズ・ライトは看護婦で、父マッカーサー・ノリスはローザにとって2人目の夫で、芝生などを管理するガーデナーだった。幼少から教会に通い、ベティーはギターで遊び、曲のようなものを書いていたという。末っ子ということで兄弟たちとともに2歳頃から見様見真似でゴスペルを歌っていた。その兄弟姉妹グループは、エコーズ・オブ・ジョイと名乗り、1956年にはレコーディングもしていた。まだベティー・ライトがベティー・ライトになる前、2歳ごろのことだ。母親がギターを弾き、歌っていたので、しゃべる頃から同時に歌い始めていたという。キーをはずさない安定の歌唱はそのあたりの基礎からあったのだろう。

 

また、いわゆる「ウイッスル・レジスター」(口笛のように高い音を声で出す方法。ミニー・リパートン、マライア・キャリーなどで知られる甲高い声)も、ベティーは昔からできたという。彼女自身は6オクターヴでるという。

 

■マイアミの神童

 

その後、ゴスペルから世俗のR&Bを歌いだし、十代から地元のクラブなどで歌い始めた。そんなところを、1966年(12歳)地元のウィリー・クラークらが始めたディープ・レコードと契約、シングル「サンキュー・ベイビー」と「パラライズド」をリリース。

 

1968年、14歳(日本では中学2年か3年)のときにはウィリー・クラークとやはり地元のミュージシャンであるクラレンス・リードとシングル盤「ガールズ・キャント・ドゥ・ホワット・ザ・ガイズ・キャン・ドゥ」を、マイアミの音楽界のドン、ヘンリー・ストーンの元でリリース。地元を中心にローカルヒットとなり、一躍神童として知られるようになる。ちなみに彼女の所属レーベル、「アルストン」(発音はオルストン)Alston は、プロデューサー、スティーヴ・アレイモとヘンリー・ストーンの名前から取ったもの。

 

Girls Can't Do What the Guys Do – Betty Wright

https://www.youtube.com/watch?time_continue=4&v=-ICj3Ngyy9M&feature=emb_logo

 

 

 

14歳とは思えないほどの成熟した歌唱で、プロデューサーたちも驚くが数枚のシングルを出したのち、1971年、「クリーン・アップ・ウーマン」のヒットを出す。

 

Clean Up Woman -Betty Wright (1971)

https://www.youtube.com/watch?v=TPVk-m1Pr4s

 

 

 

この「クリーン・アップ・ウーマン」は200万枚を売りゴールド・ディスクになり、一挙にその名は全国区にとどろいた。

 

 

イントロの超印象的なギター・リフを弾いているのは同じマイアミで活躍中のウィリー・”

リトル・ビーヴァー“・ヘイル。自身名義のアルバム、ヒットも出している。

 

チャンス・ザ・ラッパーの「フェヴァリット・ソング」、メアリー・J・ブライジの「リアル・ラヴ」などにもサンプリングされている。

 

その後もコンスタントにシングルを出し、「シュラ―・シュー」などもヒット。

 

1972年頃、マイアミ・デイド大学に進学。ここで、なんとパーカッションを専攻。パーカッションを学んだことで、歌唱にリズム感がついたという。

 

当初はゴスペル色の強かったイメージだが、世俗、R&Bに進み、1974年の「トゥナイト・イズ・ザ・ナイト」では両親の家で処女を失うことへの戸惑いなどを歌った。

 

Tonight Is The Night – Betty Wright

https://www.youtube.com/watch?v=xyvn5idWuhE

 

 

 

その後、このラインを使った「アイ・ウォナ・セックス・ユー・アップ」がヒット。

 

Color Me Bad – I Wanna Sex You Up

https://www.youtube.com/watch?v=Oxu3pq319r0

 

 

 

さらに、「ノー・タイム・ノー・ゲイン」がヒット。彼女の代表曲に。

 

Betty Wright - No Pain, (No Gain)

https://www.youtube.com/watch?v=zpGqIJOqAGQ

 

 

 

1975年に同じTKプロダクション所属のハリー・ケイシー、リチャード・フィンチ、ウィリー・クラークらと共作した「ホエア・イズ・ザ・ラヴ」(歌・ベティー・ライト)(ロバータ・フラックや、ブラック・アイド・ピーズらの楽曲とは同名異曲)がグラミー賞「ベスト・R&Bソング」部門を獲得。(発表は1976年2月)

 

ベティー・ライトは、自らシンガー、ソングライターとして活動する一方、ビジネス的才覚も見せ、地元で活躍していたジョージ&グエン・マクレイをアルストンに迎えたり、若手をプロデュースしたりするようになる。

 

女性としての自立、意識も強く、そうした運動にも積極的にかかわった。

 

音楽的にはピーター・ブラウンの「ダンス・ウィズ・ミー」にもバックコーラスで参加、関与していた。

 

■エピックへ移籍~新人育成

 

1981年、メジャーのエピック・レコーズに移籍、この時期にはスティーヴィー・ワンダー、リチャード・ディンプルズ・フィールズなどとのコラボ作品も出す。ここでアルバム2枚を出し、その後、1枚インディでのリリースをはさみ、自身のレーベル「ミス.Bレコーズ」を設立。2011年には、ルーツとの共作『ザ・ムーヴィー』をリリースした。

 

 

近年では2003年に、イギリスの天才ソウル・シンガーと呼ばれたジョス・ストーンのデビュー作をプロデュースし、大きな注目を集めた。彼女もデビュー作『ソウル・セッションズ』が2003年9月にイギリス、アメリカなどでリリースされるが、デビュー時16歳という若さだった。

 

Joss Stone - The Soul Session 1

https://www.youtube.com/watch?v=An3qsaW7snM&list=PLTWU83plqZVYzzI_HcpCfjiZEZ1ELTvjv

 

 

 

また、ほかにトム・ジョーンズ、ダイアン・バーチなどの制作にもかかわるようになった。

 

ダイアン・バーチ・ライヴ・アット・クワトロ

2009年12月11日(金)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10408399990.html

 

2011年にザ・ルーツのクエストラヴとともに『ザ・ムーヴィー』というアルバムを共同プロデュースした。

 

2012年2月、自身名義の初来日ライヴ。

 

ベティー・ライト自身名義初来日ライヴ

2012年02月29日(水)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11177929117.html

ライヴ・レポート、セットリスト付き。

 

ベティー・ライトと「アイ・ウォナ・セックス・ユー・アップ」

2012年03月01日(木)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11179304376.html

 

彼女の代表曲「クリーン・アップ・ウーマン」は、アフリカ・バンバータ、SWV、メアリー・J・ブライジ、スブライム、ウィリーD、チャンス・ザ・ラッパーなどにサンプリングされたり、他の曲がビヨンセ、カラー・ミー・バッドの「アイ・ウォナ・セックス・ユー・アップ」などにもサンプリングされていた。

 

彼女名義のアルバムも20枚を数える。ゲスト出演曲なども多数。

 

~~~~~

 

ベティー・ライトには1980年代中ごろ、ニューヨークで行われていた「ニュー・ミュージック・セミナー」で会ったことがある。彼女がパネル・セッションで話をしていて、その後、立ち話をした。大変快活で頭脳明晰、よくしゃべる人という印象を持った。シンガーとしても成功したが、あれだけ業界を俯瞰して見ることができればプロデューサー的な裏方でも十分やっていけるだろうなあと思ったものだ。マイアミのヘンリー・ストーンのTKレコードに関してはやまほど書きたいことはあるが、また別の機会に。ベティー・ライト1983年のアルバム『ライト・バック・アット・ユー』(エピックからの2枚目)のライナーノーツも書いたことがあった。

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

OBITUARY>Wright, Betty (December 21, 1953 – May 10, 2020, 66 year old)

 

 

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〇祝70歳古希スティーヴィー・ワンダー

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(ブログイントロ)

本記事は、このブログで最後まで読めます。読後、お気に召せば、PayPay あるいはPayPal (金額は自由に設定可)などでのサポートが可能です。アカウントを作らなくても支払い可能です。

 

(本作・本文は約4600字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、9分から5分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと16分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらにお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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〇祝70歳古希スティーヴィー・ワンダー

 

【Happy 70th Birthday Mr. Wonder】

 

古希。

 

スティーヴィー・ワンダーが2020年5月13日、70歳の誕生日を迎える。(1950年、昭和25年=寅年生まれ) 1962年、12歳でデビューしてから58年、一線で活躍を続けている。祝古希としてスティーヴィーのメッセージをいくつかまとめてみたい。

 

コロナ禍で大変な世界にスティーヴィーの愛のメッセージは有効だ。

 

そして、スティーヴィー以外の作品で愛が必要な今、必要な曲もいくつかご紹介しよう。

 

○世界は愛を必要としている~愛のメッセージから我々は何を学ぶのか

 

2015年1月25日付けブログ

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11980895884.html

 

○世界は愛を必要としている~愛のメッセージから我々は何を学ぶのか

 

【What The World Need Now Is Love】

 

愛。

 

テロ、殺戮、戦争。地球には憎しみがあふれている。ミュージシャンたちのメッセージをいくつかここに。

 

人間は愚かで、過去から学ばない。半世紀以上も前に歌われたメッセージが今でもまだ有効だ。

 

歴史に学ばない者は歴史にしっぺ返しされる。

 

(ここで歌われることは、今回のコロナ禍にもあてはまる)

 

もう一度立ち止まり、先陣たちのメッセージに耳を傾けてみよう。今こそ世界には愛が必要だ。

 

スティーヴィー・ワンダーが歌う「ラヴズ・イン・ニード・オブ・ラヴ・トゥデイ」

 

「友人のみなさん、おはよう、あるいは、こんばんは。あなたの味方の(フレンドリー)アナウンサーです。今日は、あらゆる人々に伝えねばならない重大なニュースがあります。私が言おうとしていることは、世界の大惨事を意味することになるかもしれません。あなたの喜びや笑いを、涙や痛みに変えてしまうかもしれません。

 

それはつまり、今日、愛が愛そのものを必要としている、ということなのです。遅れてはなりません。あなたの愛を今すぐに送ってください。憎しみが蔓延し、多くの心を傷つけています。手遅れにならないうちに、止めなければなりません。邪悪な力があなたを取りこもうとしています。もし放っておけば、悪の力はすべての人類を破壊してしまいます。ですから、私たちは何か予防策を講じなければなりません。平和と愛を宝物のように思うなら、私の話を聞いてください。

 

それはつまり、今日、愛が愛そのものを必要としている、ということなのです。遅れてはなりません。あなたの愛を今すぐに送ってください」(「ラヴズ・イン・ニード・オブ・ラヴ・トゥデイ(邦題、ある愛の伝説)」より大意)

 

(コロナ禍はまさに世界の大惨事。それによってぎすぎすした空気の中、多くの人の寛容と愛が必要とされる。

 

この曲はもともと憎しみの連鎖、戦争を想定して描かれたが、コロナとの戦争にも有効だ)

 

ランダムに選んだ曲をゆっくりお聴きください。

 

Stevie Wonder – Love’s In Need Of Love Today (Live in Tokyo Dome)

https://www.youtube.com/watch?v=2CRd_kNuYWo

 

 

 

スティーヴィーとレーベル・メイトでもあるトム・クレイによる「今世界が必要としているのは愛」

 

子供には憎しみも、差別意識もない。ドラマチックな映像もつけられています。

 

Tom Clay..What The World Needs Now Is Love (Abraham,Martin and John)

https://www.youtube.com/watch?v=1uqNLnEzDLA

 

 

 

アース・ウィンド&ファイアーの「ザッツ・ザ・ウェイ・オブ・ザ・ワールド」。有事のときのアンセム。

 

Earth Wind & Fire – That’s The Way Of The World (ライヴ)

https://www.youtube.com/watch?v=_R2RsP43rmg

 

 

レコードヴァージョン

https://www.youtube.com/watch?v=QhW3P7_jvWY

 

そして、二人そのものが愛の塊と言えるタック&パティ―の二人による「愛こそがカギ」。

Tuck & Patti – Love Is The Key

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=qGD6tmov9-A

 

これも有事のときのアンセム。

Marvin Gaye – What’s Going On

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=H-kA3UtBj4M

 

戦争のときに歌われる反戦歌。

WAR - WHY CAN'T WE BE FRIENDS

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=W5FfJ89rGPc

 

同じく。

Timmy Thomas – Why Can’t We Live Together

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=KYx2uZRlJCk

 

お互い人々が助けを必要とするとき、「私に頼ってもいいんだよ」というまさに今

Bill Withers – Lean On Me

https://www.youtube.com/watch?v=gOZgo8gMIoM

 

 

 

そして、物欲の時代への警鐘。それはあたかもAC=アフター・コロナ禍への提言。

 

ここでいう「ハーヴェスト=収穫期」は、例えばお米や農作物の収穫期が本来の意味だが、それが広義に「実(みのり)ある世界」として歌われる。愛が強欲のために失われる、あらゆる強欲がすべてを破壊することを描く。「収穫期(ハーヴェスト)」とは、種を蒔いて、一生懸命育てて、やっといい作物が出来上がり、収穫できることを意味する。平和な世界も一筋縄では育っていかないが…。アイズレーの社会的コメンタリーを盛り込んだ一曲で、ギターのアーニーが詞の多くを作ったという。

 

Isley Brothers – Harvest For The World

https://www.youtube.com/watch?time_continue=100&v=usIyVup8-rs&feature=emb_logo

 

ハーヴェスト・フォー・ザ・ワールド

Harvest For The World

 

Songwriters: Jasper, Christopher H / Isley, Ernie / Isley, Marvin / Isley, Ronald / Isley, O'Kelly / Isley, Rudolph

 

すべてのベイビーよ、集まれ、みんな人類の選ばれた種だ

だが人類の半分は満たされ、半分は飢えている

我々の中に本来溢れている愛も、我々の強欲のために消滅してしまう

一体愛にあふれた平和な収穫期は、いつ訪れるのだろうか

 

物欲のままに国が作られるが、時とともに痛みが増していく

限りない緊張とプレッシャーの中

一体愛にあふれた平和な収穫期は、いつ訪れるのだろうか

 

あらゆる男よ、あらゆる女よ、集まれ

あなたの人生を祝福し、子供たちに感謝しよう

みな集まり、みな一緒になり、誰もが相手を卑下することなく、世界のために生活がよくなるよう祈ろう

 

平和だけを求めるときに武装すれば、

高い代償を払い、帰路につく頃にはすべてを失う

 

あらゆる国が野獣と化したら、

一体愛にあふれた平和な収穫期は、いつ訪れるのか

 

(訳詩大意・ソウル・サーチャー)

 

Isley Brothers – Harvest For The World

Songwriters: Jasper, Christopher H / Isley, Ernie / Isley, Marvin / Isley, Ronald / Isley, O'Kelly / Isley, Rudolph

 

All babies together, everyone a seed

Half of us are satisfied, half of us in need

Love´s bountiful in us, tarnished by our greed

When will there be a harvest for the world

 

A nation planted, so concerned with gain

As the seasons come and go, greater grows the pain

And far too many feelin´ the strain

When will there be a harvest for the world

 

Gather everyman, gather everywoman

Celebrate your lives, give thanks for your children

Gather everyone, gather all together

Overlooking none, hopin´ life gets better for the world

 

Dress me up for battle, when all I want is peace

Those of us who pay the price, come home with the least

Nation after nation, turning into beast

When will there be a harvest for the world

Songwriters: Jasper, Christopher H / Isley, Ernie / Isley, Marvin / Isley, Ronald / Isley, O'Kelly / Isley, Rudolph

 

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閑話休題。

 

そして、スティーヴィー・ワンダーの話題になった「カー・プール・カラオケ」。この中でスティーヴィーがイギリス出身のコーデンのイギリス訛りをからくあたりがおもしろい。

 

Stevie Wonder Carpool Karaoke

48,451,754 回視聴•2015/09/15

https://www.youtube.com/watch?v=qqrvm2XDvpQ&feature=emb_logo

 

~~~~~~

 

ユーモアと批判と。

 

スティーヴィー・ワンダー・ツイートへの反響 「トランプに投票することは、僕に運転をさせるような

2019年11月11日(月)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-12543969534.html

 

~~~~~

 

最後に、スティーヴィーの5大アルバムを簡単にご紹介。

 

スティーヴィーの『ミュージック・オブ・マイ・マインド(心の詩)』から5枚のアルバムの簡単な紹介

 

■スティーヴィーがクリエイティヴ・コントロールを獲得して以降の5大アルバム紹介

 

■          心の詩 Music Of My Mind

 

1972年3月発売。リリース時点で21歳。スティーヴィーがモータウンとの契約が切れた1971年5月13日以降、それまで供託されていた100万ドルの資金を持ってニューヨークにわたり、ひたすら自分の作りたいように作り始めた作品がこれ。スティーヴィーの自作自演作の記念すべき第一作目です。自立期のデビュー作。タイトルがすべてを物語っています。出始めたばかりのシンセサイザーを多様し、スティーヴィーがほとんどの楽器を多重録音して作り上げた作品。一人多重録音はこの頃から始まっています。シンセの専門家、ロバート・マーグレフとマルコム・セシルの協力を得て作り上げました。

 

https://amzn.to/3cqDYAD

 

曲目

 

ラヴ・ハヴィング・ユー・アラウンド - Love Having You Around

スーパーウーマン - Superwoman (Where Were You When I Needed You)

アイ・ラヴ・エヴリ・リトル・シング - I Love Every Little Thing About You

スウィート・リトル・ガール - Sweet Little Girl

輝く太陽 - Happier Than the Morning Sun

ガール・ブルー - Girl Blue

シームズ・ソー・ロング - Seems So Long

キープ・オン・ランニング - Keep on Running

悪魔 - Evil

 

■          トーキング・ブック Talking Book

 

1972年10月リリース。リリース時点で22歳。前作からひじょうに早いスピードでリリースされた作品。この頃からスティーヴィーはどんどん曲のアイデアが生まれ、いくらでも曲が作れるようになってきました。ここからは「迷信Superstition」「サンシャインYou Are The Sunshine Of My Life」の二大ヒットが生まれ、アルバムもベストセラーに。当時まだ無名のレイ・パーカー、デイヴィッド・サンボーン、デニース・ウィリアムズらも参加。

 

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曲目

 

サンシャイン - You Are the Sunshine of My Life (2:59)

メイビー・ユア・ベイビー - Maybe Your Baby (6:50)

ユー・アンド・アイ - You and I (We Can Conquer the World) (4:38)

チューズデイ・ハートブレイク - Tuesday Heartbreak (3:02)

バッド・ガール - You've Got It Bad Girl (4:59)

迷信 - Superstition (4:26)

ビッグ・ブラザー - Big Brother (3:33)

ブレイム・イット・オン・ザ・サン - Blame It on the Sun (3:26)

アナザー・ピュア・ラヴ - Lookin' for Another Pure Love (4:43)

アイ・ビリーヴ - I Believe (When I Fall in Love It Will Be Forever) (4:52)

 

■          インナーヴィジョンズ

 Innervisions

 

1973年8月3日リリース。リリース時点で23歳。グラミー賞「アルバム・オブ・ジ・イヤー」「エンジニア部門」受賞。これまでになく、スティーヴィーがスピリチュアルな世界に入って生み出した、この時点での最高傑作。まったく駄曲がなく、どれもがシングルヒットになりそうなほどの作品。スティーヴィーはこのアルバムリリース直後、1973年8月6日に交通事故にあい、生死の境目を彷徨います。この事故は、その後、死生観、人生観に大いに影響を与えることになりますが、この内容はそうしたものさえも予言しているかのようでもありました。デイヴィッド・T・ウォーカーが、「ヴィジョン」で参加。

 

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曲目

 

トゥ・ハイ - Too High (4:35)

愛の国 - Visions (5:21)

汚れた街 - Living for the City (7:21)

ゴールデン・レディ - Golden Lady (4:57)

ハイアー・グラウンド - Higher Ground (3:40)

神の子供たち - Jesus Children of America (4:08)

恋 - All in Love Is Fair (3:40)

くよくよするなよ - Don't You Worry 'bout a Thing (4:43)

いつわり - He's Misstra Know It All (5:35)

 

■          ファースト・フィナーレ 

Fulfillingness' First Finale

 

1974年7月発表。リリース時点で24歳。交通事故から奇跡の復活を果たし発表した作品。『トーキング・ブック』からの3部作の「最終章」という位置づけで発表されました。これもまたひじょうに充実したアルバムで、グラミー賞「アルバム・オブ・ジ・イヤー」、「ベスト・ポップ・ヴォーカル(男性)」受賞。

 

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曲目

 

やさしく笑って - Smile Please (3:26)

1000億光年の彼方 - Heaven Is 10 Zillion Light Years Away (5:00)

トゥー・シャイ - Too Shy to Say (3:26)

レゲ・ウーマン - Boogie on Reggae Woman (4:55)

クリーピン - Creepin (4:21)

悪夢 - You Haven't Done Nothin' (3:21)

愛あるうちにさよならを - It Ain't No Use (3:59)

聖なる男 - They Won't Go When I Go (Stevie Wonder, Yvonne Wright) (5:57)

美の鳥 - Bird of Beauty (3:46)

プリーズ・ドント・ゴー - Please Don't Go (4:07)

 

■          キー・オブ・ライフ Songs In The Key Of Life

 

1976年9月リリース。リリース時点で26歳。当時は30センチLP2枚組み+17センチEPという変則アルバムでリリースされた。以前はCD2枚だったが、現在はCDで1枚に収録されている。膨大な楽曲の中から厳選された作品群。これも、スティーヴィーが一度モータウンと契約が切れた後、更新しての第一弾アルバムとなった。『ファースト・フィナーレ』でひとつ、自身の作品をまとめあげたものから、新たな第一歩を踏み出して作った作品。ビルボード・アルバム・チャートで1位に初登場し、13週連続1位を記録。グラミー賞「アルバム・オブ・ジ・イヤー」ほか4部門受賞。スティーヴィーはリリース3作連続で、グラミーの「アルバム・オブ・ジ・イヤー」を受賞したことになる。これは現在までスティーヴィー以外他の誰も成し遂げていない。

 

https://amzn.to/3bnk1t1

 

曲目

 

ある愛の伝説 - Love's in Need of Love Today (7:04)

神とお話し - Have a Talk with God (2:40)

ビレッジ・ゲットー・ランド - Village Ghetto Land (3:23)

負傷 - Contusion (3:44)

愛するデューク - Sir Duke (3:52)

回想 - I Wish (4:11)

孤独という名の恋人 - Knocks Me Off My Feet (3:34)

楽園の彼方へ - Pastime Paradise (3:26)

今はひとりぼっち - Summer Soft (4:12)

出逢いと別れの間に - Ordinary Pain (6:23)

可愛いアイシャ - Isn't She Lovely (6:32)

涙のかたすみで - Joy Inside My Tears (6:28)

ブラック・マン - Black Man (8:27)

歌を唄えば - Ngiculela - Es Una Historia - I Am Singing (3:47)

イフ・イッツ・マジック - If It's Magic (3:10)

永遠の誓い - As (7:06)

アナザー・スター - Another Star (8:26)

----

土星 - Saturn (4:52)

エボニー・アイズ - Ebony Eyes (4:07)

嘘と偽りの日々 - All Day Sucker (5:04)

イージー・ゴーイン・イヴニング - Easy Goin' Evening (3:57)

 

ENT>STEVIE WONDER

ARTIST>STEVIE WONDER

 

~~~~~

 

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〇注目 オランダ出身の3人姉妹ノラ・ヤラ・ローサ~双子の14歳と妹12歳

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〇注目 オランダ出身の3人姉妹ノラ・ヤラ・ローサ~双子の14歳と妹12歳

 

【Norah Yarah And Rosa From Netherland】

 

ダンサー。

 

一足先にツイッターで、先日ジェームス・ブラウンの誕生日(5月3日)に合わせて少女のダンサー3人組が、ミスター・ブラウンの「ゲット・オン・ザ・グッド・フット」にあわせて超楽しそうなダンスを繰り広げていた動画を紹介した。

 

 

Girls Tribute to James Brown

18,012 views•4 May 2020

https://www.youtube.com/watch?v=TcyqqYUttig

 

僕もすぐにツイッターなどで紹介したが、彼女たちはオランダ出身のノラ・ヤラ・ローサという3人組。ちょっと調べてみた。

 

ノラとヤラが双子で2006年頃の生まれの14歳、ロサが2008年頃の生まれの12歳だ。

 

どうも双子の二人は10歳の頃には一人前のダンサーとなっており、いろいろな地元のダンスコンテストに出場するようになっていた。

 

まもなく、下の妹ローサも参加。3人組ダンサー・チームとして活動するようになった。

 

2013年にはオランダの『ガット・タレント』というコンテストに出場。さらに翌2014年にはテレビ番組『エヴリバディー・ダンス・ナウ』に出演、地元で人気となった。その後、同地に公演で訪れたジャスティン・ビーバーのステージで共演するというラッキーもあった。

 

Norah and Yarah live with Justin Bieber

3,519 views•11 Oct 2016

https://www.youtube.com/watch?v=vtFZUcwHKq0

 

そして、その後、2018年アメリカの人気番組『エレン・(デジェネー・)ショー』に出演、2020年1月には再度同番組に出演して、アメリカでも知名度をあげている。

 

2018年5月、アメリカの人気トークショー『エレン・(デジェネー・)ショー』に出演。

Ellen Welcomes Amazing Dutch Dancer Siblings

9 May 2018

https://www.youtube.com/watch?v=x__MnkYNgfQ&t=16s

曲はメイスの「フィール・ソー・グッド」。クール&ザ・ギャング

 

2020年1月、再度登場。

https://www.youtube.com/watch?v=_Zq9z6HHTak&feature=youtu.be

曲はトレヴァ―・モリスの「カム・ダウン」。

 

 

ちょうど5月3日のジェームス・ブラウンの誕生日にミスター・ブラウンの「ゲット・オン・ザ・グッド・フット」にあわせたビデオを公開したところ、全世界でプレイされ、知られるようになった。

 

~~~

 

どこにいけば動画を見られるかというと、彼女たちのインスタとユーチューブ・チャンネルが主要戦場のようだ。

 

ユーチューブ

https://www.youtube.com/channel/UCzlvkMVRk2HIFyOMFAimWSA

 

インスタ

https://www.instagram.com/norah_yarah_rosa/?hl=ja

フォロワーがすでに13万人近く。

 

お父さんがまだ彼女たちに携帯を持たせてくれないのだが、エレン・デジェネーが彼女たちに番組でスマホをそれぞれにプレゼントした。両親は携帯の電磁波が子供には悪影響を与えると言うので、持たせないという。

 

これからが楽しみだ。

 

ENT>ARTIST>Yorah, Norah, Rosa

ENT>DANCER>Yorah, Norah, Rosa


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-0500

 

〇中目黒のライヴハウス「楽屋」(らくや)が、クラウドファンディングを開始。

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(本作・本文は約3300字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、7分から3分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと11分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらにお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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〇中目黒のライヴハウス「楽屋」(らくや)が、クラウドファンディングを開始。

 

【Rakuya, Live Venue In Nakameguro Start Cloud Founding】

 

開始。

 

 

中目黒のライヴハウス「楽屋」(らくや)が、コロナ禍による経営危機のためクラウドファンディングを開始した。

 

2020年5月13日から2週間。目標500万円。詳細はこちら→https://bit.ly/3dKK27l

締切まで集まった金額がすべて主催者に行く「オール・イン方式」。

 

支払い方法はクレジットカード払い、コンビニ払い、銀行振込、auかんたん決済、ソフトバンクまとめて支払い、ワイモバイルまとめて支払い、ドコモ払い、PayPal、FamiPayなど。

 

#中目黒 #楽屋

 

約24時間で100万円超が集まりつつある。

 

店主・オウナーの増茂さんのメッセージは次の通り。

 

はじめに・ご挨拶

 

 

中目黒で25年目を迎える老舗ライブハウス、楽屋(らくや)店主の増茂(まっしー)です。

 

当楽屋(らくや)は、「いい音楽」「美味しい料理」「いい空間」を、たくさんの人に楽しんでいただきたく、日々精進してまいりました。ブルーノート東京の創立より、サウンドエンジニアとして良い音にこだわり音を作ってきて、多くのアーティストからの絶大な信頼を得ています。また、「王様のブランチ」では、中目黒ナンバー1に輝き、シェフがスタジオに作りに行くほどの、絶品創作アジアン料理を提供。タイカレー、ベトナム麺、ガパオライスなど、現在のブームを先取りし、ライブハウスでこれほどの料理を出しているところはないとの評価をいただいております。ご存知の通り1階のお店で、店内ステージ奥には、目黒区の公園が広がり、通常のライブハウスとは違う、気持ちのいい空間が売りになっています。この度の新型コロナウィルスの被害により、初めて存続の危機を迎えました。全国、全世界のライブハウスのみならず、世界中のアーティストを支援するためにも、私にお力を貸してください。よろしくお願いいたします。

 

~~~

 

リターンも1000円から20万円まで各種。

 

~~~

 

楽屋。

 

中目黒商店街の真ん中にある「楽屋(らくや)」。僕も、『ソウル・サーチン』のイヴェントでスティーヴィー・ワンダーを取り上げたのが2004年4月のこと。その次がダニー・ハサウェイを取り上げた2004年9月。もう16年も前になる。マイ・マン、ケイリブ・ジェームスのピアノの弾き語りでやったもの。大変お世話になっているので微力ながら応援したい。

 

そのときの様子

2004/04/23 (Fri)

Thanks For Joining Us: Soul Searchin' Talking Vol.2

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200404/diary20040423.html

 

2004/04/24 (Sat)

"Summer Soft" Made Frank McComb Cry A Month Ago

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200404/diary20040424.html

 

2004/04/25 (Sun)

Soul Searchin’ Talking Saga Continues

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200404/diary20040425.html

 

Setlist

 

Part One

 

SET ONE

 

Love's In Need Of Love Today

All I Do

Creepin'

Don't You Worry 'Bout A Thing

Signed, Sealed, Delivered I’m Yours

 

SET TWO

 

I Can't Imagine Love Without You

Too Shy To Say

 

I Can't Help It (Michael Jackson)

You Are My Heaven (Roberta & Donny)

Betcha Wouldn't Hurt Me (Quincy Jones)

Untill You Come Back To Me (Aretha Franklin)

It's A Shame (Spinners)

Tell Me Something Good (Rufus)

 

+++++++++++++++++++++

 

Part Two

 

SET THREE

 

Lately

Send One Your Love

Secret Life Of Plants

All In Love Is Fair

If It's Magic

 

SET FOUR

 

If You Really Love Me

Summer Soft

Ribbon In The Sky

Ordinary Pain

Superwoman

 

ENCORE

 

I Wish

Superstition

 

You Are The Sunshine Of My Life

 

Performance by Kaleb James (Vocal / Piano)

 

(2004年4月22日木曜・ソウル・サーチン・トーキング=目黒楽屋[らくや])

 

そして、2004年9月に行われた『ソウル・サーチン~ダニー・ハサウェイ』。

 

2004/09/23 (Thu)

Soul Searchin' Talking Vol. 3. : Donny Was Here, Tonight

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200409/diary20040923.html

 

2004/09/24 (Fri)

Soul Searchin' Talking Vol. 3. : Donny Was Here, Tonight

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200409/diary20040924.html

 

2004/09/25 (Sat)

Why Does Roberta Flack Never Approve Her Duet Songs With Donny Hathaway?

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200409/diary20040925.html

(なぜロバータがダニーとのデュエット曲を封印しているのか、についての考察。下記セットリストのあとに、掲載します)

 

Setlist

Soul Searchin Talking Vol.3

At Rakuya 2004.9.22 (Wednesday)

 

show started 7:45

01. A Song For You

 

02. Flying Easy

03. Someday We'll All Be Free

 

04. Superwoman

05. Jealous Guy

 

-- Put Your Hand In Your Hand (Donny Hathaway live video footage from Flip Wilson Show)

 

--Break--

 

Second Set

 

06. Little Ghetto Boy

07. I Love You More Than You'll Ever Know

 

08. For All We Know

09. The Closer I Get To Know (with Lady Yoko)

10. What's Goin' On

 

Encore You've Got A Friend

 

show ended 10.49

 

Performance by Kaleb James (Vocal / Piano)

 

(2004年9月22日水曜、ソウル・サーチン・トーキングVOL.3、中目黒楽屋)

 

~~~~~

 

■なぜロバータ・フラックは、ダニーとのデュエット曲を封印するのか

 

2004/09/25 (Sat)

Why Does Roberta Flack Never Approve Her Duet Songs With Donny Hathaway?

 

封印。

 

『ソウル・サーチン・トーキング』で、ダニー・ハザウェイの未発表曲を含む『アンソロジー(ボックスセット)』の発売が2年以上遅れているという話をした。そして、その理由はそこに収録されるロバータ・フラックとのデュエットに関して、ロバータが発売を許可しないかららしい、という説明を加えた。僕は単純にも、ロバータが許可しないことに、「なんでだ、ずいぶんな人だなあ」などと思ってしまった。このアンソロジーがなかなか発売されないものだから、では別の編成で未発表曲を出そう、ということもあって、今年(2004年)の『ライヴ! ディーズ・ソングス・フォー・ユー』が出た。

 

 

さて、なぜロバータがダニーとのデュエットの発売に許可を与えないのか。元々彼女は、自分自身の作品が、ヒットもののオムニバスなどに収録されることを嫌う人だった。最近よくあるベストヒット形式のオムニバスにもほとんどロバータの作品は使われていない。ロバータが自分自身の作品は、自身のアルバムの中でのみ発表されるべきだと考えているからだ。アルバム全体で作品ができているのだから、切り売りはしない、ということだ。これは見識としてリスペクトできる。

 

だが、ダニーのアンソロジーなら、他のアーティストとの混在もない。極めてシンプルかつ、ファンの要望も強いことは百も承知だろう。「他でもない、ダニーの作品なんだから、いいじゃないか」という気になる。では、なぜ。

 

『ソウル・サーチン・トーキング』にいらしたOさんが、その点について実にうまい説明をしてくれた。「大阪で2000年くらいだったか、彼女のライヴを見た時に、やはりダニーについてロバータがしゃべっていたことをはっきりと覚えている。英語はわからないので、正確に何て言っていたのかはわからないけれど、ロバータはものすごくダニーのことを愛していたんじゃないかと感じた。そのコメントにはものすごく愛があふれていた。だから、私はそのことを吉岡さんに聞きたかったんです。あの二人はつきあっていたんですか」

 

「ダニーとロバータがつきあっていたかどうかは、わからないなあ。つきあっていたかもしれないし、ただ単純に音楽的な結びつきだけだったかもしれない」と僕。 「でも、あの二人はエッチしてるんじゃないかしら。そうじゃなきゃ、あれほど愛がほとばしるデュエットにはならないと思う。時々、デュエットでもまったく愛が感じられないものがあるでしょう。(笑) (ダニーとロバータは)仮にしていなくても、する寸前とか。彼らのデュエットには愛が間違いなくあるわ。吉岡さんが2002年にロバータがダニーのことを語った時のことを話したとき、『そうそう』と思った」 確かに二人のデュエットに愛はある。

 

「だからこそ、彼女はそのデュエットを外に出せないんじゃないかしら。世に出す、人前にさらすというのは、ものすごくパッションとエネルギーがいるでしょう。すごく大事なものは、逆にひけらかせないのよ。だからロバータの気持ちはよくわかる」 

 

なるほど。1979年1月のダニーの自殺という死はロバータにとってもはかりしれないほどの衝撃を与えたに違いない。それは今でもトラウマになっているかもしれないし、彼女自身がなんらかの後悔の念を持っているかもしれない。まさに彼女とのデュエットアルバムを作っている最中に、ダニーは自殺しているのだ。ロバータが直接彼の死に責任を負う必要はないにせよ、彼女自身は大きな負い目を持っているかもしれない。

 

となると、彼女があらゆるダニーとのデュエットソングを「封印」したいと思うことも自然なことだ。ひょっとしたら、遺言で自分が死んだら発売してもいい、などとしたためているかもしれない。

 

「大事なものほど、しまっておきたい」 ロバータの心の奥底にそういう気持ちがあるのだろう。ダニーとのデュエットというのは、ロバータにとって墓場まで自分だけで持っていきたい、極めてプレシャスな一点ものの豪華な宝石なのだ。それほど素晴らしい想い出。だから人前には出せないのだ。

 

『ソウル・サーチン・トーキング』の冒頭で紹介したロバータのインタヴューで、最後に一言彼女が言う。「ダニーのレガシーが今の若い人たちにも伝えられればいいと思う」 この後、すこし間があって、「私は生きているのにね」とぽつりと言った。やはり、彼女はダニーの死に対して、自分なりの責任というものを痛切に感じているのだ。その心の奥底は決して語られることはないだろうが、だが、この一言でダニーへの思いが世界中の誰よりも強いということに気がつかされた。

 

ダニー死して25年。四半世紀。だが、ロバータにとってはそれはまるで昨日の衝撃として生々しく心に刻まれているのだ。

 

Diary Archives by MASAHARU YOSHIOKA

 

ENT>LIVE VENUE>Rakuya

ENT

 

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SERIES: “LIVE SEARCHIN - I MISS LIVE”~ライヴに行きたい①

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(本作・本文は約3000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、6分から3分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと10分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

〇SERIES: “LIVE SEARCHIN - I MISS LIVE”~ライヴに行きたい① ダニー・ハサウェイ・ライヴ盤

 

【Series: “Live Searchin : I Miss Live” Episode One:  Donny Hathaway Live】

 

1971年。

 

もうずいぶんとライヴに足を運んでいない。ここまでライヴハウスにごぶさたしたのはどれくらいぶりになるのだろう。まあ、1970年代には見たいソウル・アーティストの来日は、一年に数本だったので、月一回もライヴはなかったが、1980年代以降はちょくちょくでてきて、1990年代以降小規模のライヴハウスが積極的にアーティストを招聘するようになり、ほぼなんらかの形で毎週のようにライヴを見るようなったから、この約3か月のライヴなし生活はかなり異様だ。すっかりネットでの配信ライヴなどに頼ってしまう。

 

 

ということで、ライヴ中毒者はそろそろヤクが切れて中毒症状が表れているはず。そこで、ライヴに行けないなら、昔のライヴ映像やライヴ盤を聴こう、ということにあいなる。

 

しかたがないので不定期に、いわゆるライヴ盤で名盤とされるものを改めて聴いたり、自分が見たライヴを振り返ってみようかと思った。

 

第一回は、2020年5月16日付け毎日新聞夕刊・楽庫のコラムで取り上げるダニー・ハサウェイのライヴ盤。楽庫は毎週、日本国内で行われるライヴを約10人の筆者が手分けして書いているが、さすがに3月以降、ライヴがほぼなくなってしまい、ライヴ評が書けなくなった。そこで、ライヴ盤にスポットをあてて、それを紹介することになった。ここでは新聞コラムで書ききれなかったことなどをちょっとまとめてみたい。

 

~~~~~

 

ダニー・ハサウェイ/『ライヴ』

(限定版) 889円+税

(ジャケ写)

https://amzn.to/3dMmS02

 

このダニー・ハサウェイのアルバムは、1970年のデビュー作『エヴリシング・イズ・エヴリシング』、1971年の『ダニー・ハサウェイ』に続く通算3枚目のアルバムで、1972年2月にリリースされた初のライヴ・アルバムだ。先の2枚のスタジオアルバムのリリースを受け、1971年8月にロスアンジェルス・ハリウッドのライヴハウス「トロバドール」と同年10月ニューヨークのライヴハウス「ザ・ビター・エンド」で収録されたライヴ音源から選曲編纂されたもの。

 

トロバドールで録音されたものが、アナログLPのA面に、ビター・エンドで録音されたものがLPのB面に収録されている。(現在はCDで1枚) 基本的なミュージシャンは、主人公ダニー・ハサウェイ(ヴォーカルとキーボード)、ドラムスがフレッド・ホワイト(アース・ウィンド&ファイアーのモーリス・ホワイト、ヴァーディンん・ホワイトの弟、当時まだ16歳)、コンガ・ドラムス(パーカッション)がアール・デローエン、ベースがウィリー・ウィークスで、ギターはマイク・ハワードが両方のセッション、ロス・トロバドールがフィル・アップチャーチ、ニューヨーク・ビター・エンドがコーネル・デュプリーだ。

 

収録曲は各面4曲ずつ。

 

Side one

 

1.    "What's Goin' On" (Renaldo "Obie" Benson, Al Cleveland, Marvin Gaye) – 5:18

2.    "The Ghetto" (Donny Hathaway, Leroy Hutson) – 12:08

3.    "Hey Girl" (Earl DeRouen) – 4:03

4.    "You've Got a Friend" (Carole King) – 4:34

 

Side two

 

1.    "Little Ghetto Boy" (Earl Derouen, Edward Howard) – 4:29

2.    "We're Still Friends" (Hathaway, Glenn Watts) – 5:12

3.    "Jealous Guy" (John Lennon) – 3:08

4.    "Voices Inside (Everything Is Everything)" (Richard Evans, Philip Upchurch, Ric Powell) – 13:47

 

全米ではアルバム・ポップ・チャートでは最高位18位、R&Bアルバム・チャートでは4位を記録した。当時はゴールド・ディスク(50万枚以上のセールス)にはならなかった。ある意味、その後40年以上にわたって時の試練に耐え、どんどんと評価を上げて行った作品だ。

 

A面1曲目は、マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイング・オン」のカヴァー。マーヴィンのものが出たのが1971年3月で、すぐにヒットするが、ダニーは半年もしないうちにカヴァーし、しかも完全に自分のものにしている。

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=TM6OgiRrAnE#action=share

 

ほかにジョン・レノンの「ジェラス・ガイ」、そして、キャロル・キングが書き、ジェームス・テイラーでヒットさせていた「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」などのカヴァーが収録されている。特に「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」は、イントロが流れた瞬間客席から歓声があがり、途中からみんながコーラスを一緒に歌い始める。まさにアーティストと客席が自然に一体になっているすばらしい瞬間だ。そしてオリジナル楽曲も、プロデューサーたちが驚くほど観客が曲をよく知っていて歌っていたという。

 

~~~

 

■なぜ名盤の誉れ高くなったのか

 

歓声。

 

今から考えると、先に行われたトロバドールでの録音はひょっとしたら、ニューヨーク・ビター・エンドの予行演習的な側面もあったのかもしれない。ビター・エンドでは3日間ライヴが行われ、そのうち初日は2セット、2日目3日目がなんと3セットの計8セットも行われた。1セットだいたい70分近くなので、560分約9時間以上分の素材があった。そこから選りすぐりB面分約24分に編集した。(トロバドールがトータル何セットあったかまだ正確にわからないのだが。2日とすると4セットくらいか) ジャケットに映っているレンガの背景のほうがビター・エンドのステージだ。

 

録音は、ライヴ会場の外に録音機材を積んだトレーラーを駐車し、そこで行う。今なら、パソコンなどですべて室内できただろうが、当時は録音機材は大きく場所も取るので、たいがいそうした録音用トレーラーを使った。

 

ジェリーやアリフは、これより先、アレサ・フランクリンのライヴ盤をロスの教会で録音しており、そのときのノウハウが大いに役立ったという。

 

プロデューサーのジェリー・ウェクスラーは会場で、エンジニアでもあるアリフ・マーディンは録音機材の積まれた大型トラック(モバイル・レコーディング用トラック)の中にいて録音を行っていた。

 

ミュージシャンたちのパフォーマンスはいずれのプレイヤーもきっちりと見事に自分の持ち場で100%以上のパフォーマンスを見せている。

 

2014年4月にこの『ライヴ・アット・ザ・ビター・エンド・1971』という未発表テイクが収録されたアルバムが世に出た。

 

おもしろいことにここに収められているライヴ・ヴァージョンでは、比較的観客の歓声が低めに収められている。たとえば「ユーヴ・ガット・ア・フレンド」など、すっかりおなじみのイントロのキーボードが流れた瞬間の観客の歓声がここにははいっていない。割と静かに冷静なのだ。

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=VMxgyFtMMsI

 

 

 

https://youtu.be/5OofE-yufPc

 

つまり、世に売り出され、我々が傑作と評価しているおなじみのライヴ盤はアリフ・マーディンらによると、若干歓声をあげ、客席と一体感がでるようにしたということなのだ。このあたりが、ライヴ盤を作る上での「肝」なのだろう。たしかに、キーボードからの歓声がないヴァージョンは拍子抜けする。

 

歓声なしヴァージョン。

 

 

おなじみの歓声ありヴァージョン。

 

 

 

ビター・エンドの会場キャパ(収容人数)は約200人程度というから、東京のブルーノートくらいの大きさだ。観客とアーティストとの濃密さ(いまでいえば濃厚接触ぶり)はすばらしいものがあった。

 

このビター・エンドは、1961年にオープンして以来、現在まで続いているライヴハウスの老舗のひとつだ。

 

ミュージシャンたちは、ロスのトロバドールで何回かやり、このニューヨークのビター・エンドでも8回やり、すっかり意気投合し、形もできていた。

 

小さなライヴ会場だからこその濃密さ、そして何回(何セット)にもおよぶライヴセットでミュージシャンたちがすっかり楽曲を自分のものにしていること、そして、観客との一体感を演出するちょっとしたテクニックなどの総合的な要素によってこのアルバムは、名盤となった。

 

 

クラシック音楽を学び、気に入り、壮大なオーケストラもアレンジできる稀有な才能をもったダニー・ハサウェイ。

 

しかし、ダニー本人はこのライヴの出来にそれほど満足はしていなかったという。何より、彼は自分の声が気に入ってなかったのだという。ひじょうに繊細で、さまざまなことを考えるダニー。その繊細さゆえに、音楽業界の重圧に耐えられなくなってしまったのかもしれない。

 

ちなみに、ライヴ盤のジャケットでダニーが被っている帽子は、その後このギタリスト、フィル・アップチャーチがガラスのケースにいれて自ら保存しているという。それは、あるときロス在住のフィルがニューヨークにいったときに寒くて何ももってなかったので、その帽子を帰るまで貸してくれと頼んだところ、ダニーは気前よくフィルにあげたという。

 

ライヴの名盤も一朝一夕にできるわけではない。

 

ENT>LIVE>Hathaway, Donny

 

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〇伝説のロバータ・フラックがチャリティー・リスニング・パーティーを生配信

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(本作・本文は約3200字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、6分から3分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと11分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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〇伝説のロバータ・フラックがチャリティー・リスニング・パーティーを生配信~『ファースト・テイク』50周年記念デラックス盤7月発売

 

【Roberta Flack To Host Charity Listening Party On YouTube】

 

生配信。

 

ロバータ・フラックがチャリティー・リスニング・パーティーを生配信する。日本時間2020年5月17日(日)午前4時から、ライノ・レコーズのユーチューブ・チャンネルでサンティタ・ジャクソンが司会。アメリカでは5月16日、東部時間15時、西部時間12時から→

https://bit.ly/3cByZgB 

(日本時間17日午前4時から)

おそらくアーカイヴも残るものと思われる。

 

視聴は無料、寄付を募る。

 

ライヴでは、新曲のほか、おなじみの作品も披露するようだ。チャリティーは、飢えに苦しむ子供たちへの資金募集を行う「フィード・ザ・チルドレン(子供たちに食事を)」基金へ送られる。

 

サンティタ・ジャクソンは元々シンガーで、現在は政治的活動をしているが、かつてロバータ・フラックのバックコーラスでツアーに回っていたという。

 

今回はこのストリームのためにライヴ・バンドで登場。初期の代表的ヒットからも歌う予定のようだ。彼女は、「Love is a Song」(愛は、歌)とコメントしている。同名の未発表曲が7月にリリースされる。(詳細下記に)

 

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■ロバータ・フラック『ファースト・テイク』発売50周年デラックス盤2020年7月24日発売

 

デラックス盤。

 

ロバータ・フラックのデビュー作にして名盤『ファースト・テイク』(1970年1月からヒット)がヒットしてちょうど50周年、半世紀ということで、その『ファースト・テイク』の50周年記念特別盤を2020年7月24日に発売される。

 

 

アルバムは正確には1969年6月に出ているが、当初はシングル・ヒットも生まれなかったために、アルバムもまったく売れなかった。しかし、1971年11月に公開された映画『プレイ・ミスティー・フォー・ミー(邦題、恐怖のメロディ)』(クリント・イーストウッド監督、主演)でこのアルバムからの「ファースト・タイム・エヴァー・アイ・ソウ・ユア・フェイス」がいい形で使われ、注目され、1972年3月になってシングル・カットされヒット、見事に全米ポップ部門で1位になり、アルバムもポップ・アルバム・チャートで1位、いっきにアルバムが売れた。売れるまでに2年半かかっているわけだ。

 

Play Misty for me - The first time I ever saw your face

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=ee_u1HQxh2s&list=RDee_u1HQxh2s&start_radio=1

『プレイ・ミスティー・フォー・ミー』中、「ファースト・タイム・エヴァー・アイ・ソウ・ユア・フェイス」が流れるシーン

 

Play Misty For Me (Full) 購入もしくはレンタル(1時間42分)

https://www.youtube.com/watch?v=5eX2FGqJX4g

 

 

 

Roberta Flack - First Time Ever I Saw Your Face 1972

https://www.youtube.com/watch?v=d8_fLu2yrP4

 

 

 

 

今回のデラックス・エディションは、CD2枚とアナログ・アルバム1枚、豪華ブックレット付で49ドル98セント。(約5500円)+郵送料。ここには12曲、未発表曲が収録されている。

 

そのうちの一曲は「グルーヴ・ミー」というもの。ちなみに、キング・フロイドのヒットではない。もちろん、ガイでもない。ロバータのオリジナルだ。1968年11月に録音したデモ・ヴァージョンだ。

 

Groove Me – Roberta Flack

https://www.soulmusic.com/node/350

 

販売サイト→

https://store.soulmusic.com/first-take-50th-anniversary-deluxe-edition-1.html

日本への郵送料は約16ドル。計約66ドル=7260円。クレジットカード決済。

 

ライナーノーツは、イギリス在住のソウル・ミュージック評論家、デイヴィッド・ネイサン。また、ロバータの初期デビューの力添えをしたジャズ・ミュージシャン、レス・マッキャンも一文を寄せている。3000セット限定。

 

通常版『ファースト・テイク』 962円+税

 

 

https://amzn.to/2LEewLX

 

■『ファースト・テイク』はわずか10時間で録音

 

ロバータ・フラックは、アトランティックのジャズ・アーティスト、レス・マッキャンがワシントンDCのジャズ・クラブでロバータを見て感動し、アトランティックとの契約を取り付け、デビュー作でも協力した。

 

レコーディングは1969年2月にわずか10時間で8曲を録音した。このうちの2曲(「アワ・エイジス・オア・アワー・ハーツ」と「トライン・タイムス」)はダニー・ハサウェイ作品。

 

今回のデラックス・ヴァージョンには、3曲のボーナス・トラックを収録。シングルB面となった「トレイド・ウィンズ」、「ザ・ファースト・タイム・エヴァー・アイ・ソウ・ユア・フェイス」と「コンペアード・トゥ・ホワット」のシングル・ヴァージョン。

 

ディスク2では12曲の未発表音源を収録。これは1968年11月にプロデューサーのジョエル・ドーンと録音したもの。「グルーヴ・ミー」はそのときに録音したロバータのオリジナル曲だ。

 

ほかに「フランキー&ジョニー」、ブルーズ・スタンダード「ノーバディー・ノウズ・ユー・ホエン・ユーアー・ダウン・アンド・アウト」、フォークの「ザ・ソング・イズ・ラヴ」、ポップの「トゥ・サー・ウィズ・ラヴ」(=ルルのヒット。「いつも心に太陽を」)、「エイント・ノー・マウンテン・ハイ・イナフ」(マーヴィン・ゲイ&タミー・テレル、のちにダイアナ・ロスなど)などが収録される。これは一足先に配信で解禁されている。マーヴィン&タミーのアレンジをベースに歌われている。

 

~~~~~

 

 

ロバータ・フラックは1975年初来日。以後、来日多数。最後は2013年12月。

 

ロバータ・フラック過去ライヴ評から2010年9月4日付けのものを。一覧はこのライヴ評の後。各リンクをたどってください。

 

◎  ロバータ・フラック~進化し続ける女神

2010年09月04日(土)

 

【Roberta Flack Live : Goddess Still Growing】

 

女神。

 

ロバータ・フラックというシンガーのミュージシャン、アーティストとしての底力を見せ付ける、そんなライヴだ。2007年、2008年、2009年に続いてのライヴ。ロバータはステージ中央のピアノに座りながら歌う。自由自在に、その瞬間彼女が歌いたいと思った曲を弾き、歌う。基本的には事前のセットリストはない。たいがい、ロバータがピアノのイントロを弾き始めて、ミュージシャンたちはそれで曲を知り、追う。満員の観客で、ファーストが押したせいで、スタートは9時45分すぎ。

 

ドラムス、ギター、ベース、キーボード、フルート&トランペット、コーラス3人の8人バンドにロバータ。ステージは完璧にロバータがコントロールしている。イントロからステージに上がりピアノの前に座った彼女は、いきなり、strummin’ my pain with his fingersと歌いだした。邦題は「やさしく歌って」。冒頭から心、わしづかみ。さらに、カトリース&ジェリー・バーンズの「セイ・ノー」、そして、おなじみの「フィール・ライク・メイキング・ラヴ」。ノンストップで、次々と歌われ客は息をつく暇もない。「フィール・ライク…」の中にはマーヴィン・ゲイの「ユー・シュア・ラヴ・トゥ・ボール」のフレーズをちりばめ、あたかもマーヴィン・ゲイ・メドレーへの予告塔かのよう。

 

MCで「フリオ・イグレシアスとダイアナ・ロスのために書かれた曲です。ラッキーなことに、彼らが録音しなかったので、私たちが録音できました」と言って歌い始めたのが、日本でも人気の高い「愛のセレブレーション」。フリオとダイアナ向けとは知らなかった。

 

そして、このところよく歌われるマーヴィン・ゲイ・メドレー。バック・コーラスの女性シンガーと男性のデリックの歌もフィーチャーされ、本当に見事。最後の「マーシー・マーシー・ミー」の盛り上がり方ははんぱではない。カットアウトで終わると、まさに感動の嵐だ。そして、観客からの拍手もやまぬうちにロバータはペースを変え、しっとりとしたピアノのイントロを弾き出す。プリテンダーズのヒットで、最近では彼女がアンコールに歌うことが多いという「アイル・スタンド・バイー・ユー」だ。これは前回聴いて、ものすごくロバータっぽい曲だと思ったが、すばらしい曲。まだ、ロバータ自身は録音していないようだ。さび部分を途中で客に歌わせようとしたが、若干、難しかったか。

 

ボブ・マーリーの「ノー・ウーマン…」をやりだしたが、ロバータが「ちょっとテンポが早い」といい、すぐにミュージシャンはテンポを遅くした。まさに、ロバートはボス。

 

ダニー・ハザウェイとのデュエットで大ヒットした「バック・トゥゲザー・アゲイン」。これは、バック・コーラスのデリックとの超強力デュエット。これにキーボードで歌も歌うシェリックが加わり壮絶な「バック・トゥゲザー・アゲイン」になった。ミディアム調のこれが終わるとまたしっとりとピアノから。前回もやっていたマイナー調の「テル・ミー・ホワイ」。その後、今日の最後の曲といって歌い始めた「ソフト・アンド・ジェントル・レイン」だったが、その後、最後といったにもかかわらず、ちらっと「ザ・ファースト・タイム・エヴァー…」も歌う。これを歌い終えるとコーラスの3人さえもが、ロバータの歌に拍手を送った。加えてアンコールを2曲も。のりにのっていたのだろう。ライヴが終わったのが、23時28分だ。

 

曲がどのように歌われるか。過去3年分のセットリストと見比べると、実に興味深い。曲の、出し入れが自由自在なのだ。

 

観客にマーカス・ミラーもいたが、ミラー作品「オアシス」は歌わなかった。ロバータは楽屋に戻るとき、座っていたマーカスを見つけ、ハグ。

 

それにしても、こんなに自分の思い通りにミュージシャンと、そして、観客をコントロールできたら、ミュージシャン冥利に尽きると思う。70歳を超え、いまだに新しい楽曲を次々とレパートリーに加えていくその「進化」ぶりには感銘を受ける。スティーヴィーも神様だが、ロバータも女神だ。

 

■メンバー

 

ロバータ・フラック(ヴォーカル、ピアノ)Roberta Flack(vo,p)

アルチューロ・タッピン(サックス、フルート)Arturo Tappin(sax,flute)

シェルトン・ベクトン(キーボード、ミュージカル・ディレクター)Shelton Becton(key,musical director)

ディーン・ブラウン(ギター)Dean Brown(g)

ニコラス・ブランカー(ベース)Nicholas Brancker(b)

チェ・マーシャル(ドラムス)Che Marshall(ds)

デリック・ヒューズ(バック・ヴォーカル)Derick Hughes(back vo)

ノヴァ・ネルソン(バック・ヴォーカル)Nova Nelson(back vo)

メリッサ・ラロシェル(バック・ヴォーカル) Mellisa Larochelle(back vo)

 

■ セットリスト ロバータ・フラック@ブルーノート東京、2010年9月2日木曜、

Setlist : Roberta Flack @ Bluenote Tokyo, September 2, 2010

 

musicians stand by 21:45

show started 21:47

01. Intro (Rise)

02. Killing Me Softly With His Song

03. Sweet Georgia Brown

04. Say No

05. Feel Like Making Love ~ You Sure Love To Ball [Marvin Gaye]

06. Tonight I Celebrate My Love

07. Marvin Gaye Medley: Inner City Blues – Save The Children – Mercy Mercy Me

08. I’ll Stand By You [Pretenders]

09. Feelin’ That Glow

10. No Woman, No Cry [Bob Marley]

11. Back Together Again (With Derrick, Shelton)

12. Tell Me When

13. (Like A) Soft & Gentle Rain

14. The First Time Ever I Saw Your Face

15. Love Me In A Special Way [Debarge]

Enc. You’ll Never Know (‘Til You Let Go)

Enc. Baby, I Love You (Shelton sings)

Outro: Theme (Rise)

Show ended 23:28

 

(2010年9月2日木曜、ブルーノート東京=ロバータ・フラック・ライヴ)

ENT>MUSIC>LIVE>Flack, Roberta

2010-143

 

■ 過去関連記事

 

前回ライヴ評。

April 18, 2007

Roberta Flack; The Night Marvin Gaye Comes Down

http://blog.soulsearchin.com/archives/001719.html

 

April 19, 2007

Roberta Flack: Very Spontaneous Live Performance

http://blog.soulsearchin.com/archives/001720.html

 

ロバータ・フラック・ライヴ

2008年03月08日(土)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10078246447.html

 

ロバータ・フラック~進化し続ける女神

2010年09月04日(土)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10638005227.html

 

ワウフェス~平井堅、ラウル・ミドン、ロバータ・フラック、ダニー・ハサウェイをキーワードに一堂に

2010年10月30日(土)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10691500944.html

 

ロバータ・フラック、3年ぶりの来日~自由度の高いライヴ~ダニーの影を探して

2013年12月14日(土)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-11728666858.html

 

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 007 CCRの反戦歌「フォーチュネイト・サン」と『

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(本作・本文は約4400字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、9分から4分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと15分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 007 CCRの反戦歌「フォーチュネイト・サン」と『ダイ・ハード 4.0』■■

 

南部ロック、アメリカン・ロックの雄として知られるクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル。略してCCR。僕も個人的に大好きなグループだが、その彼らのヒット「フォーチュネイト・サン」が映画『ダイ・ハード4.0』で使われ、そのときにこの曲について書いた。それをまとめてお送りします。CCRのリード・シンガー、ジョン・フォガティーは1945年5月28日生まれということで、10日ほどはやいが、ハッピーバースデイ・ジョン・フォガティ―ということで。

 

2007年07月19日(木)  

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10040325271.html

 

【ジョン・マクレーン、君は世界一不運の男か幸運の男か】

 

幸運。

 

公開中の映画『ダイ・ハード4.0(原題、Live Free or Die Hard)』(2007年)を見た。

 

 

ダイ・ハード・マン、ジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)が、護送中のコンピューター・ウイザード(コンピューターの天才)のマット・ファレル(ジャスティン・ロング)と車で移動している。カーラジオから、CCRの「フォーチュネイト・サン」(1969年11月からヒット。シングル「ダウン・オン・ザ・コーナー」のB面)が流れてきた。マクレーンが「クリーンデンスだ」と言ってヴォリュームをあげる。すると、ファレルは「そんな昔の音楽を・・・」と小ばかにする。マクレーンはその台詞に無言でさらにヴォリュームをあげる。ファレルがいやな顔をする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この曲は1960年代後期から1970年代中期くらいまで大人気だったクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルという長い名前のロック・グループの作品のひとつだ。おそらくデジタル世代のファレルはもっとコンピューターで打ち込まれたような音楽が好きなのだろう。こうしたアナログの「一時代も前のロック」はあまりに古臭く感じたに違いない。

 

僕は、このシーンがけっこうデジタルなファレルとアナログなマクレーンをうまく象徴してるように思えて、気に入った。ま、単純にクリーデンスを好きなマクレーンが好きってだけかもしれないが。(笑)

 

さて、『ダイ・ハード4.0』の最後、無事一件落着しエンディング・クレジットになるところで、再びクリーデンスの「フォーチュネイト・サン」が流れてきた。つまり、エンド・テーマだ。うまいねえ。

 

この「フォーチュネイト・サン」は、歌詞をよく調べてみると、「I ain’t no fortunate one, no,(俺は、決して運のいい息子じゃないぜ)」というもの。世界一運の悪い男=ジョン・マクレーンにはぴったりのテーマではないか! 

 

ところで、この映画のタイトル、日本ではシンプルに『ダイ・ハード4.0』だが、アメリカでは『Live Free or Die Hard』となっている。この英語は、アメリカのニューハンプシャー州の州のモットー「Live Free or Die(自由に生きるか、さもなくば死を=自由がなければ、死んだほうがまし)」をもじったものだという。ただ、このフレーズはアメリカ以外ではわからないために、アメリカ以外の世界では「ダイ・ハード4.0」というタイトルで公開されたそうだ。

 

でも、世界一運の悪い男といっても、結局、あれだけ危機一髪を乗り越え、生き延びてるんだから、He’s a fortunate son (彼は幸運な男)ではないだろうか。(笑) ジョン・マクレーン、サイコー! 

 

CCRベストアルバム

CREEDENCE CLEARWATER REVIVAL:CHRONICLE THE 20 GREATESTHITS CD, インポート

https://amzn.to/36dUmSM

 

■ダイ・ハードDVDボックス

 

ダイ・ハード DVDコレクション(5枚組)

ブルース・ウィリス (出演)  形式: DVD

https://amzn.to/2TdyzoM

 

+++++

 

ENT>MUSIC>ARTIST>CCR

ENT>MOVIE>Die Hard 4.0

ENT>MUSIC>SONG>Fortunate Son

 

++++++++++++++++++

 

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10040424201.html

 

2007年07月20日(金)  

(昨日の『ダイ・ハード4.0』からのつづき)

 

【「幸運な息子」(フォーチュネイト・サン)物語(パート1)】

 

反戦。

 

昨日『ダイ・ハード4.0』のエンディングで、CCR(クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル)の「フォーチュネイト・サン」がかかったのを機に、彼らのベストCDをひっぱりだして聴いた。

 

そのCCRは、1960年代後期のまさにアメリカの気分を表現していたグループだ。ヒッピー発祥の地、サンフランシスコを本拠に活躍したが、音楽的にはアメリカ南部のスワンプ・ロック、黒人のブルーズ、ソウルなどの影響を多大に受けていた。

 

その頃のヒッピーは、反戦、反体制が主流で、クリーデンスもそうしたヒッピー、反体制のスピリットを持った作品を多くだした。この「フォーチュネイト・サン」も反戦歌的側面をもつし、彼らの大ヒット曲「ハヴ・ユー・エヴァー・シーン・ザ・レイン(邦題、雨をみたかい)」は、ヴェトナム戦争への明らかな反戦歌だった。

 

この「フォーチュネイト・サン」は、これまでにもいくつかの映画で使われていた。たとえば、『フォーレスト・ガンプ』で、またワイクリフ・ジーンのカヴァー・ヴァージョンが映画『マンチュリアン・キャンディデート』でも使われている。

 

カヴァーも、ワイクリフ・ジーン以外にも、ボブ・シーガー、パール・ジャム、U2、.38スペシャル、ブルース・スプリングスティーンなどが歌っている。

 

 

 

 

さて、「フォーチュネイト・サン(幸運な息子、恵まれた息子)」について調べてみると、けっこうおもしろかったのでご紹介したい。

 

この「幸運な息子」とは、1969年当時ヴェトナム戦争が激しさを増して、全米の若者たちが次々徴兵されていたときに、有力政治家の息子や金持ち、権力者の息子たちはコネによって、徴兵を免れたり、徴兵されても前線ではなく比較的安全な場所に配属されるよう裏で話をつけられていたことについて歌っている。

 

曲の作者であり、クリーデンスのリード・シンガー、ジョン・フォガティーはこの曲のモデルをドワイト・D・アイゼンハワー大統領(第34代=共和党)の孫、デイヴィッド・アイゼンハワーのことを想定して書いたという。そのデイヴィッドは1968年12月、リチャード・ニクソン大統領(第38代=共和党)の娘ジュリー・ニクソンと結婚した。デイヴィッドは、そうした特権を利用していわゆるネイヴィー・リザーヴ(予備兵役軍)という前線ではなく比較的安全な職務についた。

 

この曲自体は、もともと徴兵される男の目線で書かれたもの。そして、ヴェトナム戦争反対の立場でもある。しかし、すでに前線に行った兵士たちには士気を上げ、がんばるよう応援する意味がある。結局は国会議員の息子ではないために、戦場に送られてしまった不運な男の視点での歌になっている。

 

(この項、明日へ続く。明日のブログでは『フォーチュネイト・サン』の訳詞をお送りします)

 

ENT>MUSIC>SONG>Fortunate Son

ENT>MUSIC>ARTIST>CCR

ENT>MOVIE>Die Hard 4.0

 

~~~~

 

2007年07月21日(土)  

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10040720635.html

(昨日からの続き)

 

【「幸運な息子」(フォーチュネイト・サン)物語(パート2)】

 

混迷。

 

ジョン・フォガティーは、この曲についてこう語っている。

 

「これはニクソン(大統領)と自分の戦いのようなものなんだ。つまり、権力を持つ者、すべてをもっている者たちとの対決だ。ワシントンに住む連中に対して、僕は大きな車に乗っていて、とても尊敬できるような連中ではない、ネガティヴなイメージを持っていた。ヴェトナム戦争のとき、(他人は行かせるのに)自分たち自身は戦争に行かないような連中だ。ドゥワイト・アイゼンハワー(大統領=34代)の孫デイヴィッドのことを思い浮かべていた。彼はニクソンの娘ジュリーと結婚していて、彼らはいかにも金持ちの家のおぼっちゃま、おじょうさまのようだった。

 

ジョン・フォガティー

 

いずれにせよ、最初にバンドにこの曲を聴かせたときはまだほとんど歌詞はできていなかった。コード進行とエネルギーとタイトルの『フォーチュネイト・サン』があったくらいだ。

 

そして、ベッドルームにいって、フエルトペンでレポート用紙に歌詞を書き始めた。すぐに、it ain’t me, I ain’t no fortunate son(俺じゃあない、俺は幸運な息子、恵まれた息子じゃない)というフレーズがでてきた。心の中で叫んでいた。声にはださなかったが、3ページにわたって(歌詞を)書いた。ほんの20分くらいで全部書けたよ。

 

まさに、ニクソンがインスピレーションを与えてくれた作品だ。彼は『名誉ある平和』『わが国を、愛するか、去るか』なんてことを言っていたが、今やこの男がまちがいなく悪魔だったことをみんな知っている」

 

「1969年当時、国民の8割は戦争肯定派だったんだ。だが、事実を注意深く見守っている連中は、まちがいなく大きなトラブルに向かっていると考えていた。僕はニクソン支持でもなかったし、政治家の息子たちが戦争に行かないことも知っていた。僕はその頃23歳で、なんでもない普通の若者たちは、彼ら自身が戦争反対の考えをもっていても戦争に行かなければならないのに、権力者の息子たちはそんなことすら考えなくてよかったんだ。彼らは恵まれていたよ、幸運だったんだ。そういう連中は「(戦争は)アメリカのためになる」と言っていたが、その子供は誰一人戦場には行っていない」(コメントは、クリーデンスの非公式バイオ・ブックに掲載されたジョンのもの)

 

戦争肯定派と反戦派。それぞれが入り混じった1969年。混迷の時代の傑作だ。

 

というところで、「フォーチュネイト・サン」の訳詞を「ダイ・ハード・ヴァージョン」でやってみました。(冒頭の4行の部分は、ダブルミーニングです)

 

+++++

 

Fortunate Son (John Fogerty)

フォーチュネイト・サン(ダイ・ハード・ヴァージョン訳詞)

(オリジナルの歌詞は7月19日付けにあります)

 

生まれながらに愛国心いっぱいの連中がいる

(生まれながらに国旗を振るのが大好きな連中がいる)

共産主義者でも、保守派でも、無党派でも

(その星条旗の色は赤、白、青)

バンドが『ヘイル・トゥ・ザ・チーフ』(大統領のために演奏する楽曲。チーフ=大統領に忠誠を、といった意味)を奏でるとき、国は実はおまえに大砲を向けてくるんだ、神様

 

俺は違う、俺は国会議員の息子なんかじゃない

俺はぜんぜん恵まれてない、俺は世界一運のない男

 

金持ちの家に生まれる連中もいる

奴らを助けることなんかない

税務署が(金持ちの家に)来たときは、家は投売り後のようにもぬけの殻さ

 

俺は違う、俺は大金持ちの息子なんかじゃない

俺にはツキがない、俺は世界一運のない男

 

熱烈なアメリカ愛国の魂を持った連中がいる

でも、そんな連中はおまえたちを戦場に送り込むだけ

国民がどれだけ(戦場に)人を送ればいいかと尋ねれば

彼らは答える。「もっと、もっと、もっと(多くの国民を)」と

 

俺は違う、俺は軍人の息子じゃない

俺にはツキがない、俺は世界一運のない男

 

俺にはツキがない、俺は世界一運のない男

ツキがない、俺は世界一最悪の、不幸の星の元に生まれた男なんだ

 

(訳・ザ・ソウル・サーチャー)

 

 

Fortunate Son (2:25) (Written by J.C.Fogerty)

 

Some folks are born made to wave the flag,

Ooh, they're red, white and blue.

And when the band plays hail to the chief,

Ooh, they point the cannon at you, lord,

 

It aint me, it aint me, I aint no senators son, son.

It aint me, it aint me; I aint no fortunate one, no,

 

Yeah!

 

Some folks are born silver spoon in hand,

Lord, dont they help themselves, oh.

But when the taxman comes to the door,

Lord, the house looks like a rummage sale, yes,

 

It aint me, it aint me, I aint no millionaires son, no.

It aint me, it aint me; I aint no fortunate one, no.

 

Some folks inherit star spangled eyes,

Ooh, they send you down to war, lord,

And when you ask them, how much should we give?

Ooh, they only answer more! more! more! yoh,

 

It aint me, it aint me, I aint no military son, son.

It aint me, it aint me; I aint no fortunate one, one.

 

It aint me, it aint me, I aint no fortunate one, no no no,

It aint me, it aint me, I aint no fortunate son, no no no,

 

■「フォーチュネイト・サン」収録のCCRの傑作アルバム、通算4作目『ウィリー・アンド・ザ・プア・ボーイズ』

 

https://amzn.to/368pmDB

 

ENT>MUSIC>SONG>Fortunate Son

ENT>MUSIC>ARTIST>CCR

ENT>MOVIE>Die Hard 4.0

 

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 008 映画『ミスティック・リバー』とクリント・イー

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 008 映画『ミスティック・リバー』とクリント・イーストウッドとレイ・チャールズと『ジャージー・ボーイズ』■■

 

(本作・本文は約8700字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、17分から9分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと29分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

~~~~~

 

クリント・イーストウッドは、とても好きなフィルム・メイカーだ。今回の『ミスティック・リバー』のレヴューを久しぶりに読んでおもしろかったので、これを再掲することに。ちょうど、昨日の映画『ダイ・ハード 4.0』、その前にはロバータ・フラック関連で『プレイ・ミスティー・フォー・ミー(邦題:恐怖のメロディ)』(イーストウッド監督・主演)もあったので、その続き。

 

イーストウッドはこの後も『ミリオン・ダラー・ベイビー』、『ハドソン川の奇跡』、『ジャージー・ボーイズ』など数えきれないほどの作品がある。また、同時期、音楽ドキュメンタリーでレイ・チャールズにインタヴューするシーンがあり、その稿も含めた。さらに、『ジャージー・ボーイズ』の評もあったので、それも追記する。

 

NO.525

2004/01/28 (Wed)

Mystic River: A Perfect Clint Eastwood Touch

(映画 『ミスティック・リバー』 の感想文です。ネタバレは最小限ですが、ごらんになっていない方は、ご注意ください)

 

タッチ。

 

グランドピアノに向かって二人の男が座って話をしている。一人は白人の男。嬉しそうに隣の男に質問をなげかける。もう一人の男、サングラスをしたしわがれ声の黒人は体を揺らしながら答える。質問をする男は当代きってのフィルム・メイカー、クリント・イーストウッド、答える男はソウル・ミュージックの生みの親レイ・チャールズ。くしくも、レイもクリントも1930年生まれの同じ年だ。イーストウッド自身が監督し、2003年9月ケーブルテレビのPBS系列で放送されたドキュメンタリー映画『ピアノ・ブルーズ』(総監督マーチン・スコセシー。DVDでも発売中)の一シーンだ。イーストウッド自身、ピアノをたしなむ。彼は母親が自宅でかけていたファッツ・ウォーラー(1904~1943=1920年代から40年代にかけて大活躍したジャズピアノの人気アーティスト)のレコードを聴いて以来の大のピアノ・ファンだ。

 

        +++++

 

ワーナーブラザーズのロゴが消えるなりシンプルなピアノ演奏が始まった。この音だけでクリント・イーストウッドの世界が劇場の空間を埋め尽くす。『マジソン郡…』も『プレイ・ミスティー・フォー・ミー(恐怖のメロディ)』も、イーストウッドの映画はピアノが心地よく映像をサポートする。そして、今始まった 『ミスティック・リバー』 。

 

約2分11秒

ミスティック・リバー(プレビュー)

https://www.youtube.com/watch?v=ZTrDDd9haBc

 

 

 

ミスティック・リバー (字幕版)(レンタル 有料、400円)(約2時間18分)

https://www.youtube.com/watch?v=rblQceW3A7o

 

 

 

ボストンのちょっと荒れた地域に生まれ育った3人の少年たちが路上でホッケーを楽しんでいる。ホッケーのボールが下水道に落ちてしまった。手持ち無沙汰になった3人はまだ固まっていないコンクリートに自分たちの名前を彫り込んだ。そこに刑事然とした2人の大人が登場。彼らをたしなめ、3人のうち1人デイヴだけを連れ去る。残る2人、ジミーとショーンは車が走り去っていくところをなすすべもなくただ見守るしかなかった。森の奥深くに監禁されたデイヴは命からがら自力で脱出する。しかし、その4日間に彼に起こったことはデイヴの心の奥底に深く大きな傷となって沈殿していった。そのトラウマは、残った2人にも同じように暗い影をなげかけた。この日を境に、彼らは何かを失ったのだ。

 

それから25年の歳月が流れた。ジミー(ショーン・ペン)は前科のあるドラッグストアのオウナー、学生時代は野球がうまかったが現在は低所得労働者となったデイヴ(ティム・ロビンス)、そして、家庭状況がうまく行っていないショーン(ケヴィン・ベイコン)は刑事となり、3人はそれぞれの人生を静かにひっそりと生きていた。そんな中、ひとつの殺人事件が運命の糸がからむように、離れ離れになっていた3人を引き寄せる。ひとりは、殺人事件の被害者の父として、ひとりはその容疑者として、そして、もうひとりはそれを解決する刑事としてクロスロードで遭遇した。

 

ミステリー作家デニス・ルへインの原作『ミスティック・リバー』を、クリント・イーストウッドが非常にオーソドックスに監督。まずこのプロット、物語自体が圧倒的におもしろい。そして、主要登場人物3人さらに、その脇役たちの演技も見事というほかはない。演技と物語が完全に同化している。

 

時間の流れが多くあればあるほど、別の言葉で言えば、時間が凝縮されればされるほど、そして、不条理、矛盾、不正義がまかり通ることがあればあるほど、その物語は劇的におもしろくなる。時にそれは後味の悪さを残すこともあるが、黒白がつかず、どちらも正しい、あるいはどちらも正しくない、どうしようもないやるせない部分を描ききると、観客に考えさせる余白が生まれ、映画としての深みがでる。喪失感、トラウマから生まれる考えられない行動。そうしたことが起こるから、思いもつかぬ事件が現実に起こる。それもまた人生の真実なのだ。既存の正義の枠で片付けられない様々な矛盾。そこにストーリーが浮かび上がり、ドラマが生まれる。その中で、ある者はなんらかのソウル・サーチンを試みる。イーストウッドは常にその影に光を当てる。

 

この 『ミスティック・リバー』 は、時間の凝縮と人生の不条理というその両者が完璧に揃う。もちろん、本作は殺人事件が起こったことによって、犯人探しの側面もあるが、それ以上に、3人と2人の妻、それぞれの人生がしっかり描かれているところがすばらしい。世の中には理屈で説明できないことが多い。納得がいかないことも多々ある。そこを掘り起して淡々と描くところが、このイーストウッドという監督、「職人フィルム・メイカー」の底知れぬ力だ。ある意味で非常に冷静にジャーナリスティックに物語を見つめ、そして、それを丁寧に描写する。しかも超一流の俳優陣の演技によって。俳優に委ね、演技に任せ、ハンドルの「遊び」を作る。その遊びは見るものに「考える」余白を与える。

 

満点に近いこの映画を見て唯一こうしたらいいのではないかと思ったところ。それは、前半導入部と、後半一気に物語が解決に向かうところは、実にテンポよく進むのだが、中盤なぜか冗長になる点だ。あの中盤部分をもう少し削いで、テンポアップし、あと20分短縮できれば完璧になるような感じがした。ひょっとすると、イーストウッド監督が、3人のあまりの演技のすばらしさに目がくらみ、どうしてもエディットできなくなったのではないだろうか。それはそれで痛いほどわかるのだが…。それでも、そこを泣く泣くエディットするのが監督の仕事だ。あそこで中だるみを感じさせては、元も子もない。

 

もう一点、日本の映画会社の「もうひとつの『スタンド・バイ・ミー』」というキャッチフレーズ。これはない。そういうキャッチをつけたくなる気持ちもわからなくはないが、もっともっと頭を絞って絞って考えだしてほしい。

 

デイヴ(ティム・ロビンス)の行方がわからなくなった時、刑事ショーン(ケヴィン・ベーコン)が、ジミー(ショーン・ペン)に「最後にデイヴを見たのはいつか」と尋ねる。ジミーは宙を見て、「11歳の時、車に連れ去れた時だ…」とぽつりとつぶやく。その一言にショーンは返す言葉がない。2人は25年前、車が走り去った方をぼんやりと眺める。3人の重い、しかし決して忘れることができない25年間。時間が凝縮され、誰もが正解を知ることができないゆえの苦悩と沈黙が多くを物語る絶妙のシーンだ。

 

ラストの部分、ボストンで行われるパレードのシーン。刑事ショーンは、遠くにいるジミーを見つけ、右手で拳銃の形を作り、撃つ真似をする。これも様々に受け取れるシーンだ。

 

イーストウッドは、基本的に映画とはこういうものだ、という自分のパターンをしっかりと持っている。僕はその基本的な考え方に強く同意できるので、彼の作品が大好きだ。彼が作る、クラス(品格)があり、痒いところに手が届くような「映画らしい映画」が楽しめる。それはそのエンディングが仮にいかに不条理であろうと、映画作品として楽しめるのだ。

 

映画のエンディングで、大きなミスティック・リバーが映し出される。そこにかぶさる後テーマは再びシンプルなピアノのメロディーだった。それはイーストウッドのトレードマーク。そのゆったりとしたピアノの旋律は、まるで彼が「この物語についてじっくりお考えください」と観客に問いかけているかのようだ。クレジットロールがゆっくり回りだして驚いた。このテーマ曲自体をクリント・イーストウッド自身が書いていたのだ。

 

Theme from Mystic River - Clint Eastwood

 

 

 

 

『ミスティック・リバー』 でイーストウッドはスクリーンには一切出てこない。だが、この作品のあらゆるところにイーストウッドの香りがたちこめる。彼はカメラの裏側にしっかり立ち、編集作業をするスタジオや、音楽の録音スタジオにいて彼の魂をこのフィルムの中にこめているのだ。 『ミスティック・リバー』 、それは「完璧なイーストウッド・タッチ」。

 

          +++++

 

『ミスティック・リバー』の制作の合間をぬって作ったというドキュメンタリー映画『ピアノ・ブルーズ』は、レイ・チャールズの「アメリカ・ザ・ビューティフル」で幕を閉じていく。『ミスティック・リバー』の中で、「ただのレイ(just Ray)」や「いろんなレイ」がでてきて、「レイ・ハリス」という役名がでてくる。ふとその時、イーストウッドはこのレイの役名をレイ・チャールズから取ったのではないかと邪推した。レイ・ハリス、レイ・チャールズ…。偶然かな。(笑) いつか機会があったら訊いてみたい。

 

(映画 『ミスティック・リバー』 原題Mystic River、2003年アメリカ作品=2月13日まで丸の内プラーゼル他全国松竹東急系で公開中)

 

ENT>MOVIE>REVIEW>Mystic River

 

 

 

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レイ・チャールズ死去にともないレイへの追悼文。

 

2004/06/13 (Sun)

"Brother Ray On My Mind": A Tribute To Ray Charles

スタンプ。

 

映画『ミスティック・リバー』の製作の合間をぬって、クリント・イーストウッドはマーティン・スコセッシーの要請で、ブルーズの音楽ドキュメント7本のうちの一本『ザ・ピアノ・ブルーズ』を完成させる。このドキュメンタリーのハイライトは、 レイ・チャールズだ 。

 

冒頭、イーストウッドがグランドピアノをぽろぽろと弾いている。そこに車から降りて、付き人に手を引かれスタジオ内にレイ・チャールズがやってくる。長身のイーストウッドと比べるとチャールズは、かなり小さく見える。グランドピアノに並んで座り、イーストウッドがインタヴューする。チャールズが昔話を始める。

 

イーストウッドが「どのようにピアノを始めたのですか」と訊く。レイが答える。「ワシが3歳のときのことだ。近所にいわゆる雑貨店があってな、なんでも売ってるような、そこの主人がピアノを弾いてたんだ。で、なぜかわからんが、その彼がピアノを弾くのを見るのが大好きで、ものすごく惹かれたんだ。椅子の上に乗って、なんとか(鍵盤を)叩いたりするんだが、適当にね。するとその主人が『違う、違う。こうやって、こっち(右手)でメロディーを弾くんだ』みたいなことを教えてくれた」 彼の目には、その主人がピアノを弾く姿が鮮明に記憶されている。咳き込みながら、チャールズは語りつづける。(このドキュメンタリーは日本では劇場公開はされませんが、なんらかの形で公開される予定です)

 

Piano Blues Clint Eastwood documentary. Ray Charles, Dave Brubeck, Dr John, Prof. Longhair (約77分)

https://www.youtube.com/watch?v=q763H0MBOrA

 

 

フル・サイズで見られますが、字幕はありません。

 

彼はその3歳のとき以来、ずっと70年間、ピアノを弾き続けた。チャールズはしかし、その4年後、緑内障が原因で失明。以来、ずっと暗黒の世界に生きてきた。だが、彼には目が見える人にも見えないものが見えていた。

 

レイ・チャールズの元で働いていたスタッフがチャールズの自伝『ブラザー・レイ(邦題、レイ・チャールズ物語)』の著者、デイヴィッド・リッツにこんな話をしている。「(レイ・)チャールズさんに何か話をしなければならないときには、いつも、(話すことを)紙に書いてから行ってました。そうしないと、何も言えなくなってしまうんです。彼が私を見ると、私は固まってしまう。まるで、私のすべてを見透かしているような感じがするのです」 

 

リッツも、盲目の人と話をすることのむずかしさを述べている。つまり、普段僕たちが会話をするときは、相手を見て、口から出る言葉以外のもの、ボディーランゲージであったり、目や顔の表情から得る情報が無意識のうちに役立っているのだ。しかし、チャールズと話すときは、つねに黒光りするサングラス相手なので、どうしてもわからないことが多い、という。

 

(デイヴィッド・リッツと、レイについては http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/interview/ritz19940509.html へ)

 

レイ・チャールズのライヴは何回か見たことがある。よく覚えているのは1989年暮れ新宿厚生年金ホール、ちょうど「いとしのエリー」がCMで使われてヒットした頃のライヴだ。その頃、レイは毎年12月に決まったように来日していた。思ったのは、とても音が小さなライヴだな、ということ。そして、曲が次々と、しかも淡々と歌われるショウだった。ところが、一番最後に「いとしのエリー」をやったときには、なぜか急にぐっときた。それまでの流れでただやってきていたライヴが一瞬にして輝きを見せたのだ。ブラザー・レイは、ほとんど、完璧に自分のものにしていた。おそらくその時点でもたいした回数は歌っていなかったはずなのに。逆にあまり回数歌っていなかったから、新鮮だったのか。

 

ザ・ジニアス・オブ・ソウル。

 

1992年2月、レイ・チャールズのドキュメンタリー 『ジニアス・オブ・ソウル』 の解説を書くために、かなり膨大な資料を読んだ。そのときに、レイ・チャールズの偉大さを改めて知った。これは、その後1999年にDVD化されている。(解説は本ウェッブに掲載。内容は、その原稿をじっくりごらんください。)

 

http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/linernotes/ray19990220.html

 

 

 

Ray Charles - The Genius of Soul (documentary) (約56分)

https://www.youtube.com/watch?v=Dl_dsK_hqUM

 

 

 

これを書いた時点では、リッツの書いた『ブラザー・レイ』の本を持っていなかったが、同じ年の10月にようやくソフトカヴァーで入手することができた。DVD化されたときに、原稿を若干加筆訂正したが、それはこの本のおかげもあった。

 

僕は残念ながらレイ・チャールズにインタヴューしたことがない。最大に接近したのは、たしか目黒のブルースアレーでのこと。来日したときに、何かの記者会見かちょっとしたライヴを見せたときだったと思う。お店が小さかったので、すぐ目の前にブラザー・レイがいたのを強烈に覚えている。確かに、あまり大きくなかった。

 

その後も、ライヴを多分なんどか見たかもしれないが(やはり、ずっと日記を書いておけばよかったと思う=(笑))、最後に見たのは2000年7月のカナダ・モントリオールだった。やはり、音が小さかった。音が小さいので、集中してしまうのだが。

 

年に300本もライヴを行うということは、ライヴが人生そのものになっている、と言ってもいい。会場から会場へ。しかし、常に一定の水準のライヴを見せる。そのショウは、職人たちのショウとして完成している。

 

レイ・チャールズの音楽を聴いてもっとも感じること、それは彼がアーティストとして恐ろしいほどの「柔軟性」「吸収性」を持っているということだ。ブルーズだけにとどまらず、それをゴスペルと融合させたり、カントリーやポップを歌ったり、世界中のあらゆる音楽を自分の音楽の中に吸収しようとした。その貪欲さこそが天才の原点だと思う。しかも、それをほとんどすべて、自分の音楽「レイ・チャールズ・ミュージック」にしてしまう。あらゆる音楽に「レイ・チャールズ」というスタンプを押してしまうのだ。

 

ブルーズとゴスペルをあわせて、当時はまだ名前もジャンルもなかったソウル・ミュージックという名の音楽を作った。音楽ジャンルをひとつ作ってしまったのだから、偉大という言葉以外思いつかない。

 

彼の体は小さかったが、成し遂げたことはあまりに大きい。失明、孤児、黒人、そして貧困。これ以上の四重苦はない。孤独と絶望の淵から世界の頂上に這い上がったブラザー・レイ。そのバネの強さは尋常ではない。彼が持っていた武器はただひとつ、音楽だ。空気を吸い、水を飲み、食事をするように、彼は音楽を栄養にして成長し、それは彼の体の一部になった。そしてその音楽の力で彼は世界を手にしたのだ。

 

ドキュメンタリー『ピアノ・ブルーズ』は、レイ・チャールズが歌う「アメリカ・ザ・ビューティフル」で幕を閉じる。レイ・チャールズ、ユー・アー・ザ・ビューティフル! 

 

クインシー・ジョーンズがレイに会ったのはクインシー14歳、レイ16歳のときのことだった。それ以来の親友同士。そんなクインシーが言った。「レイはもし10セント硬貨を持っていたら、いつでも私に5セントくれる、そんな奴だった。今、その5セントを返すから、レイを(ここに)戻して欲しい。でも、天国のほうが今では彼にとっていいのかもしれないな」 

 

レイ・チャールズ、人々は親しみをこめて彼のことを「ブラザー・レイ」と呼ぶ。

 

最後に、レイに捧げる詞を記して、ご冥福をお祈りする。タイトルは「ブラザー・レイ・オン・マイ・マインド」。そう、「ジョージア・オン・マイ・マインド」のメロディーで歌ってください。

 

"Brother Ray On My Mind" (Lyrics to Melody of "Georgia On My Mind")

 

Brother Ray......Brother Ray..........the whole day through

Just an old sweet song.....keeps Brother Ray on my mind

 

I said now, Brother Ray.....Brother Ray......a song of you

Comes as sweet and clear.....as moonlight through the pines

 

Other arms reach out to me.......other eyes smile tenderly

Still in peaceful dreams I see.......the road leads back to you

 

I said, Brother Ray........ Brother Ray......... no peace I find

Just an old sweet song........keeps Brother Ray on my mind

 

Other arms reach out to me........other eyes smile tenderly

Still in peaceful dreams I see......the road leads back to you

 

Now ya know it's, Brother Ray........ Brother Ray...no peace, no peace I find

Just this old, sweet song......keeps Brother Ray on my mind

 

Just this old sweet song.......keeps Brother Ray on my mind

 

『わが心のレイ・チャールズ』

 

ブラザー・レイ、わが心のレイ・チャールズ、

時の流れがゆっくりと進んでいく

 

古きよき時代を思わせる甘い歌・・・

そんな歌がいつもレイ・チャールズへの郷愁を誘う

 

ブラザー・レイ、あなたの歌が、月明かりが木々の隙間から

漏れてくるように、やさしく、心に染みてくる

 

ブラザー・レイが歌いかけてくる・・・

ブラザー・レイがやさしく微笑む・・・

ブラザー・レイの元には心の安らぐ夢がある

今、ここにある道はレイ・チャールズのところへ戻る道

 

ブラザー・レイ、ブラザー・レイ・・・

他のところでは心の安らぎを見出せない

 

古きよき時代を思わせる甘い歌・・・

そんな歌がいつもレイ・チャールズを思い出させる

 

(訳詞ソウル・サーチャー)

 

(訳注・「ブラザー・レイ」、「レイ・チャールズ」の部分を「ジョージア」に変えれば、オリジナルの「ジョージア・オン・マイ・マインド」の訳詞になります。また、訳詞は雰囲気、ニュアンスから意訳している部分もあります)

 

++++

 

ENT>OBITUARY>Charles, Ray

 

 

~~~~~

 

そして、クリント・イーストウッドの2014年映画『ジャージー・ボーイズ』の紹介記事。

 

『ジャージー・ボーイズ』~フォー・シーズンズの栄枯盛衰

2014年10月21日(火)  

 

(少しネタばれになります)

 

【Jersey Boys Movie】

 

映画。

 

元々ミュージカルとして大ヒットしていたニュージャージー州出身のヴォーカル・グループ、フォー・シーズンズの栄枯盛衰を描いた『ジャージー・ボーイズ』。これをクリント・イーストウッドが映画化した。

 

製作予算4000万ドル(約40億円)で、現在まで全世界で興行収入6100万ドル(約61億円)をあげている。見事なヒットだ。

 

物語は、グループのリーダーであり、創設メンバーのトミー・デヴィートが観客に語り掛ける形で進む。

 

当時のヴォーカル・グループが無名から徐々に有名になっていく過程で、さまざまな葛藤や、外部とのトラブル、仲間割れ、裏切り、そして成功などが描かれる。

 

もともと音楽好きで、映画作りの匠であるクリント・イーストウッドが監督するだけに、きっちりとした人間ドラマを描く映画になったと思う。

 

音楽プロデューサー、ボブ・クリューが4人の若者と契約し、ソングライターのボブ・ゴーディオとともに「シェリー」を書き、これが大ヒット。いよいよフォー・シーズンズの快進撃が始まる。

 

ところが好事魔多し、リーダーのトミーが巨額の借金を抱えていたことが発覚。それを返済するために、フランキーはギャングの息のかかったラスヴェガスのクラブでひたすら歌い続けなければならなくなった。

 

そして、ツアーにつぐツアーで家庭を顧みることがなかったフランキーと娘フランシーヌとの関係も悪化。娘はドラッグ中毒に。そして生まれるフランキーのソロ・シングル「キャント・テイク・マイ・アイズ・オフ・オブ・ユー」(君の瞳に恋してる)。

 

20数年後、グループが「ロック殿堂」入りを果たすときに、メンバーが再会する。

 

フランキーのナレーションが物語を締める。「フォー・シーズンズで一番楽しかった時期は、成功する前だった。すべての希望に満ち溢れ、4人が街灯の下で歌っていたあの頃だ」

 

ギャング役のクリストファー・ウォーケンが実にいい味をだしていた。そして、フランキーの性格が良すぎた。ほんと、いい奴だったんだなあ、と。

 

 

~~~~

 

音楽ファンにとっては、ちょっとしたトリヴィアネタもおもしろい。日本では『タモリ倶楽部』のテーマ曲として知られるロイヤル・ティーンズの「ショート・ショーツ」は、ボブ・ゴーディオが書いていた。

 

「キャント・テイク・マイ・アイズ・オフ・オブ・ユー」の誕生秘話はぜひスクリーンで。

 

Jersey Boys - Can't Take My Eyes Off You (The story of The Four Seasons) HD

https://www.youtube.com/watch?v=euTxpe61NE8

 

 

 

http://youtu.be/toarcsqfrl4

 

Can't Take My Eyes off You - Frankie Valli and The 4 Seasons

https://www.youtube.com/watch?v=NGFToiLtXro

 

 

 

ENT>MOVIE>Jersey Boys

 

(元記事のリンクは次の通りです)

 

2004/01/28 (Wed)

Mystic River: A Perfect Clint Eastwood Touch

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200401/diary20040128.html

 

2004/06/13 (Sun)

"Brother Ray On My Mind": A Tribute To Ray Charles

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200406/diary20040613.html

 

『ジャージー・ボーイズ』~フォー・シーズンズの栄枯盛衰

2014年10月21日(火)

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 009 映画『ブラザー・レイ(レイ・チャールズ物語)

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 009 映画『ブラザー・レイ(レイ・チャールズ物語)』■■

 

(本作・本文は約8000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、16分から8分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと27分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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「ソウルの神様」~レイ・チャールズの自伝映画『レイ』が2005年に日本でも公開された。音楽映画としても大変優れた映画で当時大絶賛した。その公開イヴェント、またレイの自伝翻訳・出版などで2004年6月の死去からしばらくレイ・チャールズで盛り上がった。昨日のクリント・イーストウッドの話の中でも出てきたレイ・チャールズの話を続けるのは自然な流れだ。レイ・チャールズ特集、しばしお楽しみください。

 

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NO.835

2004/11/12 (Fri)

"Ray": This Could Be Jamie Foxx's Career Movie

(映画『レイ』の感想文です。ネタばれは最小限にしてありますが、事前の先入観なしに見たい方は、ご注意ください)

 

オスカー。

 

今まで見たミュージシャンを描いた映画の中でも最高のものだった。感心し、感動もした。これはすごい。全米で(2004年)10月29日に公開されたレイ・チャールズの生涯を描いた『レイ』。日本では2005年1月29日から公開される。例えば、『ベニー・グッドマン物語』、『バード』、『パープル・レイン』、『ローズ』などのミュージシャンにスポットをあてた傑作作品のリストに、この『レイ』もまちがいなくはいる。それだけでなく、そのトップに君臨する。

 

まず、何が素晴らしいといえば、ジェイミー・フォックスが素晴らしい。映画が始まってすぐに、もうジェイミー・フォックスではなく、そこには若き日のレイ・チャールズがいた。本当に生き写しだ。姿も、ふるまいも、そして、しゃべり方まで。声を聴いているだけで、レイ・チャールズだ。まちがいなく、俳優ジェイミー・フォックスの最高傑作であり、名刺代わりの一作になった。前評判が高くなっているのもうなずける。

 

 

そして、編集が素晴らしい。彼のキャリアとひとつの出来事をフラッシュバックさせる手法が、じわじわきて、見事としかいいようがない。2時間半の映画にもかかわらずまったくその時間を感じさせない。編集の妙だろう。テンポよく物語がうまく語られる。

 

脇役陣も素晴らしい。クインシー・ジョーンズ役、アーメット・エルテガン役、ジェリー・ウェクスラー役、ジョー・アダムス役、みないい。そして、僕がもっとも感動したのはレイの実母アリーサ役(シャロン・ウォーレン)だ。オスカー助演女優賞をどうぞ。自伝を読んで知っていた(と言っても見たわけではないが)アリーサのイメージにどんぴしゃのキャスティングに言葉を失った。盲目になっていくレイを力強く育てる母親の姿には胸を打たれずにはいられない。しかも、これが映画デビュー作だって? 信じられない! 

 

そして、音楽の使い方がまた憎らしいほど素晴らしい。レイ・チャールズのファンであれば誰でも知っているであろうヒット曲の数々が、彼の実際の人生とこれほどつながっていたとは。新たな発見で、これ以後、ここでかかった曲をラジオなどで聴いたら、『レイ』のシーンが思い出されることになるだろう。しかし、それを知らずとも、ストーリーの中で歌われる作品にはぐいぐいと引き込まれる。

 

ロケーション、衣装、映像が美しい。彼が育った深南部にある家。その周辺。裸足で走り回る子供時代のレイ・チャールズ。何かを暗示するかのような風鈴ならぬ風ビンと、それがかすかにぶつかる音。

 

そして、脚本が見事だ。もちろん、このエピソードも入れて欲しいというようなものは多々あるが、可能な限りエッセンスを抽出し、起承転結をバランスよくまとめた。ゴスペルからR&Bへ転じるシーン、ドラッグ中毒になっていくシーン、彼の稼ぎをくすねようとする連中との対決など、うまくドラマが書き込まれている。

 

当初はR&Bシンガーの音楽映画かと思っていた。だが、これは単なるブラック映画ではない。単なる音楽映画、ミュージシャンの自伝映画でもない。失明、人種差別、貧困。想像以上の苦労と苦難を乗り越え、70余年を生きてきたひとりの男のドラマを見事に描いた作品だ。こういう話はアメリカ人はもともと大好きだが、これはアメリカだけでなく、世界中で受けるだろう。一点のケチもつけようがない作品だ。

 

映画『RAY/レイ』

2005年1月29日からみゆき座、シネマライズなどでロードショー。

 

DVD RAY/レイ

Ray / レイ 追悼記念BOX [DVD]

https://amzn.to/2WH0rE2

(なんとDVD900円)

 

 

 

 

 

 

 

ENT>MOVIE>REVIEW>Ray

 

2004/11/13 (Sat)

"Ray" Include Songs From "Live In Japan"

 

神様。

 

映画『レイ』の試写会にピーター・バラカンさんがいらしていたのでいろいろ話をした。映画が始まる前は、ピーターさんはちょうど出たばかりのボブ・ディラン著の自伝を読んでおられた。これまでディランの著作はいろいろあるが、もちろん、自分で書いたものは初めてなので、ひじょうにおもしろいそうだ。日本のアマゾンで1日で来たという。

 

レイ・チャールズが死去したあとのジョークを話してくれた。ちょうどブラザー・レイが死去したのは、レーガン元大統領の死去と同じ頃だった。そこで、二人がほぼ同時に天国に行った。天国に行くと、いろいろな有名人たちの豪邸が立ち並んでいた。エルヴィスや、マーヴィンやら、いろいろだ。そこに立派な家があり、それがレーガンの家だった。すると、さらに丘の一番上にもっと超豪華な邸宅があった。それを見た人が聞いた。「あれは、誰のうちですか? なんであんな上にあって、しかもひときわ大きいんですか」 「なぜなら、あれは神様が住んでいるからだ」 「神様って?」 「レイ・チャールズだよ」 

 

ちょっと、聞き覚えなので、違うかもしれません。違ったらすいません。欧米で出回っているジョークのようで、いくつか違うヴァージョンもあるかもしれないが、要はレイ・チャールズはレイ・チャールズひとりしかいない、ということでもある。レイは天国でも神様だというあたりがおもしろい。(ま、ギャグを解説するのもヤボというものだが)

 

映画が始まる前には、そういうわけでお話をしていたので、映画についての資料をまったく読まずに見ることになった。さて、映画が終った。僕はなかなか椅子から立ち上がれなかったが、とりあえず、「いやあ~、よかった」。

 

ロビーにでると彼も若干興奮気味。こっちもテンション上がっているので、立ち話が止まらない。

 

 

 

 

僕「いやあ、ジェイミーがすごいですねえ」 「ほんと、すごいねえ」 「あと編集が素晴らしい」 「素晴らしいね。彼にとって、あの事件というのはあんなに後をひいていたの」 「そうみたいですねえ。自伝にもそう書かれてるんです」 「曲は何曲か、レイがこの映画のために再録音したそうね」 映画の宣伝担当「そうなんですよ。レイが何曲か録音しています」 ピ「衣装も素晴らしかった」

 

僕「いやあ、ほんと単なる音楽映画か、ブラックムーヴィー的に思ってたけど、とんでもないですね。言い方悪いけど、いい意味で『ハリウッド映画』ですねえ。これは絶対アメリカで受ける。あとは日本でこういうミュージシャンを扱った映画がどれくらい受けるかですねえ」 ピ「いやあ、そんなネガティヴなこと言っちゃだめだよ(笑) なんてったって、レイ・チャールズなんだから。完璧に文句のない映画だけど、もしひとつだけ文句をつけるところがあるとすれば・・・(しばし考えて) アレンジャーのハンク・クロフォードだっけ、彼がでてこないところかなあ」

 

「あと、いろんな曲がでてきて、楽しいなあ。曲の使い方、抜群にうまいですね」 「そうだ、でてこなかったけど、『バステッド』が、逮捕されたシーンなんかでかかっていたらよかったね」 「ああ、ほんと、そうですね」 

 

というわけで、このサントラ『レイ』も(2005年)1月に日本発売される。輸入盤を入手したが、なんとここには『ライヴ・イン・ジャパン』の音が3曲入っていた。「愛さずにはいられない」「レット・ザ・グッド・タイムス・ロール」「我が心のジョージア」という、まさに映画中でもハイライト的に使われる作品だ。このサントラ収録曲と映画で使われたテイクが同じなら(おそらく同じはず=確認しますが)、映画『レイ』には、1975年11月の日本人観客の拍手も入っているということになる。ワオ! 

 

ENT>MUSIC>MOVIE>Ray

 

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2004/11/14 (Sun)

"Brother Ray" (Japanese Translation Version) Will Be Published In January Tied With Movie "Ray"

 

翻訳。

 

Brother Rayレイ・チャールズの自伝本 『ブラザー・レイ』 (デイヴィッド・リッツ著=1978年)の翻訳版が出版されることになった。発売元は夷出版。2005年1月末の映画公開との同時発売をめざす。監修・翻訳は吉岡正晴。

 

リッツの『ブラザー・レイ』は、1978年に発売され現在までレイ・チャールズの自伝として定本となっている作品。これまでに1992年に第二版、今年2004年、レイの死去後第三版が発行された。翻訳は第三版になる。二版では、主とてして初版以降14年分のディスコグラフィーが追加されたが、三版でもディスコグラフィーと、死去後のリッツのエッセイ「ラスト・デイズ・オブ・レイ・チャールズ」が17ページ程度追記されている。

 

『ブラザー・レイ』は音楽伝記作家として、現在ではその名声を確立しているデイヴィッド・リッツの出発点となる作品。レイの大ファンだった彼はその自伝を書くことを考え、なんとかしてレイと直接話そうとした。しかし、いつもマネージャーなどに門前払いされていた。そこであるとき、点字で長文の手紙を送り、ついにレイ本人から電話がかかってきて、本のプロジェクトが始まった。

 

この『ブラザー・レイ』は音楽バイオとしては高い評価を獲得、その後、マーヴィン・ゲイの自伝『ディヴァイデッド・ソウル』(日本版『引き裂かれた魂~マーヴィン・ゲイ物語)、スモーキー・ロビンソン、ジェリー・ウェクスラー、エタ・ジェームス、BBキングなど多数のバイオグラフィーを記している。

 

またレイ・チャールズに関してもっとも詳しい専門家として、関連プロジェクトにもしばしば登場。レイのドキュメンタリー、CDのライナーノーツなども多数てがけている。

 

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デイヴィッド・リッツ・インタヴュー(1994年5月)

 

http://www.soulsearchin.com/entertainment/music/interview/ritz19940509.html

 

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というわけで、映画の公開が早まったことで、もともと映画公開時期に発売しましょう、という話だったので急遽、翻訳をしあげることになった。当初は来年の6月10日くらいに発売をめざしていた。映画の日本公開が7月以降とされていたからだ。しかし、映画の前評判がすでに何度も書いているようにすばらしく、オスカー・レースにも入ってくるということで、映画の日本公開が一挙にオスカーノミネートにあわせて前倒しとなった。

 

そこで、本のほうも、それにあわせることになった。これから二月ほど、激多忙になりそう。しばしこもって1日一章を目指してがんばります。本文は42-3章あるので、ぎりぎりということになりますが、果たして、映画公開の1月29日に間に合うか、乞うご期待。僕の出版物としては、2000年7月の『ソウル・サーチン』以来4年半ぶりのものとなります。

 

■ブラザー・レイ/レイ・チャールズ物語

 

(デイヴィッド・リッツ著、吉岡正晴訳)2005年2月1日発売

https://amzn.to/2yhkCz

 

 

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ENT>BOOK>Brother Ray

MY BOOKS>Brother Ray

 

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2005/01/17 (Mon)

The Movie "Ray" Portrays Life On The Fast Lane: He Ain't No Cripple Ever Again

(映画『RAY/レイ』の映画評です。ネタバレは最小限ですが、先入観なしにご覧になりたい方はご注意ください)

 

障害者。

 

ピアノを弾く指が動く。黒いサングラスにそのピアノの鍵盤が映っている。演奏者は身体を揺らし、のっている。軽快な「ホワッド・アイ・セイ」が流れている。煙草の煙が揺らいでいる。オープニング・シーンが終ると、ひとりのサングラスをした若き黒人、レイ・チャールズ(ジェイミー・フォックス)がバス停でぽつんと佇んでいる。そして、「フロリダ州、1948年」の字幕。

 

 

ソウル・ミュージックの創始者、レイ・チャールズの自伝的映画が『RAY/レイ』だ。彼がいかにして盲目になり、ミュージシャンとして成長し、ドラッグ漬けになり、人生を歩んでいくかが描かれる。レイ・チャールズ役を演じたのは、自らミュージシャンでもあるジェイミー・フォックス。レイ・チャールズそっくりの演技は、圧巻だ。

 

音楽、酒、ドラッグ、そして女性。レイの人生はそれらだけで彩られていた。しかも、徹底的に。時代的には1930年生まれのレイの1948年ごろから1965年ごろまでの間が中心に描かれる。

 

映画の冒頭で、レイの母アリーサが言う。「誰にもあなたを盲目(cripple=かたわ、障害者、無能者)なんて呼ばせないで」 この言葉はレイが失明した時以来、生涯レイの言葉になる。正確には、目に視力はないが、(あなたは)かたわ、障害者ではない、という意味だ。だが、彼はある時期まで肉体的にも、精神的にもクリップル(障害者)だった。果たして、彼は何をきっかけに目覚めるのか。

 

自伝にも出てきて興味を持っていたのだが、彼が幼少の頃、まだ失明する前に生家の近くにある雑貨店に一台のピアノがあった。そこの主人、ミスター・ピットが子供のレイにピアノを教えるシーンがある。ミュージシャンとなるレイ・チャールズ少年の原点だが、このシーンになんとも言えずに僕は感動する。

 

ひとつの失敗から学び、それを教訓とし、知恵をつけ、強く強く生きていくレイ・チャールズ。その自立心と信念、頑固さには驚嘆する。

 

(以下、少しネタバレになります)

 

「ライフ・オン・ザ・ファースト・レーン」(全速力で走る人生)という言葉がある。日々ライヴに明け暮れるレイの人生は、ヒット曲がでるにつれ、忙しさは増し、まさに「ライフ・オン・ザ・ファースト・レーン」になっていった。その彼には、幼少時の事件がひとつの心のトラウマとして残っている。子供時代を過ごしたフロリダにあるボトル・トゥリーの数々。ガラスの空き瓶が何本も吊るされ、木のようになっているボトル・トゥリーは彼のトラウマを象徴するかのようだ。

 

そして、後半、レイが夢の中で、生まれ故郷のフロリダで母親に会う。自分の生家のヴェランダ。この時のレイ(ジェイミー・フォックス)は、今の大人で目が開いている。そこに登場する弟のジョージが言う。「レイのせいじゃないよ」 母親が言う。「もう誰にもあなたを『盲目』にはさせないわ」 それまで心が盲目だったレイは、この瞬間、「目を見開く」のである。

 

1961年、レイ・チャールズは黒人と白人を分けていた会場での演奏を拒否したことから、ジョージア州での演奏が禁止された。ジョージア州からの永久追放だ。それから18年間、彼は自らのホームタウン、ジョージア州で演奏することができなかった。しかし、時が流れ、人種差別も少しずつなくなった1979年3月7日。彼が1960年に歌った傑作「我が心のジョージア」は、ジョージア州州議会から「州歌」と認定され、同時に18年前の事件に関して正式に謝罪されたのである。

 

拒絶から受け入れまでの18年間、レイ・チャールズはひたすらステージで「我が心のジョージア」を歌い続けて来た。彼にとっては、ジョージア州から拒絶されようが、受け入れられようが、その曲が持つ意味はまったく変わらない。ブラザー・レイの信念はいささかも揺るがず、ジョージアへの郷愁は消えることはなかった。

 

だが、「我が心のジョージア」という曲を歌ったことが、結果的にジョージア州議会にレイに対して謝罪のチャンスを与えることにもなった。そう、「我が心のジョージア」がレイ・チャールズをジョージアに引き戻したのだ。

 

曲の中で歌詞はこう歌われる。「今、ここにある道はジョージアへ戻る道…」 レイ・チャールズはジョージアへ戻った。ジョージアに始まった物語が、ジョージアで完結した。

 

(映画『RAY/レイ』1月29日からみゆき座など全国ロードショウ)

 

映画公式ホームページ

 

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『我が心のジョージア』訳詞(大意)

Georgia On My Mind

 

ジョージア、我が心のジョージアよ、

 

一日中、古きよき時代を思わせるあの甘い歌が

ジョージアへの郷愁を誘う

 

ジョージア、ジョージアの歌が、月明かりが木々の隙間から

漏れてくるように、やさしく、心に染みてくる

 

ジョージアの魂が歌いかけてくる・・・

ジョージアの瞳がやさしく微笑む・・・

ジョージアの地には心の安らぐ夢がある

今、ここにある道はジョージアへ戻る道

 

ジョージア、我が心のジョージアよ・・・

他の地では心の安らぎを見出せない

 

古きよき時代を思わせる甘い歌・・・

そんな歌がいつもジョージアを思い出させる

 

(訳詞・大意ソウル・サーチャー)

 

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そして、今日のハイライトです。映画『レイ』のイヴェントで明かされたブラザー・トムのレイ・チャールズの思い出。

 

2005/02/02 (Wed)

Brother Tom's Two Minutes: He Talked About When He First Heard Ray Charles

 

トムの2分間。

 

映画『RAY/レイ』前夜祭での「トムの2分間」は会場を感動の渦に巻き込んだ。その模様をここに再現する。

 

 

鮎川誠さんが持ってきたレイ・チャールズの日本盤シングル「愛さずにはいられない」を見て、ブラザー・トムが反応した。マイクを持ちながら、彼はこう話始めた。

 

「2分くれる? 僕が生まれて初めて聴いたレイ・チャールズがこれ、これなんですよ。(と言って、「愛さずにはいられない」のシングルを指差す) 

 

うち、父親が外人なんですけど、僕を置いてどっか行っちゃうんですよ。僕は母親と一緒に住むことになるんですけど、母親が2番目のお父さんを連れてくるんですよ。母親が33歳の時、2番目のお父さんは19だったらしんです。(会場から笑い) すごく若い人で、『和子』というおでんやさんをやりながら、母親がその人とできちゃうんですけど、そうしたら僕を連れて、その彼の親のうちに自分(トムの母)と僕(トム)を紹介しなくちゃいけないんで、行くんですよね。

 

田んぼの中、歩いていくと、その(相手の実家である)家に着いて、僕を紹介するわけですよ。どこの子だかわかんない、色真っ黒でわけわかんない、外人の子ですよ、(笑) 母親は水商売の女ですよ。それをつんと紹介するわけですよ。僕は6歳ですよ。埼玉県の熊谷の、げろげろって蛙が鳴いてるようなそんなところで、周りはすっごい険悪な雰囲気で、母親はオイオイ泣いてるんですよ。

 

きっと許して欲しいんでしょうね。19歳の男と32歳(発言のママ)・・・。もうオイオイ泣いてて、僕は何もわかんないから、ぼーとしてたら、ふすまの向こうから大~~~きい音で・・・。 「愛さずにはいられない」がかかったんです。

 

それをかけたのは、その19歳の男の人の弟で、彼がこのレコードを持ってて、「愛しあうことはかまわないじゃないか」って、フルヴォリュームでかけてきたんです。それが、これで~~! (しばし沈黙)(会場からいきなり拍手) それ以来なんですよ」

 

「いい話だねえ・・・。トムとは20年近くつきあってるけど、その話は初めて聞くねえ・・・」と司会のマイク越谷氏が受けた。

 

そして、ブラザー・トムは言った。「(レコードのジャケットを)見せてもらってうれしくなって!」

 

それぞれの人々にある「愛さずにはいられない」の思い出。トムはこの曲を聞くたびに、ふすまの向こうから大きな音で流れてきたあの光景を思い出すのだろう。見事な「トムの2分間」だった。

 

トムが言った。「息子がねえ、レイ・チャールズが死んだ時、メールをくれたんです。『なんてことだ。レイ・チャールズが死んだなんて』ってね。世代がつながったんです」

 

レイ・チャールズは、トムの母が好きで、トムが好きで、そして、トムの息子も好きなシンガー。3世代に愛されたシンガーだった。

 

(2005年1月28日金曜、銀座みゆき座=映画『RAY/レイ』前夜祭)

 

ENT>MUSIC>EVENT>"Ray" Preview Night

 

■レイ・チャールズ・ベスト

Ray Charles The Ultimate Collection [Import] CD, オリジナルレコーディングのリマスター, インポート

レイ・チャールズ

https://amzn.to/2LIL3Rj

(3枚組で1500円くらい)

 

 

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上記記事のオリジナル・リンク元。

 

2004/11/12 (Fri)

"Ray" This Could Be Jamie Foxx's Career Movie

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200411/diary20041112.html

 

2004/11/13 (Sat)

"Ray" Include Songs From "Live In Japan"

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200411/diary20041113.html

 

2004/11/14 (Sun)

"Brother Ray" (Japanese Translation Version) Will Be Published In January Tied With Movie "Ray"

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200411/diary20041114.html

 

2005/01/17 (Mon)

The Movie "Ray" Portrays Life On The Fast Lane: He Ain't No Cripple Ever Again

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200501/diary20050117.html

 

自叙伝『わが心のジョージア』、日本発売へ。

映画『レイ』の映画評。「わが心のジョージア」の訳詞付き。なかなかよく出来た訳詞ではないかな、と。

 

Brother Tom's Two Minutes: He Talked About When He First Heard Ray Charles 2005/02/02 (Wed)

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200502/diary20050202.html

 

「ブラザー・トムの2分間」は、2006年2月の「ソウル・サーチン・ブログ」の今月のブログに選ばれました

 

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【資料】

 

レイ・チャールズ死亡関連記事。

 

2004/06/12 (Sat)

Soul Legend Ray Charles Died At 73

ttp://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200406/diary20040612.html

 

2004/06/13 (Sun)

"Brother Ray On My Mind": A Tribute To Ray Charles

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200406/diary20040613.html

 

2004/06/20 (Sun)

Everybody Can't Stop Loving Ray

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200406/diary20040620.html

 

(注、葬儀は6月18日に行われました。日記記載の11日は18日の誤りです)

 

2004/06/22 (Tue)

Stevie Talks About Ray: Sung "I Won't Complain"

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200406/diary20040622.html

 

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ENT>MOVIE>REVIEW>Ray

ENT>MUSIC>SONG>Georgia On My Mind

ARTIST>Charles, Ray

 

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■映画『ミスティック・リバー』(ブルーレイ)

 

 

 

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■『ジニアス・オブ・ソウル』DVD

 

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 010 映画『ターミナル』~サインを求める57番目の

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ 010 映画『ターミナル』~サインを求める57番目のミュージシャン■■

 

 

(本作・本文は約4500字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、9分から5分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと15分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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父が大事にしていた雑誌エスクワイアにのったジャズ・ミューシャンの集合写真。父は一人一人サインをもらっていたが、1人だけもらえていないミュージシャンがいた。そのサインを求めに、主人公はニューヨークに旅をするが…。

 

 

2005/01/26 (Wed)

The Movie "Terminal": The Reason Victor Came To USA

(映画『ターミナル』についての感想文です。後半ネタバレになります。先入観なしにご覧になりたい方はご注意ください)

 

約束。

 

東欧の国クラコウジアからある目的を持ってニューヨークにやってきたひとりの男。その名はヴィクター・ナヴォルスキー(トム・ハンクス)。だが彼がジョンFケネディー空港に到着すると、彼の母国でクーデターが起き、アメリカとクラコウジアとの国交が断絶した。そのため、ナヴォルスキーは、アメリカに入国できず、しかも、母国に帰ることもできなくなった。彼はしばし空港内にとどまらなければならなくなった。

 

空港は様々な出会いが訪れる場所。まさに出会いの宝庫だ。そんな中で英語もおぼつかないナヴォルスキーにも様々な出会いが訪れ、ドラマが生まれる。美人のフライトアテンダント、アメリア(キャサリン・ズィータ・ジョーンズ)、国際空港の国境警備主任フランク(スタンリー・トゥッチー)などといったいどんなことが起こるのか。徐々に空港の人たちと親しくなり、友情が深まっていく。彼がいつも大事そうに持っている空き缶の中には何が入っているのか。

 

スティーヴン・スピルバーグ製作・監督のハートウォーミングな映画『ターミナル』だ。

 

予告編

The Terminal (2004) Trailer

https://www.youtube.com/watch?v=dgXyQUMRpj4

 

レンタルあるいは購入

https://www.youtube.com/watch?v=IVoLzA5ymLc

 

 

(以下、ネタばれになります)

 

さて、映画の最後のほうで、ヴィクターがアメリカにやってきた理由が明かされる。彼が常に大事そうに持っていた空き缶にその秘密があった。そこには、40年以上も前に雑誌エスクワイアーに掲載された一枚の大きな写真が入っていた。これは、1958年8月にニューヨークのハーレムで撮影されたもので、59年1月号の同誌に見開きで掲載された。被写体は、ニューヨークで当時活躍していたありとあらゆるジャズ・ミュージシャンたち。カメラマンは57人のミュージシャンを一堂に集めて大きな写真をとった。

 

ヴィクターの父はジャズ好きで、ここに映っている写真のミュージシャンすべてからサインをもらおうと考えた。しかし、父はひとりのミュージシャンのサインをもらう前に他界してしまった。そこで、息子は父の意志をついで、その最後のまだサインをもらえていないミュージシャンに会うために、ニューヨークにやってきたのである。そのミュージシャンこそが伝説のサックスプレイヤー、ベニー・ゴルソンだった。

 

 

東欧からの訪問者、ヴィクターにとってベニー・ゴルソンと会ってサインをもらうことは、父への約束だった。56人のサインのはいった写真を持って、ナヴォルスキーはライヴハウスで演奏している57人目のベニー・ゴルソンの元に歩み寄る。演奏を始めようとしていたゴルソンは、「サインはショウの後で」と答えて演奏を始める。演奏が終って、無事サインをもらえたナヴォルスキーは大喜びしながら、JFKに帰る。

 

 

僕は、こういうストーリーは好きだ。たくさんのアーティストが映っている写真にサインをもらい、最後に残ったアーティストのサインをもらう瞬間って、どんなものだろう。どれほど嬉しいことか。しかも、この場合、そのサインは父と息子という2世代に渡って、完成をみた。スピルバーグは実にうまい物語を作るものだ。職人芸の脚本、そして、もちろん、各俳優のうまさも充分でている佳作だ。

 

そして、そのベニー・ゴルソンが日本にやってくる。サインをもらいに行くしかないではないか。

 

(続く)

 

http://www.terminal-movie.jp/

 

■ブルーレイ 『ターミナル』

https://amzn.to/3e01ULx

(1000円以下)

 

ENT>MOVIE>REVIEW>Terminal

 

2005/01/27 (Thu)

57th Man Benny Golson Live At Blue Note

(昨日からのつづき)

 

57番目。

 

『ターミナル』効果があってか、ブルーノートは火曜日だというのにほぼ満員。『ターミナル』を見た音楽好きは、みなベニー・ゴルソンのライヴがあると聞けば来るだろう。(笑) 観客の中にはマーカス・ミラーの姿も見えた。僕がベニー・ゴルソン名義のライヴを見るのは初めて。

 

今回はドラムス、ベース、ピアノにベニーのサックスという4人編成。みなそれぞれ持ち場をしっかり守り、いい演奏を聴かせる。古いスタンダードナンバー「シュリー・ウィズ・ザ・フリンジ・オン・トップ」で始まったライヴは、2曲目の前でベニーがマイクを持ってこう話し始めた。

 

 

「昨年、私たちはスティーヴン・スピルバーグの映画に出演する機会がありました。映画は『ターミナル』というもので、撮影現場ではスピルバーグやトム・ハンクスたちと楽しい一日を過ごしました。それから帰ってきて、私たちはその映画出演に影響を受けて(インスパイアーされ)、アルバムを作ることにしました。そうして出来上がったのが『ターミナル1』です。そこから、タイトル曲をお送りしましょう」

 

実に渋い。落ち着いた音。ゆったりとした余裕の音だ。ベニー・ゴルソンは1929年(昭和4年)1月25日、ペンシルヴェニア州フィラデルフィア生まれ。ワシントンDCの名門ハワード大学で音楽を学んだという。さすがにインテリだけあって、司会も落ち着いた知性を感じさせた。そして、この日は彼の誕生日ではないか。

 

彼はさまざまなジャズの名曲を書いている。その中のひとつが「アイ・リメンバー・クリフォード」。さすがにこれは人気が高い。ひときわ大きな拍手が彼らを待ち受けていた。

 

ところで、彼がステージに上がっているところで、サインをねだる者はいなかった。(笑) ライヴが終った後、ドラムスのカール・アレンがカウンターのところにいたので声をかけた。「『ターミナル』のライヴシーンではあなたも一緒に演奏していたのですか?」 「もちろん、プレイしていたよ」 「あの撮影はどこで?」 「モントリオールだよ」 「へえ、撮影はどうでした?」 「みんないた。スピルバーグ、トム・ハンクス…。とても楽しかった」

 

映画ではニューヨークの設定だが、なぜか撮影はモントリオールだったというわけだ。

 

ベニー・ゴルソンのライヴ、それは57番目の男のライヴ。

 

Setlist:

 

show started 21:41

1. Surrey With The Fringe On Top

2. Terminal 1

3. Seven Minds

4. Along Came Betty

5. I Remember Clifford

6. Whisper Not

7. (Theme)

Enc.

show ended 23:14

 

メンバー。

 

ベニー・ゴルソン(サックス)、

マイク・ルドン(ピアノ)、

バスター・ウィリアムズ (ベース)、

カール・アレン(ドラムス)

 

Benny Golson(sax)

Mike LeDonne(p)

Buster Williams(b)

Carl Allen(ds)

 

ブルーノート東京で2005年1/24(月)~1/29(土) まで。

 

http://www.bluenote.co.jp/art/20050124.html

 

ベニー・ゴルソン 『ターミナル』

ターミナル

https://amzn.to/3g4boXP

 

 

(2005年1月25日火曜セカンド、ブルーノート東京=ベニー・ゴルソン・ライヴ)

 

ENT>MUSIC>LIVE>Golson Benny

 

 

■オリジナル・リンク

 

2005/01/26 (Wed)

The Movie "Terminal": The Reason Victor Came To USA

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200501/diary20050126.html

 

2005/01/27 (Thu)

57th Man Benny Golson Live At Blue Note

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200501/diary20050127-1.html

 

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〇東京ジャズ・ネットで無料生配信、今週の土日(2020年5月23日、24日)

 

【Tokyo Jazz Will Do Live Streaming May 23 & 24】

 

ライヴストリーム。

 

毎年NHKが国内外の多くのジャズ・ミュージシャンを集めて行っているジャズ・フェス、イヴェント『東京ジャズ』の2020年回は5月23日、24日に渋谷のNHKホールなどで行われる予定だったが、今回のコロナ禍のため、中止となったが、その日にネットを通じて、さまざまなアーティストがライヴ・ストリーミングで登場することになった。これらの配信は、NHKの東京ジャズのサイトで視聴可能。無料。

 

配信は2020年5月23日(土)・24日(日)日本時間20時から22時の予定。東京ジャズ公式ユーチューブ・チャンネル。時間になると下記のサイト内ユーチューブ・チャンネルに画面がでてくるものとみられる。

 

https://www.youtube.com/channel/UCe1qRn-d2Z9yXsdea9zb7Ng/

 

https://tokyo-jazz.com/

 

ライヴ・ストリーム出演アーティストの第4弾が5月21日に発表された。

 

https://tokyo-jazz.com/news/234/

 

たとえば、上原ひろみとジョシュア・レッドマンはオンライン・リモート・セッションを繰り広げるという。

 

▶出演予定(50⾳順) 上原ひろみ H ZETTRIO Ovall × Gotch ⼩曽根真 featuring No Name Horses ⼩⽥朋美 × 中⼭晃⼦ 川⼝千⾥ ゴーゴー・ペンギン Still Dreaming with ジョシュア・レッドマン、 ロン・マイルス、スコット・コリー & デイヴ・キング チック・コリア ティグラン・ハマシアン ディマシュ・クダイベルゲン TRI4TH feat. チャイナ・モーゼス 挾間美帆 m_unit バルトロメイ・ビットマン 平原綾⾹ ⽇野皓正 fox capture plan ボブ・ジェームス マイケル・リーグ from Snarky Puppy マンハッタン・トランスファー ミシェル・カミロ ミシェル・ンデゲオチェロ ラリー・カールトン リー・リトナー ロベルト・フォンセカ feat. ダナイ・スアレス デイヴィッド・サンボーン やのとあがつま(矢野顕子&上妻宏光)

 

▶MC ハリー杉⼭ セレイナ・アン

 

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東京ジャズは2002年から始まり、今年で19回目。基本的にはNHKのテレビ番組で放送することを前提に日本を含む世界各地から若手、ヴェテランなど多くのジャズ・ミュージシャンを招いてライヴを行っている。今年も、5月23日、24日には渋谷のNHKホールとその周辺で多数のライヴが行われる予定だったが、コロナ禍のために中止になっていた。

 

~~~

 

ツイッター

 https://twitter.com/Tokyo_Jazz_Fes

フェイスブック

https://www.facebook.com/tokyojazzfestival

 

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小曽根真さんの『ウェルカム・トゥ・アワ・リヴィング・ルーム』はこの2日だけ19時スタートへ。

 

2020年4月9日以降自宅リヴィングから毎晩21時に生配信している同プログラムは、この東京ジャズの配信と時間がかぶるため、この二日間だけ19時から20時までになる。

 

この『ウェルカム・トゥ・アワ・リヴィング・ルーム』については改めて。

 

ENT>TOKYO JAZZ 2020

 

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ 011 『シリー・ラヴ・レターズ~サマー・オブ・’87 ■■

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■■ソウル・サーチン・アーカイヴ 011 『シリー・ラヴ・レターズ~サマー・オブ・’87 ■■

 

(本作・本文は約6300字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、13分から6分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと21分くらいの至福のひと時です。ただしリンク記事を読んだり、音源などを聴きますと、もう少しさらに長いお時間楽しめます。お楽しみください)

 

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学生時代にこんな夏休みを過ごせたらとても素敵だ。僕も大好きなストーリー。なんか小品の映画にできそうなストーリーです。曲のリンクもつけましたので、ゆっくりお楽しみください。

 

August 15, 2006

Silly Love Letters: Postcards Of Summer of 87 (Part 1 of 2 Parts)

 

夏休み、お盆スペシャルとして、今日と明日に分けて、二人の大学生のとある夏の物語をお送りします。ノンフィクションですが、登場人物は仮名です。

 

【「シリー・ラヴ・レターズ」パート1】 

 

1987年夏。二人の大学生が2ヶ月の夏休みの間にアメリカ本土全州制覇をする計画を立てた。そのうちの一人が、ガールフレンドに毎日絵葉書を描き綴り各地から送った。一体どのような旅になったのか。その絵葉書は、どうなったのか。とあるサマー・オブ・87の物語・・・。

 

■登場人物 

 

イチロー=日本からの大学生 

チューイ=イチローと同じ日本の大学からやってきた大学生 

アイリス=イチローのガールフレンド

 

【シリー・ラヴ・レターズ~87年夏の絵葉書の物語】

 

+++Conquer.

 

制覇。

 

1986年夏。アメリカ・アイオワ州。

 

日本からアメリカ中西部の大学に1年間交換留学で勉強しにいくことになったイチローとチューイ。それぞれ進む大学は違っていたが、最初の一ヶ月間だけはアイオワ州の片田舎にあるサマースクールで、他の留学生たちと基本的な英語などを学びながら共に過ごしていた。二人は同じ大学出身ではあったが、学部が異なっていたため初対面だった。しかし、次第に意気投合し、一年の留学を終える翌年6月の再会を約束した。アメリカの学校の夏休みは6月末から9月末くらいまで、約3ヶ月ある。そこで日本に帰る前のその夏休みに一緒にアメリカを見て周ろうという話になった。

 

イチローは、かつて訪れたことがあったいくつかのアメリカの国立公園の素晴らしさをチューイに話した。「じゃあ、夏休みを利用して、アメリカ全土の国立公園を制覇しようではないか」というアイデアが生まれた。国立公園について調べてみると、ほとんどの州に最低ひとつはあったが、一方でひとつもない州もいくつかあった。そこで、どうせなら、ハワイとアラスカを除くアメリカ本土全48州を訪れ、すべての国立公園を車で走破しようということになった。目標期間は約2ヶ月。二人はその計画を胸に秘めて、それぞれの留学先の大学へ向かった。

 

 

+++Departure

 

出発。

 

1987年初夏。

 

それから一年は瞬く間に過ぎた。各々がそれぞれの地で勉強をし、アメリカでの生活にも慣れ、英語も日常会話なら困らない程度にはなっていた。

 

 

アイオワ州で再会したイチローとチューイは、中古車屋を回りおんぼろのダッジ・オムニを2000ドルで買った。それほどお金に余裕がない学生には一人1000ドルでもぎりぎりだった。そのダッジ・オムニに荷物を全部積み込んでアイオワを出発した。イチローがアメリカ本土全48州とそこにあるすべての国立公園を経由する綿密な予定ルートを立て、時計回りにアメリカ大陸の旅を始めた。イチローが留学先で出逢ったガールフレンドのアイリスも彼女の実家があるシカゴまでは一緒に行くことになった。

 

 

車ではカーラジオをつけたり、ラジオが聞こえなくなる地域では、音楽が大好きなイチローが各州にちなんだ曲を集めて作ったテープが旅のお供になった。ラジオからはU2の「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」などがよく流れてきた。

 

U2 - With Or Without You

https://www.youtube.com/watch?v=ujNeHIo7oTE

 

 

 

出発地アイオワ州からシカゴまでの1週間はイチローとチューイがかわるがわるに運転をしながら、アイリスも含めて和気あいあいだった。大小の湖が次から次へと現れるミネソタ州。ここを走る車のナンバーには、「一万湖の国(Land Of 10000 Lakes)」と書かれていた。そんなミネソタを北上し、キャンプをしながら旅は進んだ。ミネソタの東に位置するウイスコンシン州に入り、そこからイリノイ州へ南下、やがてシカゴに近づくにつれて、イチローとアイリスの表情に曇りが見えるようになった。アイリスをシカゴまで送った後は、アイリスと別れいざ男二人旅になるからだ。

 

++Silly Love Letter.

 

手紙。

 

シカゴを出発するときイチローはアイリスに約束した。「毎日、いや、最低でも州ごとに一通ずつ絵葉書を出すから」と。イチローとチューイはアイリスに別れを告げて、さらに東へ向かった。

 

イチローとチューイのアメリカ本土全州制覇は、ちょっとした珍道中となった。毎日毎日ただひたすら次の目的地へ向けて車を走らせた。都市はやがてどの都市も同じに見えるようになってきた。ビル街のあるダウンタウン、そして郊外に行けば、見慣れた田園風景。田舎の町並みもどれも同じになった。どこへ行ってもおなじみのファースト・フード店が並び、同じチェーン店のガソリン・スタンドがあり、大きなスーパーやドラッグストアも大差はなかった。1日2回ガソリン・スタンドへ寄って、ガソリンをセルフサーヴィスでいれ、そこで食料を調達する以外はひたすら走り続けた。たいくつな風景にベリンダ・カーライルの「ヘヴン・イズ・ア・プレイス・オン・アース」がよきサウンドトラックになった。

 

Belinda Carlisle - Heaven Is A Place On Earth (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=P-WP6POdTgY

 

 

 

イチローが運転している間、チューイはぼーっと外を眺め、ほとんど静止画像のような景色を眺めていた。一方、チューイがハンドルを握っているときは、イチローはよくアイリスへの絵葉書を書いていた。新しい州や国立公園に到着するたびに絵葉書を買って、彼は揺れる車内でいつも何かを書いていた。そして、この絵葉書に彼はタイトルをつけたのだ。

 

それは、「シリー・ラヴ・レター(Silly Love Letter)= 愚かなラヴ・レター」というものだった。ポール・マッカートニーの「Silly Love Songs(シリー・ラヴ・ソングス)」という曲のタイトルをもじったもので、そして、彼は一通ごとに書いた順に「通し番号」を打った。Silly Love Letter #3 とか Silly Love Letter #35 といった具合に。

 

Silly Love Songs - Paul McCartney & Wings - 1976 [HQ]

https://www.youtube.com/watch?v=wh15LOppcWQ

 

 

 

イチローは手紙を書き終える度にその絵葉書をポストに投函したが、おもしろいことに郵便事情で、アイリスの元にはその絵葉書は通し番号順には到着しなかった。#3の次に#5がきたり、#20の次に#21が来たかと思えば#19がその後に来たりといった具合だ。イチローは毎日「シリー・ラヴ・レター」を書いては投函していたが、アイリスの所には毎日1通ずつきっちり届くかというとそうでもなく、1日1通の時もあれば、2-3日まったく来ないでその後3-4通一緒に来てしまうこともあった。シカゴで受け取るアイリスはいつしかその葉書を通し番号順に並べて壁に貼るようになった。

 

日ごとに壁を埋め尽くしていく全米各地からの絵葉書たち。アイリスの全米の壁は、アメリカ中のもっとも美しい景色ばかりを彩る壁になっていった。ジグゾーパズルのピースがひとつひとつ埋められていくように、毎日のように届く一枚一枚の絵葉書が少しずつその壁を埋めていった。

 

(続く)

 

ENT>MUSIC>ESSAY>Silly Love Letters

 

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August 16, 2006

Silly Love Letters: Postcards Of Summer of 87 (Part 2 of 2 Parts)

 

夏休み、お盆スペシャルとして、昨日と今日に分けて、二人の大学生のとある夏の物語をお送りします。ノンフィクションですが、登場人物は仮名です。

 

【「シリー・ラヴ・レターズ」パート2】 

 

87年夏。二人の大学生が2ヶ月の夏休みの間にアメリカ本土全州制覇をする計画を立てた。そのうちの一人が、ガールフレンドに毎日絵葉書を描き綴り各地から送った。一体どのような旅になったのか。その絵葉書は、どうなったのか。とあるサマー・オブ・87の物語・・・。

 

■登場人物

 

イチロー=日本からの大学生

チューイ=イチローと同じ日本の大学からやってきた大学生

アイリス=イチローのガールフレンド

 

+++Postcards Of Summer Of 87

 

感動。

 

旅を続け、そこで触れる大自然は素晴らしかった。どの国立公園も景色が異なり、新たな国立公園に到着するときはいつも期待で胸が高まった。国立公園以外でも大自然は常に二人を魅了した。

 

ナイアガラの大瀑布(だいばくふ)、エメラルド・グリーンの海を走るキーウエストへのまっすぐの道、遥か谷底をメキシコとの国境を成すリオ・グランデ河が流れる絶壁、カリフォルニアの猛烈な砂漠の暑さ、地球上とは思えない不思議で壮大な景色が続くユタの巨石群、樹齢2000年以上でその周囲が20メートル以上のセコイア杉が無数に佇む森、ワイオミングの雄大な山々をバックに動くバッファローの大群、巨大な地下ドームが突然現れる洞窟とその入口を守る無数のコウモリ、標高4000メートル以上まで車で登り夜明けを迎えたロッキー山脈の神々しい山々。夜、国道でヘッドライトを消すと真っ暗闇になり、夜空に数え切れないほどの星が瞬いた。アメリカの大きな自然を彼らは感じ続けた。

 

 

 

イチローは、そんな大自然の感動を一枚一枚アイリスへの絵葉書にしたためた。全米の自然の雄大さがイチローが綴る絵葉書に載ってアイリスの元へ届いた。

 

 

街を抜けるとしばらくは砂漠のど真ん中にある道をひたすら走るだけで、景色はほとんど変わらないこともしばしばだった。国立公園でトレッキングしたりする以外は、毎日1日12時間以上走ってほとんどの時間を車の運転で過ごしていた。次第に二人は話すこともなくなってきた。

 

 

タイアが一度もパンクしなかったことが奇蹟だった。エンジンも、丈夫でエンストすることは一度もなかった。しかし、まずはパワーウインドウが効かなくなり、窓の上げ下げは手動になった。やがてエアコンも壊れ、そしてパワーステアリングがだめになり、ハンドルを回すのにも大変な力が必要になっていた。オイル漏れもひどかった。ガソリン・スタンドで直せるものは直してもらった。一度はそれでもだめで、イエローページで自動車工場を探し、訪ねたこともあった。2000ドルの中古車で全米を制覇するなどというのが、もともと無謀だったのだろうか。車の悩みは尽きなかった。旅の間中、決して壊れることはなかったカーラジオからは、ハートの「アローン」が何度も流れていた。

 

Heart - Alone (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=1Cw1ng75KP0

 

 

 

 

+++Keep On Driving, Sleeping In The Car

 

走行。

 

ある街ではこの車を売って新しい車にしようかとも考え、中古車の店に行ったが、いくらかつくかと思ったら、「置いてってもいいよ」としか言われなかった。つまり、値段は付かないのだ。捨てる費用がかかるが、それはいらないという程度のものだった。フリーウェイをまっすぐ走るだけだったら、何も問題はなかったし、余分なお金もなかったので、そのまま旅を続けた。ただ駐車するときや、細い道でハンドルを細かく切らなければならないときなどは汗だくの重労働だった。

 

食事はガソリン・スタンドやコンビニのようなところで、3本1ドルのホットドッグを買ったりしてすませた。レストランなどでの外食はせずにほとんど自炊だった。チューイの持参した自炊セットで、お湯を沸かしインスタント・ラーメンを作ったり、スーパーで買ったパンとハムで作ったサンドイッチが主食となった。最初はキャンプ場でテントを張って泊まっていたが、やがてはテントを張ることも面倒になり、かつ僅かなキャンプ場の使用料も節約するために、車の中で寝ることが多くなった。

 

 

「遅番」がまだ寝ているうちから「早番」が先に起きて運転を始め、やがて「遅番」が起きて朝食の用意をし、昼過ぎからは「遅番」が運転をして、夜は「早番」が先に寝て、「遅番」は自分が眠くなるまで運転して、眠くなったら車を道端に停めて寝る。いつの間にかそんなパターンの毎日となった。幸い、危ない目には一度も遭わずにすんだ。車もおんぼろの中古車だったし、二人とも日焼けして汚い格好だったせいか、周囲に気をとめられることもなく、悪い連中からもからまれることはなかった。彼らは走り続けた。スターシップの「ナッシングス・ゴナ・ストップ・アス・ナウ」は、春先からヒットしていたが、夏の間中も、全米どこの地域へ移動してもラジオから流れてきた。「何も俺たちを止めるものはない」。まさに二人のテーマと重なっていた。

 

Starship - Nothing's Gonna Stop Us Now (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=3wxyN3z9PL4

 

 

 

街と街の間で、ラジオの電波が入らない場所がいくつかあった。そういうところでは、チューイはボブ・ディランをかけたり、イチローはジャクソン・ブラウンのテープをかけたりもした。二人のお気に入りのポール・サイモンやブルース・スプリングスティーンのテープも何度も聴いた。こうした曲は彼ら二人の、87年夏の思い出の曲となっていった。それらの曲を今聴くと、瞬時に彼らを87年のあの夏に連れ戻してくれるのだ。

 

Paul Simon -Still Crazy After All These Years

https://www.youtube.com/watch?v=Zo1naJEacE8

 

 

 

Bruce Springsteen - Born to Run (Official Music Video)

https://www.youtube.com/watch?v=IxuThNgl3YA

 

 

 

+++Hey Mr. Postman

 

ポストマン。

 

アイリスはその「シリー・ラヴ・レター」を毎日、楽しみに待った。日々、イチローたちがどこの州の何という街にきているのか、何をしたかなどが刻々と報告されてきた。絵葉書に書かれているイチローたちが聴いている同じ曲をラジオで聴いたり、時にレコードをかけながら絵葉書を読んでいると、彼女自身もイチローたちと一緒に全米を旅しているかのような気になった。彼らは同じアーティストの同じ曲でもつながっていた。

 

Eメールも、ファクスもなかったその頃の唯一のコミュニケーションの手段。それが肉筆の手紙、しかもコピーも存在しない世界でたった一通のイチローからアイリスへの絵葉書だった。アイリスは毎日ポストマンがやってくる時間になると、自宅のポストの前で待ち構えることもあった。やがて、やってくるポストマンの顔も覚えた。

 

ある時、アイリスが買い物にでかけた時、街中(まちなか)でいつものポストマンが郵便配達をしているところを見かけた。前々日から「シリー・ラヴ・レター」が来ていなかった。そこで、思い切って彼女はそのポストマンのところに駆け寄って尋ねてみた。「私はモンティセロ通りに住んでいるアイリスです。今日、私宛の絵葉書はないかしら?」 

 

するとそのポストマンは最初怪訝そうに彼女を見つめたが、ふと何かがわかったような顔をして言った。「君は『シリー・ラヴ・レター』のことを話してるのかな?」 ポストマンも見て知っていたのか、あるいは毎日のように届くその絵葉書を見るでもなく覚えてしまったのか。 「そうよ!(苦笑) 今日は来てないの? 私宛の『シリー・ラヴ・レター』!」  

 

彼はものすごく残念そうな顔をして彼女に言った。「I’m so sorry.(ごめんなさい)」。それを聞いてアイリスは今日もまた来ていないのかと落胆して肩を落としつぶやいた。「OK…Thank you…(わかりました。ありがとう)」。だが、その後すぐにポストマンがにっこりしながら付け加えた。「Today, I have only 3 Silly Love Letters !(今日はシリー・ラヴ・レターはたったの3通しか来てないよ !)」。そして、ポストマンは黒いバッグから3通の絵葉書を取り出しアイリスの手に渡した。アイリスはポストマンに抱きついた。

 

+++Wall Of Iris

 

壁。

 

結局、イチローとチューイの旅は約2ヶ月と2週間続き、出発地のアイオワに戻ってきた時、全48州を横断したダッジ・オムニの走行距離は5万マイル(8万キロ)を超えていた。軽く1日1000キロ以上走った計算になった。

 

イチローが書き綴った最後の「シリー・ラヴ・レター」はちょうど60通目となり、その後シカゴでアイリスがイチローに再会した数日後に到着した。だが、1通だけアイリスの元に届かなかった絵葉書があった。イチローとチューイのアメリカ本土全州制覇の旅は無事終わり、3人は再会し59通のシリー・ラヴ・レターはアイリスの壁に貼られたが、1通のシリー・ラヴ・レターの放浪の旅はまだ続いている。

 

彼らがシカゴに戻ってきた時、イチローとチューイの「サマー・オブ・87」は終ろうとしていた。ロス・ロボスの「ラ・バンバ」が彼らの帰還を陽気に迎えているかのように、はしゃいだサウンドをラジオから流していた。ジグゾー・パズルのピースが一枚だけ欠けているアイリスの壁は、1987年夏の3人にとって大切な宝物のような思い出になった・・・。

 

Los Lobos - La Bamba (Original Videoclip)

https://www.youtube.com/watch?v=nLAWPrCUQQ0

 

 

 

(おわり)

 

(名前はすべて仮名ですが実話を元にしたストーリーです)

 

ENT>MUSI>ESSAY>Silly Love Letters

 

■オリジナル・リンク

             

August 15, 2006

Silly Love Letters: Postcards Of Summer of 87 (Part 1 of 2 Parts)

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200608/2006_08_15.html

             

August 16, 2006

Silly Love Letters: Postcards Of Summer of 87 (Part 2 of 2 Parts)

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200608/2006_08_16.html

 

 

 

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〇川崎シュガーシャック、クラウド・ファンディング開始

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〇川崎シュガーシャック、クラウド・ファンディング開始

 

川崎のSoul Bar Sugar Shack 存続プロジェクト。

 

今年開店から30周年となるソウルバー、川崎「シュガーシャック」がこのコロナ禍のため、クラウド・ファンディングを開始した。2020年7月10日23時59分まで募集。ファンディングはこちら。

 

 

https://bit.ly/2zlrHz5

 

決済の方法は、

クレジットカード払い

(Visa / Mastercard / JCB / Diners Club / American Express)、

コンビニ払い(全国の主要コンビニエンスストア)、

銀行振込、

auかんたん決済、

ソフトバンクまとめて支払い

ワイモバイルまとめて支払い、

ドコモ払い、

PayPal、

FamiPay

が利用できる。

 

約50日で目標200万円。

1000円から3万円まで各種リターンがある。

 

川崎に移転してからでも、はや10年。時が流れるのは早い。

 

「いつも、そこにシュガー・シャックがあり、必ず石川さんがいるという安心感。それがソウルバーの魂。ソウルバーの灯を消すな」。

いつもお世話になっているので応援しています。

 

 

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プロジェクト、石川さんの序文

 

はじめに

 

川崎に移転してきて11年。シュガーシャック として30年の月日を皆様と共に過ごさせていただきました。 ソウルバーとしてひたすら走って来ました。心から感謝しております。

 

シュガーシャックを目指して通っていただいてる皆様。

 

コロナウイルスの影響による緊急事態宣言を受け、シュガーシャックは4月から長期休業しておりました。

現在は、なんとかしなくてはいけない。と週末の時短営業を始めたところです。

今後、緊急事態宣言が解除されたとしても、バー営業は自粛要請がされる可能性があること。感染防止策をとっての営業や長期的な影響を踏まえましても、大変厳しい状況であることに変わりありません。

 

これから先のめどが立たない中、まだまだ皆様と一緒に過ごせる場所を維持したい。しかしこのままでは、全く何もしないまま過ぎ去ってしまいそうです。

こういった形でのお願いは本来ではありえないことと思いますが、お店存続のため皆様からの力をお借りしたくプロジェクトを立ち上げました。

 

シュガーシャック でしか味わえない時間をこれからも共有できればと思っています。

ご支援をよろしくお願いいたします。

 

SUGAR SHACK オーナー石川比呂哉

 

 

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*本プロジェクトはAll-in方式で実施します。目標金額に満たない場合も、計画を実行し、リターンを履行します。

 

 

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シュガーシャックにはいろいろお世話になっている。過去関連記事は次の通り。

 

■ シュガーシャック過去関連記事

 

川崎のソウルバー「シュガーシャック」初訪問

2009年09月24日(木)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10349279655.html

 

January 25, 2008

シュガー・シャック秘話

http://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10067877316.html

 

January 24, 2008

Sugar Shack Is Forever

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10067672708.html

 

January 15, 2008

Yokohama’s Number One Soul Bar, Sugar Shack Closed After 18 Years

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10065879860.html

 

November 17, 2007

Yokohama’s Number 1 Soul Bar “Sugar Shack” Will Be Closed After 17 Years

【横浜のソウルバー「シュガーシャック」、2008年1月に閉店へ】

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10056386673.html

 

 

■ シュガーシャック

 

Soul brothers Bar SUGAR SHACK

郵便番号210-0006

神奈川県川崎市砂子2-11-21 深沢ビル3F

電話 044-223-8131

 

【営業時間】

[月 ~ 土]  18:00~翌3:00

[日・祝日] 19:00~翌3:00

 

【定休日】 日曜日(日・月が祝日の場合には日曜日に営業し月曜日が定休日になります。)

 

【HP】

https://sugarshackowner.jimdofree.com/

 

【地図】

https://goo.gl/maps/hgFtdkLSf8QhPgat9

http://sugarshack.jimdo.com

 

ENT>SOUL BARS>Sugar Shack

ENT>EVENT>Anniversary>Sugar Shack

 

左から、佐代子さん、石川さん、吉岡、オッシー(2019年4月)

 

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記事終了

 

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